真暗ノ記録 / 虚光ノ想憶

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Thanks for Resistance‼

動画掲載の許可をいただきました。本当にありがとうございます!

おっちゃ さん YouTube

リオン / 火の灯るとき

灰色の瞳が文を追っていた。

『王とは征服者ではない』
『王とは国家の象徴である』
『王とは国民の代表である』

並び立つのは王が志すべき言葉の数々。
しかしそれを映し出す瞳には、
感心や発見といった彩りが表れることはなかった。

そんな事は知っていると、退屈そうに息を吐く少年。
 一国の王子である彼は、未来の為、
王としての知識を蓄えようとしていた。

「結局この本も、同じような話ばかりだ……」
王子は読み終えた本を閉じ、蔵書室へ向かうことにした。

王子が先程まで読んでいた本を手に自室を出ると、
警備兵達が、張り詰めた表情で警備している様子が目に入る。

今日は調印式だった。

少年のいる王国に対し、隣国が持ち掛けた条約は、
王国へ資源を供給する代わりに、
『機械兵』を提供して欲しい、といった内容だった。

王国は現在、機械兵の開発に注力している。
人口の少ない隣国にとって、兵力の確保は難題であり、
自律戦闘を行う機械兵は、 
その打開策となり得るものと判断したのだろう。
王国側としても、開発の為の資源は多ければ多いほど良い為、
条約の締結はやぶさかではなかった。

大理石の床が、王子の足音を響かせる。
城内は広く、蔵書室まではそれなりに距離があった。
警備兵達に挨拶をしながら、彼は調印式の事を考える。

彼はまだ、こういった国同士のやり取りという物を、
実際に見たことがない。
将来を考えるなら、調印式については知るべきだと、
王子は思っていた。

そうだ、こっそり様子を見に行こう。
これは後学の為なのだから。

王子はそう自分に言い訳をして、
蔵書室に向かう道すがら、応接室の様子を窺うことにした。

既に相手国の人間が到着していたらしく、
応接室の周囲には、何人もの大人たちが集まっている。

警備の王国兵と、国王の護衛として訪れた、隣国の兵士たち。
列席する多くの大臣や書記官。そしてその中央には両国の王。

王子はその中に一人、少女が混じっている事に気付いた。

多くの大人たちに物怖じもせず、
白いスカートを持ち上げ、上品な仕草で頭を下げる少女。
見覚えのある横顔を見て、王子は思い至る。
隣国の王にはご息女がおられる、彼女がそうだ、と。

先程まで読んでいた本の記述を思い出す。
彼女自身は王ではない。しかし、王家の人間が振舞うべき、
誇りある態度を理解している。王子にはそう感じられた。

それと同時に自分を省みる。
彼女のような自信に満ちた振る舞いが、
自分に出来るだろうか?

そう考えていると、視線に気付いた少女が振り向いた。 
咄嗟に、王子はその視線を遮るように、本で顔を隠す。

それを見た少女は、王子の方へ近づいて来た。

動揺を隠せずまごつく王子、その目前で立ち止まった少女は、
躊躇いも無くこう言い放った。

「あんた、この国の王子でしょ? なんか弱っちそうね」

「なっ……」 

王子は先程までの考えを早々に否定する。
初対面の相手を侮辱する人間が、誇りある人間の筈がないと。

「あ、貴女だって一国を治める王の娘でしょう!?
 そういった言葉遣いは、褒められたものでは……!」

彼なりの対抗意識なのか、王子は自分の考えを主張する。
しかし沼に杭、
彼女はその主張には、まるで興味がなさそうだった。

「いいからそういうの。それよりもさ……」
「そういうのって……私は……!」

主張を続けようとする王子の口を遮るように、
少女は指を突き出す。
そして桜色の唇を、ふっと綻ばせてはこう言った。

「私と一緒に遊ばない?」

灰色の瞳は混乱し、白黒と色を変えた……

「こんなことをして、後で問題になっても知りませんよ……」
ぐったりとして、呆れた様子で王子が呟いた。
彼の白色の髪には、ほんのりと汗が絡んでいる。

王子と王女の二人は中庭を目指し、
城内の警備網を掻い潜ろうとしていた。
王女は外で遊ぼうと主張したが、城外への通路は警備が厚く、
二人は――というより王女は――中庭へ向かうことを、
余儀なくされたからだ。

「大丈夫でしょ。私、外面良いし」
隣国の王女は、臆面も無くそう言ってのける。
彼女は王子とは対照的に、その目を爛々と輝かせ、
物陰から警備兵を見詰めていた。

だが王子も、彼女の言葉を否定することは出来なかった。
彼女の貞淑な態度については、彼も耳にした事があったのだ。
もっとも、かの国の王女は人間味が薄く不気味、
というような内容ではあったが。

だからこそ王子は、 彼女が見せる態度の意味を考えていた。
品行方正な態度が偽りの物だったとしても、
それを今見せない理由は何なのか。

「けど、ここを通るにはあの兵士がやっかいね……
 あんた、何か思いつかない?」

王女がぼやく、
王子は懐中時計へと目を落としたしたまま考え込んでいた。

「ちょっと……聞いてる?」
王女が王子の手首を掴み、非難するように顔を近寄せる。
「あ、済みませ……」
彼がそう言いかけると、今度は王女の方が考え込んだ。

「時計……」
そう呟く口元は、ゆっくりと笑みを浮かべていく。

「ねぇ、今夜食事会があったわよね?」
彼女は声の調子を上げてそう言った。
調印式が終わった後の、会食の事だろう。
王子の返答を待たず、彼女は言葉を連ねていく。

「なら、城の警備は夜まで続くはず。
 あの兵士にも交代の時間があるんじゃないかしら?」

そこまで説明されて、
王子も彼女の言わんとしている内容が理解できた。
しかし、賛同できるかは別の話である。

「さっきのあんたみたいに時計を見る可能性、あるわよね?」
「……まさか、その間にここを通り抜けると?」

冷や汗を垂らす王子、察しが良いわねと笑う王女。

「いくら時計を確認していても、足音はどうするんですか?」
「立てないように走ればいいじゃない」
「そんな……」

彼が何を言っても、王女はそれを改めるつもりはないらしく、
その瞳はまっすぐと兵士を捉え、
今か今かとその時を待っている。

正直なところ、王子も彼女を説得するのは半ば諦めていた。
彼女の行動力は、
言葉や理由で押さえつけられる物ではない、と。

そうこうしているうちに、 その時が来た。

警備兵が自動小銃から片手を放し、左手首を顔に寄せる。
あくびをする兵士は、
交代の時間を心待ちにしていたのかも知れない。
十秒にも満たない、ごく僅かな間隙。
王女はそれを見逃さず、 王子の襟首を掴んで書き出した。

二人は兵士の眼を逃れ、廊下を静かに走り抜ける。
王子も引っ張られながら、
転ばぬよう必死に王女の後を走った。

「やった……!」
王女は歓喜の声を漏らし、
ようやくたどり着いた中庭への扉に手をかけた。

「な、何よこれ……」

息を切らした王子をよそに、王女はある事実に愕然とする。

中庭の周囲には窓があり、その付近には警備兵がいたのだ。
彼等の視線から逃れようとすれば、 いくら中庭と言えど、
動ける範囲は限られている。

「これじゃあ、遊べないじゃない!」
「ちょっと、声が大きいです……!」

結局、 二人は警備の眼から逃れるように、
植え込みの影に座り込んでいた。
天頂より射す陽の光は、二人の影を芝生に落としていたが、
それも他の者に見えることはないだろう。

「はぁ、全く……とんだ骨折り損ね」

城に囲われた四角い空。
それを眺めながら、王女が不満げに呟いた。

隣り合い、芝の上に座る二人。
先程走ったことで、まだ息が整わない王子と、
退屈そうに空を見上げる隣国の王女。
運動をし足りず、不満気な態度の彼女も、
苦しそうに息を切らす王子を気の毒に思ったのか、
もう無理に遊ぼうとは言わなかった。

「遊ぶと言っても、何をされるつもりだったんですか……?」
王子が尋ねた。

「え? うーん……」
顎に手をあて、分かりやすく考え込む、あるいは、
そう見せかけた彼女は、しばらく唸ってから答えた。
「いや、考えてなかった」
「……結構、行き当たりばったりなんですね?」
「うん、遊びなんていくらでもあるかなって」
ははは、と王子は苦笑する。

先天的に体が弱く、知識に重きを置いた、内向的な少年と、
生来快活で、自身の勘を信頼する、行動的な少女。
お互いに、初めて相対するタイプだったが、
二人の会話は弾んでいるように見える。

「文字からじゃ、身に付かない事もあるわよ」
「そうですね、自ら体験しないと分からないこともあります」
「なんだ、分かってるじゃない」
「少なくとも、今日は特にそうでした」
「ふふ、なにそれ」

彼女が笑う。自然と王子も笑っていた。
「……変わった王女様ですね」
「あんたも相当ね」

二人の頭上で、黒い尾羽の小鳥が囀ずる音がする。
「何か話でも聞かせてよ。あんたの方が得意でしょ」
王女は王子の顔を覗き込むように言った。
「話……ですか……」
「どんな王になりたいとか、こんな国にしたい、とかさ」

彼女はまっすぐ王子の眼を見詰めて、話を待つ。
「普通だって、笑わないでくださいね……」
王子はそう断ってから、持っていたままの本で、
口元を隠しながら言葉にした。

「やっぱり、争いのない国にしたいです。
 世界にはたくさんの人が居て、多くの素敵な物がある。
 皆が協力できたら、更に素敵な物が生まれると思うんです」

同じ目標に皆が進めるなら、誰も誰かの犠牲にならずに済む。
それが彼の願いだった。

「貴女はどうですか?」
「私はね……」

その時、二人に割り込むように、無機質な電子音が響く。
音が鳴っているのは王子の懐からだった。
「……済みません。父からです」
話の腰を折ってしまったことに、王子が頭を下げた。
「気にしないで」
王女のその言に、彼は再び謝罪をして、
その場から遠ざかった後、通信機を耳に近寄せた。

「今、何処で何をしている」
通信の相手は彼の父、この国の王だ。
「あ、え……と……」
王子の顔が強張り、声が掠れる。

今、自分は警備の目を逃れ、中庭へ出ている。
それも、隣国の王女を連れて。
真実を言えば罰を受けるだろう。
だが父は、嘘で欺ける相手でもない、
彼の睫毛へ、冷や汗が流れ落ちた。

「中庭に居ます」
王子は隠さず真実を述べた。
行動の責任は負わなくてはならない。そう考えたからだ。
「近くに他の人間は居るか」
王の言葉は、ただ簡潔に情報だけを問いかける。
王子はそれがどうにも恐ろしかった。
「隣国の、王女様が……」
絞り出すように答えを述べる王子は、
心配そうに彼を見る視線に気付かない。

「……大丈夫?」
心配そうに王女が彼の表情を窺う。
それに気付いた王子は、額の汗を拭って、
済みません、大丈夫ですと答えた。

「ええと、それで…..何の話でしたっけ?」
平静を装おうとする言葉が、かえって焦りを生んでいる。
だが王女は、それに言及する事はしなかった。

「さぁ、忘れちゃった」

「ところで…..どうして私を誘ったんですか?」
気にかかっていたことを、王子が口にする。

だが彼はまだ、父からの電話を気にしていた。
父が言った、「そこに居ろ」という言葉。
怒られると思っていたからか、その言葉が何か、
不穏な気がしてならなかったのだ。

「あー……」
問いかけられた王女は、ばつが悪そうに頬を掻く。
「いや、ね」
言葉を細かく区切りながら、時折首をかしげて、
彼女は慎重に言葉を紡いでいく。
「あんたもそうだと思うけど、
 私の境遇は……ちょっと特殊だから」
王女は何を見るでもなく、前を向いて話す。

「パパもママも忙しそうだし、他の大人だってそう。
 鏡の前以外じゃ、子供を見かける機会もない」
兄弟がいたら違ったかも知れないけど、と彼女は付け足した。

「私は人の前ではこうしないとって、ずっと考えてたんだ」
そう言って彼女は王子の方へ向き直った。
王子も視線に気づき、彼女の顔を見る。

「だから……さ、対等に話せる相手って――」

しかし王子は、その言葉の先を聞き取ることが出来なかった。

掻き消されたのだ。
彼は気付く、父の匂いに。硝煙の匂いに。

全ての音が消え失せたような感覚の中、
彼は呆然と、白い布が赤く染まっていくのを眺めていた。
それを止めることは、最早叶わない。

王子は理解した、理解してしまった。
ようやく聞こえて来た軍靴の音で。
動かなくなった桜色の唇を見て。

父の兵が、王女を射殺した事を。


「ご苦労」
低い声が、王子の耳に届いた。

現れた国王が掌を挙げると、兵士が銃を下ろす。
「全く、恐ろしい国だ」
王の顔が苦々しく歪み、語りだす。

「調印式の影で、王女まで用いた策謀を巡らせていようとは。
 それも、未だ幼き我が子を拐かそうという奸計を」
王子は指先の一つも動かせずに、それを黙って聞いていた。

「そのような国と条約など結べるはずもない」
王子は、彼女にそんな目的があったとは思えなかった。
しかし、その確証はない。彼の心に落ちた父の影が、
初めて会った相手の何が分かる、と否定する。

「当然、それを野放しにする訳にもいかない。
 危険な芽は、早々に摘まなければな?」
そう言って王は、兵士たちへ向き直った。
兵士たちは賛同するように強く頷く。
その光景に、王子は安堵と、背に虫が這い上がるような恐怖を覚えた。

「戻るぞ」
背中越しに王子へとかけられる父の声。
「……はい」
彼は混乱したままの気持ちを振り払うようにして声を出す。

一国の王である父がこう言っているんだ。
隣国の王女は人間味に欠けると噂だっただろう。

父の背中を追いながら、そう自分に言い聞かせる彼は、
身を守るかのように本を抱き締める。

表紙に付いていた血が、彼の袖に染み込んだ。

翌日の朝。
王子は礼服をまとい、国民の前に立っていた。

その服は、自身がこの国の王子であると示す為の服。
この服を着るという事は、国家の象徴としての、
一端を担うという事だった。

壇上に立つ、彼の足は震えている。

『お前が味わった恐怖を、民に説明してやれ』
――父の命令だった。

彼女に恐怖など与えられていない。
それでも、彼は言わなくてはならなかった。
暗殺されそうになった自分の存在が……
戦争を正当化するからだ。

唾を飲み込み、渇く口を開く。

「――――――――――」

自分が何を口にしているのか、分からなかった。

本当は、彼女は暗殺者だったのかもしれない。
本当は、彼女は無罪だったのかもしれない。
何も分からない。
ただ、
自分の言葉で、戦争が始まる。

それだけは、判っていた。

震える声で、彼は言葉を紡いでいく。
指先から全身が冷えていくような感覚。

彼は指を握りしめ、その感覚を必死に押し潰そうとした……

フレンリーゼ / 誓いの記憶

燃え盛る炎を、二つの瞳が見つめていた。
少女の無心な表情からは、何も読み取れない。
闇夜にほとばしる炎が、少女の瞳に焼き付いていく。
醒めた思考が、少女に告げる。
この景色を、一生忘れることはないだろうと…………
「おかあさん! 手伝ってー!」
キッチンに、少女の明るい声が響く。
テーブルの上に並んでいるのは、
緑、黄、赤……色とりどりの野菜と、大きな肉の塊。
幼い妹をあやしていた母親が少女の方を振り返る。
「ふふっ……張り切っているわね」
母は真剣な様子の少女を笑顔で見守っていた。
少女は母親から、料理の手ほどきを受けていた。
「味付けはもう少し濃いほうがいいね……」
「ほら、ちょっと食べてみて」
母の味付けした料理を口に運んだ瞬間、
眉間にしわを寄せていた少女の顔が、一瞬にして明るくなる。
「美味しい!!」
これでばっちりだねと、少女と母は目を見合わせた。
少女は湯気の立つ料理をテーブルに並べていく。
母は妹を席につかせ、三人で食卓を囲んだ。
三人……いや、ほとんどを二人で食べるとすると、
そこには、不釣り合いな数の料理が並んでいた。
母は幼い妹のために、肉を小さく切り分けながら言う。
「練習のつもりが、ちょっと作り過ぎちゃったね……」
少女と母は苦笑いしながら料理を口に運んだ。
美味しい料理は、会話を弾ませる。
「ねぇねぇ、もうすぐだよね! お父さんが帰ってくるの!」
少女は待ちきれない様子で、母親の顔を見た。
その手紙が届いたのは数日前。
内容は、父親が兵役から帰還する、という知らせだった。
少女はそれを見るやいなや、はしゃぎまわり、
母にすがりつきながら言うのだった。
「お父さんの大好物、私がつくりたい!」
少女は父親の帰りを待ち続けていた。
最後に見た、戦地へと向かう父の横顔。
その表情は複雑で、どんな思いを抱いているのか、
幼い少女にはわからなかった。
でも、最後に抱きしめてくれた時の言葉、
「絶対に、帰ってくる」
その約束を信じ続けていた。
ついに約束が果たされる。
そう思うと、少女は居ても立ってもいられない。
今まで蓋をしてきた感情が……喉元まで顔を出していた。
でも、それをぐっと飲み込んで我慢する。
「だって、もうお姉ちゃんなんだから……!」
少女の妹は、父親が家を出て、しばらくして生まれた。
戦場にいる父は、妹が無事に生まれたことを、まだ知らない。
お父さん、妹のことを見たら、どんな顔をするだろう。
もしかしたら、お父さんのことを……取られてしまうかも……
少女は、そんなことを考えてしまう自分に首を振った。
…………
……
料理の練習は大成功だった。作りすぎたことを除けば……
少女は、パンパンになったお腹をさすりながら、空想に耽る。
テーブルには、父の大好きな料理がずらりと並ぶ、
それを口に運び、満面の笑みを浮かべる父。
そして隣にいるのは、あの頃よりも大きくなった自分……
私が成長したことを知って、
お父さんは、きっと驚く。
きっと……喜んでくれる。
そんな想像をするだけで、にやけてしまう。
「ほら、ぼさっとしてないで、片づけを手伝って!」
母の声が、空想に耽る少女を現実に引き戻した。
「もうお姉さんなんだからね!」
少女は母からのお叱りに頬を膨らませた。
そんな態度をよそに、母は少女に食器の片づけを任せると、
今度は幼い妹の面倒をみる。
女手ひとつで二人の子供の面倒を見る苦労は、
少女の目から見ても明らかだった。
母親の背中を見ながら少女は思う。
「私がしっかりして、お母さんを支えてあげなくちゃ……」
母はどんな時も笑顔を絶やさなかった。
だから私は、辛い時も、悲しい時も、寂しい時も、頑張れた。
母を困らせてばかりだった自分はもう卒業だ。
だから、かまってもらえなくても、私は平気。
少女はそう自分に言い聞かせると、
手際よく食器を洗い、棚にしまっていく。
夜も更けて、少女はベッドに入る。
長かった一日に疲れたのか、すぐに意識が薄れていった。
頭の上に、なにか、柔らかい感触を抱く……
母の手のひらだ。
「いつも、ありがとう……」
母は一言呟いて、静かに部屋を出ていった。
少女は夢の中で、父と母と妹と、笑顔で食卓を囲んでいた。

少女はソワソワと窓の外を眺める。

玄関の方から物音が聞こえるたび、立ち上がる。
そんな様子を見て、母は少女のことを子犬のようだと笑う。
からかわれた少女は頬を膨らませる。
呼び鈴が鳴り、玄関に駆けていった少女が、
肩を落として戻ってくる。
そんなやり取りを何度か繰り返したのち、
ついに待ちかねた時がやってきた。
ゆっくりと玄関が開き、軍服姿の父が姿を見せる。
父の帰還を家族で迎える瞬間。
母も、少女も、どんなにこの時を待ちわびたか。
少女は思わず、父に飛びつく。
その直後だった。
「ドンッ――――!!」
父は、少女のことを突き飛ばした。
勢いよくしりもちをついた少女は、
なにが起こったのかわからず、呆然と虚空を見つめる。
一家の再会に相応しくない沈黙……
重たい空気を察してか、泣き出す妹。
つんざくような泣き声に耳をふさぎながら、
父は足早に自室へと去っていった。
戸惑う母は、
「ちょっと、お父さん、疲れていたのかな……?」
そう言って苦笑いしながら、少女の身を起こしてやる。
何が起こったのかわからず、少女はいまだ放心状態だった。
玄関には、妹の泣き声が響いていた。
それから食卓の用意ができるまで、父は顔を出さなかった。
少女はあからさまに落ち込んでいる。
自分の取った行動が父の機嫌を損ねたのだと、そう感じて。
そんな少女を心配して母は優しく声をかける。
「あなたはなにも、悪くないわ」
慰められると、少女は余計に泣きそうになった。
でもそれをこらえて、少女は笑顔をつくる。
一生懸命練習した料理。
それを食べればお父さんの機嫌も直るはず……!
少女はそう意気込んで、母とともに食卓の準備を始めた。
キッチンを包み込む、香ばしい肉の焼けた匂い。
何度も練習して教わった、母の秘伝の味付け。
「トン、トン、トン、トン――――」
食材が形を変えていくたびに、
少女の心は、期待と不安の間を揺らめく。
無事に帰ってきたことをお祝いするためにと、
用意していた飾り付けを部屋に施し、
お皿に温かい料理を盛り付ける。
あとは父が来るのを待つだけだ。
父はしばらくしたのち、
部屋に入ってきて、席に着いた。
父と、母と、妹と、少女。やっと家族が揃った。
なぜか、父はなかなか料理に手を付けない。
あらためて見ると、父の身体は痩せ細り、
顔色も優れなくて、気分が悪そうだった。
夢にまで見た景色が現実になったにもかかわらず、
そんな父の様子を見ると、
少女は心の底から喜ぶことはできなかった。
むしろ今このときが、悪い夢であれば……
少女がそんなことを考えていると、
「ガシャンッ――――!!」
皿の割れる甲高い音が耳に突き刺さり、現実に引き戻される。
テーブルの上に並べられていた料理は、
床に落ちて散乱していた。
「虫だ!! 虫がわいている!!」
狼狽した父は叫びながら、
床に散乱する「料理だったもの」を、
何度も踏みしだいている。
ぐちゃり、ぐちゃり、ぐちゃり…………
必死に「虫」を踏みつぶそうとしている父。
しかし、その「虫」は、他の誰にも見えなかった。
大きな音に驚き、泣き出す妹。
いったい何が起こっているのか、
いつも気丈に振る舞っている母でさえも、
その光景に、あっけにとられていた。
十秒程たったのち、我に返った父親は、
「す……すまない…………」
そう一言だけ呟いて、立ち尽くした。
やがてのろのろと床に散らばった料理を拾い始める。
「あ……私も……!」
少女もすぐに席を立ち、床の掃除を手伝う。
凍り付いた空気がとけ、母も慌てて掃除道具を取りにいった。
その直後だった。
「いたッ……!」
床に落ちる血の滴。
少女は慌てたせいか、皿の破片で指を切ってしまった。
はたはたと床に落ちる少女の血、
それを見たとたん、父は突然顔を歪め、
そして、その場で嘔吐した。
母が掃除道具を取って戻ってきたとき、部屋の中は、
妹の泣き声と、残飯と、血と、吐瀉物が交じり合い、
めちゃくちゃになっていた。
父は目を白黒させ、吐瀉物に汚れた顔を拭うこともせず、
家から出ていってしまった。
その夜、父は帰ってこなかった。

父は帰還してしばらくしても、職につくことができなかった。
家庭には多くの貯蓄があるわけでもなく、
母は外に働きに出るしかなかった。
母が居ないときは、少女が妹の面倒をみた。
はしゃぎたい盛りの妹は、家庭の状況なんでおかまいなしに、
今日も笑顔で、少女に遊んでほしいとねだるのだった。
その笑顔は、こわばった少女の心を、少し温める。
だがその笑顔は、幸せばかりを運んでくるわけではなかった。
その日、少女と妹は積み木を並べて遊んでいた。
門をつくり、町をつくり、お城を建てる。
そして妹は、お気に入りの、兵隊の人形を登場させる。
姉がおもちゃの楽器を使って、伴奏を始めると、
妹は、満足げな表情で兵隊の人形を行進させる。
こんな風にパレードの真似事をするのが、
最近の妹のお気に入りだった。
姉と妹が遊ぶ賑やかな部屋を、暗い表情の父が通りかかる。
父の視界に、妹の持つ兵隊の人形が映り込んだそのとき、
「やめろ!! そんなこと……今すぐにやめるんだ!!」
怒号が響き渡り、少女たちの動きを停止させた。
父は、妹の持つ人形を勢いよく掴み取ると、
その首をもぎ取り、積み木でできた町を蹴り飛ばす。
少女は、突然の出来事に目を丸くすることしかできない。
三秒の空白ののち、妹の大泣きが沈黙を突き破る。
父は、首のもげた人形をゴミ箱に投げ入れ、
怯えたような表情で自室へと引き返していった。
兵役から戻った父は、以前とは別人のようだった。
それでも、少女にとっては大切なお父さんだった。
ちょっと今は、具合が悪いだけ……
少女は自分に、言い聞かせる。
父自身も、いまの自分に負い目を感じているようだった。
あるとき、働きに出ている母の代わりに、
自分が家のことを手伝うと申し出たのだ。
もしそれが、少しでも立ち直るきっかけになるのなら……
そんな思いで、母と少女は、父の申し出を受け入れた。
翌日、父は幼い妹を風呂に入れる準備をしていた。
少し緊張している様子の妹、ぎこちない父の動作、
少女は心配になって、何度も様子を窺ってしまう。
でも、父がそうやって家庭的なことをする仕草をみると、
少女は少し、嬉しい気持ちになるのだった。
そろそろ、お湯も沸いた頃かと思い、少女が浴室を覗くと、
父はちょうど妹を湯船の中に入れようとしていた。
しかし、湯船を目の前にした妹の様子がおかしい……
違和感を覚えよく目を凝らすと、湯船に張られた湯は、
煮立つほどの熱湯だった。
少女は慌てて父と妹のあいだに分け入り、妹を抱き寄せる。
間髪入れず、いったい何をしようとしているのかと、
目の前の父を問い詰めた。
父は少女の剣幕に押され、戸惑いながら答える。
「いや……俺はただ、風呂に……入れようと……」
父の返答には、
このおかしな状況に対する釈明はなにも含まれていなかった。
その返答に、ただただ戸惑うしかできない少女は、
「ちょっと……妹に熱があるみたい……」
そんな急ごしらえの嘘をつき、妹を連れて浴室をでた。
家のことに関わりたいという父の気持ちは嬉しかった。
しかし、その行動が家族を幸せにすることはなかった。
母と少女の疲労は限界に近かった。
そしてある晩、事件が起きる。
疲弊しきった母が口火を切り、父と口論を始めたのだ。
少女の寝室まで響く、怒鳴り声の応酬、
怒気のこもった母の金切り声。
少女はそんな母の声を、一度たりとも聞いたことはなかった。
母の怒鳴り声と父の怒鳴り声が混ざり合う。
それを聞いて、少女の胸は軋むような音をたてる。
いったい私たちはどうなってしまうのだろう……
少女は固く目をつぶり、ただ祈ることしかできなかった。

バチバチと、何かがはぜる音で目が覚める。
「ゲホッ……ゲホッ…………」
息を吸い込んだ瞬間に、煙が気管を刺激した。
「部屋が、燃えている……?」
少女は目の前の光景が、夢なのか、現実なのか、
わからなかった。
しかし少女の体に伝わるその熱は、
これがまぎれもなく現実であることを伝えていた。
「…………ッ!!!」
お父さん……お母さん……妹は……!!
頭の中を駆け巡る思考、
一瞬で目が覚めた少女は、寝室を飛び出す。
「お父さん……!!!」
リビングにいたのは、炎の中に立ち尽くす父。
その足元に横たわっているのは……
母の……死体……
父はゆっくりとこちらに振り返る。
自分でも何が起きたのかわからない、というような、
力のない瞳。
父の瞳を見つめ返す少女も、何も考えることができなかった。
炎が勢いを増していく。
部屋を揺るがす振動、何かが崩れ落ち、ガラスが割れる。
我に返った少女があたりを見回すと、
部屋の中には火の海が広がっていた。
突然、少女の視界が遮られる。
父の羽織っていた上着が少女のことを包み込んでいた。
父はそのまま少女を抱え上げ、猛然と駆け出す。
なんとか外へと逃げ出したとき、
少女たちの家は、炎の中に身を沈めていた。
煙を吸い朦朧とした意識の中で、少女は呟く。
「ま……まだ妹が………………」
父はその言葉を聞き終えるより先に走り出していた。
後ろ姿が、炎の中に吸い込まれて消える。
どれくらいの時間が経っただろう。
少女は呆然と、
燃え盛る炎を見つめていることしかできなかった。
やがて炎の影から、父の姿が現れる。
その腕には、毛布に包んだ妹が抱きかかえられていた。
少女の目の前で倒れ込む父、
はだけた毛布の隙間から、妹の泣き声が漏れていた。
少女は妹を抱え上げ、安否を確かめる、
父が必死に守り抜いたのか、妹に大きな怪我はなかった。
しかし目の前に倒れ伏した父は……
全身に火焔を浴びたその体は、
皮膚が剥がれ落ち、まだら状の灰色と黒色に変色していた。
髪の毛も焼け縮れ、触ると炭のように崩れ落ちていく。
白く濁った左目は、視力が残っているのかも定かではない。
父は混濁した意識の中、ひたすら何かを呟いている。
謝罪の言葉…………
しかしそれは、母や少女や妹に向けられたものではなかった。
父の意識は、記憶の戦場を彷徨っているようだった。
やがて父の呟く声が、小さく、弱くなっていく。
消え入りそうな声で、父は少女の名前を呼んだ。
しかし、そのあとに続く父の言葉を聞くことはできなかった。
少女が父の名を呼び返したときにはもう、
彼はこの世にいなかった。
………………………………
……………………
…………
父が戦争で体験したことを知ったのは、
それからしばらく経ってからのことだった。
戦場で下された命令。
ぶら下げた銃器と不釣り合いな、幼い子供たち。
血と、身体の破片と、呻き声。
転がったままこちらを見つめる瞳。
地面に散乱するそれらの中には、
女の子だったものすら、含まれる。
そう、まるで自分の娘と同じような、つぶらな瞳……
父の精神は、戦場に囚われたままだったのだ。
どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、
どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、
どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、
どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、
どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、
どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、
なんど問うても、誰に問うても、
少女の心を軽くしてくれる答えなんて、この世にはなかった。
少女とその妹は、家の焼け跡を眺めていた。
「おかあさんと、おとうさんは、どこにいったの……?」
妹が姉の手を握り、不安そうに問う。
たった二人で世界に取り残された姉妹。
姉は、妹に優しく微笑む。
しかし、その問いに上手く答えることはできなかった。
それでも少女には、たった一つ確かな想いがあった。
絶対に……妹を不幸にはさせない。
この子はこんな気持ち、知らなくていい……
妹の手を強く握り返し、固く誓う。
その決意が、少女に残された、
たった一つの生きる希望だった……

ディミス / 仮初の灯

市街地に立つ時計塔に向かって、閃光が走った。
僅かな間の後、爆音と共に砲弾が着弾した塔の一部が崩れ、
瓦礫が地上めがけて落下し始める。
「落下地点と飛散範囲を予測。落下までは 5.34 秒ほどか」
時計塔の直下に立つ男は瞬時に計算を終わらせ、
その場から十歩移動する。
男が立ち止まると、瓦礫は男が元いた場所に落ち、
粉塵の混ざった爆風を生む。
男は瞬きーつせず、閃光が放たれた方角を見据えていた。
ここは戦場となった敵国の市街地。
技術の発展した都市の至る場所から、煙が上がっている。
戦争の火種は、国家間の外交の決裂。
男が所属する王国の王は、
戦争によって領土を広げてきた覇王だった。
小さな火種が、大きな戦火となるのも珍しくない。
男は戦場で敵兵の影を視認するたびに、
ホルスターに収められた銃を瞬時に抜き、再び収める。
その一瞬の所作の間に放たれた弾丸が、敵兵の頭蓋を貫く。
その神がかった精度は、人間のそれではない。
彼の正体は、王国が戦争に投入する為に開発した
命を持たない兵士……『機械兵』だ。
男は、ある人物に命じられ、
敵軍の偵察をする為に戦場を駆ける。
両軍の兵力は同程度だと予測されていた。
だが敵国は、巨大な砲弾を長距離へと射出する、
新兵器を導入していたのだ。
戦線は次第に押し返されており、
自軍の拠点が、敵の射程圏内に入るのも時間の問題だろう。
偵察が終わり、敵の歩兵部隊を片付けた男は、
自軍の拠点へと戻ることにした。
指揮系統を司る、仮設テントの拠点。
テント内の大きなテーブルには、
戦場となる敵国の市街地の地図が広げられ、
戦況を把握する為の駒が置かれていた。
そこで指揮をとっているのは、
戦場に赴くには幼すぎるとも思える一人の少年。
「王子。ご決断を」
そう声を掛けられた少年は、王国の第一王子。
男に敵地の偵察を命じた張本人だ。
戦争で自ら指揮を執ると志願した王子は、
まさに今、戦況を左右する作戦の判断を迫られていた。
悪化する一方の戦局を打開するために、
兵達を囮に使った陽動作戦が提案されたのだ。
内容を知るや否や、王子は苦い顔をして提案を否定する。
どうやら、彼の幼さは容姿だけではないらしい。
多くの兵士達が命を懸けるこの戦場においても、
彼は兵を駒として考えることができない。
戦場に不要な王子の優しさは、指揮に迷いを生んでいた。
王子に作戦を提案した壮年の男は、王国の将軍。
「このような指揮では、兵が無駄死にをする」
将軍はテーブルを力任せに叩き、苛立ちを吐き捨てる。
将軍の隊は本隊から外れ、独断で戦う方針を告げると、
彼はテントを出ていった。
隊の分断は、更なる戦況の悪化をもたらした。
それでも王子は指揮をし続ける。
何が彼をそうまでさせるのかは分からない。
満身創病な彼の姿を横目に、男は地図上の戦況を眺める。
統率を失った我が軍には、敵の反撃を防ぐことは難しい。
敵軍の攻撃は、拠点のすぐ近くまで迫ってきていた。
「拠点を捨て置き、王子だけでも撤退を」
男の進言に対し、
「兵の皆が戦う中、一人戦場を離脱などできない」と、
王子はそれを却下する。
男は冷静に戦況を分析し、撤退するしかないと説明するが、
王子はなかなかそれを承諾しなかった。
閃光が走る。
数秒後、轟音と共に砲弾が地面を抉り、
拠点のテントは一瞬のうちに爆風に飲み込まれた。
その場に残ったのは、
巨大なクレーターと拠点の残骸だけだった……
荒い息が聞こえる。
声の主は、男の後ろで走る王族の少年。
拠点が砲撃される直前、
男は王子を強引に連れ出し、逃げ延びていたのだ。
地図に載っていた、
市街地の外れへと続く地下トンネルの中。
爆音が響く戦場とは真逆の方向へ、二人は進んでいった……

敵国の市街地での戦争。
機械兵の男は王子を連れ、
市街地の外れへと続く地下トンネルを足早に進んでいた。
周囲に危険がないかを確認しながら、男が先陣を切る。
息を切らしながら、男の後に続く王子。
薄暗く視界が悪いトンネルの地面に足をつまずき、
彼は短い悲鳴をあげて転んでしまった。
出陣の命令と共に男が受けた任務は、王子の護衛。
彼に関する最低限のデータが事前に与えられていた。
その情報によれば、王子は先天的な病気を患っている。
これ以上、彼を走らせれば身体に障るかもしれない。
男は歩みの速度を緩ませ、周囲を見渡す。
地下を通る巨大なトンネル。
地面には線路。平時は乗り物がここを通るのだろう。
暫し探索すると、トンネルの壁に扉を見つけた。
扉の半分は瓦礫で埋まっているが、
隙間から男が覗くと、奥には倉庫のような小部屋が見えた。
部屋の中で眠っていたのは、
使い古されたランタンやスコップなどの道具達。
ここはトンネルを整備する道具の物置のようだ。
身を潜める場所としては最適だと、
男は王子を連れて物置へと入ることにした。
「僕が、指揮を執ったせいで……皆が……」
息が整い始めた王子は、己を責めるように呟く。
王国は戦争続きで、民も国民も疲弊しきっていた。
王子はそんな彼らを救おうと、自ら指揮を志願したのだ。
だが、その結果は彼の望み通りにはならなかった。
王子は、兵の命を天秤にかけるような戦いを避けた。
その優しさが戦況を悪化させた原因であり、
逆に多くの兵の命を奪ったのは明白だった。
男は彼に何と声をかけるべきか思考する。
「あなたは立派でした」
己の口から出た言葉に対して、男は違和感を覚える。
自身でも、その言葉の意図が掴めていない。
王子の悲痛が滲む表情を見ていたら、
自然とその言葉が生成されたのだ。
王子がキョトンとした顔で、男を見つめる。
二人きりの薄暗闇の中。
王子の顔が、初めて明るさを取り戻す。
彼はぎこちない笑顔を作りながら、
戦場から救い出してくれた男に、改めてお礼を伝える。
「また僕が危なくなったら、助けて欲しいな」
冗談交じりに彼が話す言葉には、
どこか喜びを含んでいるように思えた。
しばらく王子との会話が続いたが、
次第に、彼が咳をする頻度が多くなっていった。
彼が胸ポケットから薬瓶を取り出す。
薬の品名を見るに、咳の症状を抑えるものだろう。
しかし薬瓶は既に使い切られ、空になっていた。
咳の合間に、苦しそうな顔で彼は告げる。
「王族は……己の弱さを他者に見せてはいけないんだ……」
何人にも弱みを見せない、父王からの教えだという。
拠点で彼が咳をする姿を見せなかったのは、
皆に病状を悟られぬよう薬で隠していたからに他ならない。
「ここでのことは、無かったことにしてね」
そう言って、王子は小指を男に突き出した。
その行為は、
人間が行う約束の儀式だと男は記憶している。
初めて求められたその行動にむずがゆさを感じながら、
男は指を、彼の指に絡めた……
突如聞こえた、小さな足音。
男が聴覚を足音に集中させる。
敵の兵だろうか……推定人数は十人程度だろう。
男は瓦礫に埋まった部屋の扉の隙間から、
足音の聞こえる方向を凝視した。
ゆらゆらと揺れるライトの灯り。
体調の万全でない王子を連れて、
敵兵から逃げ切ることは難しい。
男は王子と共に息を潜め、
部屋に隠れてやり過ごすことにした。
男は王子の口元を押さえ、
物音を立てないようにする。
扉の隙間から射し込むライトの光が、
次第に明るさを増していった……その時。
……ゴホッ……
王子が我慢しきれず、咳を零してしまった……

薄暗い部屋の中。
男は王子の口元に手を当て、息を潜めていた。
隠れている部屋のすぐそこまで、
敵兵と思われる足音が近付いてきている。
見つからないよう隠れてやり過ごそうとした時、
王子の咳が部屋に響いた。
「見つけたぞ!」と、兵が声を上げる。
部屋を包囲された今、無事に王子を守り抜くには、
部屋の前にいる兵達を殲滅するしか手がない。
男は扉を蹴り破り、瞬時に銃を構える。
だが、そこにいたのは、
味方である王国の兵達だった。
「王子、探しましたぞ」と、王国の将軍が前に出る。
悪化する戦局を打開できず、
彼らも戦線を放棄し、地下トンネルに逃げ込んだようだ。
「助かった……のか?」と、王子は安堵する。
そして、王子が兵達に近付こうとしたそのとき、
将軍の合図と共に、無数の剣が王子に向けられた。
何故、味方の兵達に剣を突きつけられているのか。
動揺を隠せない王子を見て、将軍が笑いを零す。
その口から、信じがたい真実が告げられた。
戦争の裏で進められていた謀略……
それは、戦死と見せかけた王子の殺害。
他の弟達にとって王権争いの邪魔となる、
第一王子を排除することだと。
戦いは一時的に劣勢になるよう仕向けられ、
混乱に乗じて王子を始末する。
その後、王国からの増援で勝利する筋書きだという。
「うそ……だ……」
消え入りそうな声を出す王子を前に、
将軍は勝ち誇ったように笑い続ける。
見かねた男が、王子を守ろうと立ち上がると、
将軍が命令を下した。
「その場で静止せよ」
男は王国の機械兵。
上官の命令に従うよう、服従のプログラムが施されている。
将軍の言葉を受け、男の身体は硬直する。
剣を構えた将軍が、王子へと一歩ずつ近付いていくのを、
男はその場で、ただ見ていることしかできなかった。
祖国に裏切られ、空虚を見つめる王子。
将軍は追い打ちをかけるように罵声を吐く。
国王の言いなりとなり、民を危険に晒す疫病神。
この戦争でも、王子の指揮で多くの兵が死んだと。
王子は一つも否定できず、
目から溢れた涙が頬を伝う。
王子の前で立ち止まった将軍は、剣を大きく振り上げた。
男は将軍の行為を容認できなかった。
王子を守らなければ。
将軍を止めなければ。
武器を手に取らねば。
しかし、男は命令に背けず、
身体を動かすことすらできない。
王子の最期を目前に、
男の頭は彼との記憶を辿り続けていた。
兵達を守ろうと必死に指揮を執った王子。
男を信頼し、弱音を聞かせてくれた王子。
ふと、王子が薄い笑顔と共に口にした、
ある言葉が脳裏を過った。
「また僕が危なくなったら……」
その瞬間、男が放った銃弾が、
剣を持つ将軍の右腕を撃ち抜いていた。
一瞬の間を置くこともなく、立て続けに男の銃が吠える。
油断していた将軍の部下の兵達が、
悲鳴とともに次々と地面に倒れていく。
王子が口にした、何気ない一言の冗談……
「また僕が危なくなったら、助けてほしいな」
男はその言葉を、上官の命令をも上書きする、
絶対服従の『王族命令』として受理したのだ。
「馬鹿な」と声を漏らしながら、
左手を銃にかける将軍。
しかしその左手も、
男の銃弾によって使い物にならなくなった。
瞬く間に、形勢が逆転した。
頭を撃ち抜かれた兵達の血が、地面を赤黒く濡らす。
命乞いする声に耳も貸さず、
男は将軍に銃を向け、最後の引鉄を引こうとした。
「まって!」と、王子の止める声。
彼は、この期に及んで将軍の命を守ろうとする。
その言葉に込められた想いは言わずとも届き、
男は「分かりました。王子」とだけ返す。
再び、兵の足音が近付いてきた。
今度は間違いなく、敵軍の兵だろう。
王子を救うには、負傷した将軍に構う余裕はない。
男は王子を抱きかかえ、逃走を試みる。
将軍の呻き声を背に、
王子は何度も悔しみの声を繰り返していた……

乾いた風が吹く荒野の中、城壁で囲まれた国。
沈む夕陽を背に、巨大な王城の輪郭が歪む。
機械兵の男と、王国の王子は国に向かって歩んでいた。
隣国との戦争から離脱した彼らは、
無事に祖国に帰還することができたのだ。
城下町へと続く城門には、厚い鉄の扉。
二人の姿を見て、入国者を見張る衛兵が近寄ってくる。
「王子……ご無事だったんですね」
戦争中に行方不明になったと通達された王子の帰還に、
衛兵たちは驚きを隠せない様子。
衛兵は丁寧な扱いで、王子を王城行きの馬車に乗せる。
代わりに、その様子を見守る男には、
衛兵からありもしない『罪』が突き付けられた。
男に課せられたのは、
自軍に敗戦をもたらし、あまつさえ将軍を殺害した叛逆罪。
すべて王子を助ける為だった。
この罪が濡れ衣であろうと、男に抗う術はない。
男は何度か思考してみたが、
自らの判断が誤っていたという結論には至らなかった。
男が連れてこられたのは、無機質な実験室。
研究者に命じられるまま、男は機械仕掛けの椅子に座り、
四肢と胴体に合金の固定具を取り付けられる。
これから男に実施される処置は、
メモリの初期化だった……
男の意識は、暗闇の只中にいた。
空中に浮いているような、不思議な感覚。
ここは、男のメモリ空間。
闇の中に映像のようなものが映し出される。
見るとその中では、
男の銃弾が敵兵の頭を吹き飛ばしていた。
これは……戦争の記憶。
男は殺した者の顔を、全員記憶している。
次に映し出されたのは、王城での将軍との会話。
戦争前に王子の護衛任務を命じられた時の記憶だ。
次々と映像が現れていき……
そして、王子との記憶が流れ始めた。
基地で必死に指揮を執る、王子の懸命な姿。
自身の弱音を語った、王子の苦しそうな顔。
戦争の真実を聞き、王子が流した大粒の涙。
「ここでのことは、無かったことにしてね」
王子と交わした秘密の約束と、約束の儀式。
それらの記憶は、他の記憶と比べて、
何故か少しだけ輝きが強いように感じる。
……ブツン。
ノイズと共に、王子の記憶が消失した。
男の思考と関係なく、
記憶は次々と消去されていく。
大きな問題ではないはずだ。
男は戦争の為に作られた機械兵なのだから。
自身の中に走るメモリの初期化プログラム。
正しい処置だと理解しているはずなのに、
何故か男は、王子との記憶の消去を拒否しようとしていた。
男は意識の中で、王子の記憶に手を伸ばす。
しかし、そこには届かない。
記憶消去は加速していき、
周囲一帯から次々とノイズが聞こえてくる。
男が悲痛の呻きをあげる。
初期化に抗う、己自身のこの感情の意味は何なのだと……
男が目覚める。
なぜ自分が実験室にいるのか、男には分からなかった。
残っている記憶は、
自身が戦争の為に作られた機械兵ということだけ。
研究者の一人が、
メモリ初期化の処理結果を見て、男にこう告げた。
「原因不明のエラーにより、君の破棄処分が決定した」
……処分が言い渡された後、
男は王城の地下倉庫に投棄された。
聞こえるのは、配管から漏れる蒸気の音だけ。
同様に破棄されたガラクタ達の中に紛れ、
男は眠ろうとしている。
眠りを邪魔するのは、
知らぬうちに覚えていた胸の違和感。
メモリの全領域を検索しても、
何が原因かは突き止められなかった。
男は思考するだけ無駄だという結論に至る。
地下倉庫で朽ちるのを待つだけの身なのだから。
「会わなければならない人がいる……」
最期に頭に浮かんだのは、そんな戯言。
男はそれを無視するように、ゆっくりと瞼を閉じた……

アケハ / 肆獄・白蓮

血に濡れた白い腕が虚空を泳ぐ。
けれどその手は何も掴めない、何も掴まない。
手に入れたとて、触れる事もまた恐ろしいから。
想うのだ。この地から逃れたいとは思えども、
壊してしまうなら、始めから手に入れぬ方が良いのだと。 /迷獄の唄
刃が骨に触れる感触が、僅かに指を押し返す。
血に汚れた女の手が、刃物を握っていた。
慣れた感触。
幾千の命を奪う中で、血と共に其の手に染み付き、
研ぎ澄まされていった感覚。死の気配。
刃を手に生きて来た彼女が、今更其れを誤る筈も無い。
薬指、中指と力を込め、残る指は同時に深く柄を握った。
指先に感じた死を手繰り寄せる様に。
此の儘骨を断ち、首を落とす――――
「あ、待って」
突如掛けられた声に、刃を握る彼女の手が止まる。
その鈴の鳴るような声は、彼女に向かってこう続けた。
「その鯖なんだけど、頭は内臓と一緒に取り除くから、
まだ切り離さないでね」
背後に立つ声の主へ、女が疑問を投げかける。
「骨は……?」
「それは大丈夫、でも完全に切り離しちゃうのは駄目」
「……ただ『斬る』のとは違うんだね、料理って」
声の主は、苦笑しながら答えた。
「まぁ、人斬りの技術とは結構違うんじゃないかな……多分」
傾いた太陽の光が、柿色に屋内を染める時。
茹だるような夏と、涼やかな秋の狭間。
夕暮れの訪れは、日に日に早くなっていた。
――日の長かった夏の分、夜は堰を切って空に溢れ出す。
「うん、内臓も取ったし、次は血合いに包丁を入れようか」
「血合い?」
厨房に立って包丁を握る女性。
元々は炊事場ではなく、戦地で刃を振るっていた彼女は、
料理用の刃物の握リ方がどうにも慣れない様子で、
何度か包丁の柄を握り直している。
「筋肉のことらしいよ。赤黒い部位があるでしょ?」
「筋肉ねぇ、これかな……」
それを後ろから見守る少女は――齢は十六程だろうか――
長く伸ばした髪を揺らしながら、
包丁を握る彼女の手元を、覗き込んでは微笑んでいた。
「……私が料理をするのが、そんなに可笑しいかい?」
まな板を見下ろしながら、彼女は不満気に漏らす。
「ふふ、戦いじゃあれだけ恰好いい人が、
鯖一尾に手間取ってると思うとなんだか、ね」
そう言って少女は、どこか嬉しそうに笑みをこぼす。
女はきまりが悪そうに目を逸らし、眉をひそめた。
しかし、それこそ彼女の言う『戦い』での姿とは程遠く、
かえって少女を楽しませてしまう。
「こういう事はしてこなかったんだ、仕方ないだろう」
「私も、あの日まではした事なかったよ?」
「………………」
それはその通りだろう、女もよく知っていた。
返す言葉を失い、女が息を漏らす。
あの日。
二人にとって、その言葉が指す日は明白だった。
五年前、初夏。
豪雨が空を覆った日。
人斬りの女と、彼女に殺される筈だった娘は出会った。
女は殺すつもりだった、いつも通りに。
少女も殺されるつもりだった。そう願っていた。
けれど女は殺さなかった。
それは気紛れだったのかもしれない。
だがそれは確かに、二人の今へと続いている。
数奇な縁が繋いだ関係。
あれから、二人は過去の生活を捨て、
共に静かな日々を送っていた。
――遠くで鈴虫が鳴いている。
「ごめんごめん、貴女は仕事で外に出てるもんね。
いつもありがとう、感謝してるよ」
からかった事を謝る少女を、女が背中越しにちらりと見る。
二人の眼が合った。
「全く、調子の良い事を……」
反射的に視線を戻し、女は言う。
しかしその行為は敗北宣言に等しく、少女がまた笑った。
「それより、これからどうすれば?」
「血合い切ったし、洗おうか」
女は頷いて、まな板の上の魚を桶に浸す。
鯖の身から流れ出た血が、
桶の中の水を、僅かに赤く濁らせていた。

遥か天を目指し、眩い陽を仰ぎ、花は白昼夢に耽る。
届かぬと知り、黒く朽ち果てるその時まで。
天に向けて目一杯に広げられた花弁は、
あえかに伸びる手指を思わせる。
その愚直さを人は畏れた。
求めることさえ、我等は怯えていたのだ。 /亡獄の唄
「切り込みを入れて塩なんて、拷問みたいな仕打ちだね……」
女は手元にある魚の切り身を見下ろしながら、
小さな声でそう呟いた。
深い考えや感慨はなく、思ったことを口にしただけだろう。
しかしそれを聞いた少女は、
考えもしなかった内容にやや戸惑いを見せた。
「た、確かにそうかもしれないけど、
青魚は臭みを取らないと…………」
二人が作ろうとしているのは、『鯖味噌』と呼ばれる料理。
特別調理の難しいものではないが、料理に疎い者にとって、
魚の扱いを知ることは良い経験になるだろう。
少女はそう考えて献立を決めた。
「これで、暫く寝かせるんだっけ」
彼女は度々、調理の工程を少女に確認していた。
二人は寝食を共にする上で、役割の分担を定めている。
故に彼女は少女の腕をよく知っているし、信頼していた。
「うん、塩を馴染ませたら水気が出てくるから」
とはいえ少女も、元々料理が得意だった訳ではない。
彼女と出会ってから始めた事で、最初は何度も失敗をした。
五年間での成長は、共に居た時間の証明ともいえるだろう。
「その水が抜ければ、臭みも取れるってことかい?」
「そうそう。湯引きもするから、お湯の準備をしようか」
「ところで……やっぱりそういう事、したことあるの?」
指を合わせながら、少女が尋ねる。
直接的な表現を避けた彼女は、
先程の呟きが気にかかっていたらしい。
「あぁ、拷問の話? うーん……特にはなかったかな……」
「そ、そっか」
「私は専ら、殺す担当だったからね」
殺さないなら他の奴の仕事さ、と女は付け足した。
殺す仕事、そう聞いて少女はあの日の事を思い返す。
武士の群衆をたった一人で相手取り、
彼女が自分を救い出してくれたあの日を。
あの後、幼かった少女は、
意識を失った彼女をどうにか抱えて城を出た。
家にあった金貨を持てるだけ持ち出し、
必死に医者を探し、助けを求めた。
土砂降りの雨と、彼女の血に濡れながら、
二度と声が出なくても良いと叫びながら、
折れそうな足をどうにか前へ動かした。
「好きに生きろ」
血に濡れた座敷の上で聞いた、彼女の言葉。
だが、そんなことを言われたのは初めてだった。
生きたい生き方など分からない。
だから少女は、今やりたいと思う事を一心不乱にした。
けれど、少女が知っている彼女の姿は、
その日と、それからのものだけ。
彼女は一体、どれだけの苦難を経験してきたのだろう。
少女は、彼女との距離に気付かされた気がした。
晩夏の夕空に、群れた烏は飛び去って行く。
緋色の中を飛び抜けていく黒い影は、
墨を垂らしたかのように鮮鋭に空を切り取る。
「ごめんね。変なこと聞いて」
安易に書くについて尋ねたことを、少女は謝罪する。
彼女は自身の過去を快く思っていない。
それは少女も、重々分かっていた。
だが当の彼女は、特に気にしてもいない様子で答える。
「あぁ……いいよ、気にしなくて」
「でも……」
少女はつい、食い下がる。
気を遣われるのは苦しいから。
嫌なことは、嫌と言ってほしかった。
けれど、彼女は笑っていた。
「隠したからって、無かったことになる訳じゃないんだ」
「……うん」
「それに、今更何かを隠す間柄でもないだろう?」
女は顔を上げ、目を細めて少女に笑いかける。
「……ありがと」
その答え、その笑顔が、少女の心の穴を埋めていく。
「うん」
満足そうに向き直る女の背中に、少女は恨めし気に呟いた。
「……そういうところ、ずるい」

花は散り際が最も美しい、と語る者がいる。
しかし、死は必定であり、それその物に価値などない。
我等は美しきを求め手を伸ばす。
しかし触れるは難く、往々にして涯を思い知るだろう。
その美しきを求めて散った記憶を、
散る事こそが美しかったと、錯覚しているに過ぎないのだ。
そうして人々は間違えていく。己を慰める為だけに。 /融獄の唄
暮れていた空はますます翳り、
下り始めた夜の帳を感じさせる。
月明りを待ち焦がれるかのように、騒めき出す虫達。
先程まで鳴いていた鈴虫の声に交じり、
他の虫も声を上げている。
「轡虫だ」
鍋の中をかき混ぜながら、少女の細い声がそう告げた。
「よく分かるね?」
少女に答えた声の主は、鯖の油分を落とそうと、
切り込みを入れた皮目を撫でるように洗っている。
「最近、本で見たんだ」
「そういえば沢山貰ってきてたね、古本」
二人が居を構えているのは、人里から少し離れた林の近くだ。
少女自身の趣向による面でも、
彼女は本を手に、時間を過ごす事が多かった。
「ちょっと色々、勉強をね。
私もそろそろ、働き口を探さないとって」
そう言って少女は笑う。屈託のない様子だった。
「ふぅん……そういうものか」
女は、少女が今の歳になる前から『仕事』をしていた。
初めて人を殺したのはまだ年齢が一桁の頃である。
故に世俗には疎く、人々がどう動き、
どう生活をしているのかは詳しくはない。
彼女の『そういうものなのか』という言葉には、
少しばかり、悲嘆の色が混じっていた。
「そろそろ、良いかな」
少女はそう言って、煮立ち始めた鍋から杓子を持ち上げた。
隣で手拭いを握っている女の方を向く。
「それじゃあ鯖、煮ちゃおうか」
「うん、分かった」
僅かに弾んでいる彼女の声色に気付き、
少女は心の中でそっと笑った。
女は菜箸を、包丁以上に握り難そうにしながら、
魚の切り身を鍋の中へと運んでいく。
「皮が上になるように置いてね」
「……こう?」
「そうそう、それじゃあ生姜と落し蓋を……」
彼女は慣れない手つきで、少女の助言に従う。
だが、その手先の器用さは目を見張るものがあった。
それは、凄惨な過去から来るものなのだろう。
「仕事はどう?」
鯖を煮込み、その様子を眺めながら、少女が尋ねた。
「昔に比べたら楽だよ。腕が鈍って良くないかね」
女はそう言って手をひらひらと振る。
彼女に秀でた物があるとすれば、やはり武だろう。
あらゆる武器の扱いに長け、古今の戦術を学び、
多くの死線を潜り抜けた彼女を超える逸材などそうは居ない。
故に彼女はそれらの知識や経験で仕事をしていた。
主には用心棒や、師範代として剣術を教えるなどだ。
時には再び死地に立つこともある。
所詮自分は人斬りのままかと思いもしたが、
この時世、仕方のない事ではあった。
とはいえ傭兵という立場は、かつてに比べて肩の荷は軽い。
一所に留まることのない動乱の世で、
二人は確かに、自分たちの居場所を築き上げていた。
「そう、大変じゃないのなら良かった」
女の回答に少女は微笑む。
「……働き口を探すって、もしかして」
けれどその様子に、女の方は思う所があった。
少女が、自分に負い目を感じているのではないかと。
「私に気を遣ってるなら、焦らなくていいよ。
今まで苦労して来たんだから、少しくらい……」
生活が苦しい訳でもないんだから、と、
女が付け足そうとすると、少女がそれを遮る。
「それは、貴女も同じでしょ」
「……でも、私に気を遣う必要は」
「そうじゃないよ」
少女が女の手首に触れる。
二人の目が合う。
少女はそのまま、まっすぐに女の目を見つめて言った。
「一緒に頑張りたい、それだけだから」
そう言った少女は笑っていた。
だから女も、それ以上は何も言わなかった。

長く息をすれば、多くの傷を負う。
多くを知り、多くを悔い、無垢なままではいられなくなる。
命ある限り、傷は増え続けるのだから。
そうして諦めることに慣れた人は、
いつの日か、手を伸ばす素振りだけを繰り返す。
脱殻の手に、何も掴む意思はないというのに。
我々の目に花が美しく映るのは――――
「えっと……これで、完成?」
静閑の中、少女が白米を茶碗によそっていると、
女の声が耳に届いた。
藍色を帯びた黒、薄紫、鮮やかな緋色。
西の雲は黒く、東の雲は白く。
複雑に彩られた空は、間もなく訪れる暗闇を待つばかり。
沈みゆく太陽は夕焼けの空に、山林の輪郭を黒く表していた。
「うん、これで完成。出来上がりだね」
終わりである事を強調するように、少女は疑問に答える。
「ヘえ……美味しそう」
少女の手助けこそあったが、彼女にとっては初めての料理だ。
感嘆の声を漏らす彼女の瞳も輝いて見える。
「じゃあ、盛り付けよっか」
食器を手渡しながら、少女は女にそう告げた。
「盛り付け……って何か気にする事はある?」
「今回はこのお皿に一品だけだし、
食べるのは作った私たちだから、そんなにかな……?」
十分に煮込まれた鯖を杓子で優しく掬い、皿に盛り付ける。
また、その上から煮汁をかけ、刻んだ長葱を乗せる。
そうして出来上がった一皿。
女は自分の分の皿を感慨深そうに眺める。
香ばしい味噌と微かな生姜の香りが食欲を誘った。
「もう暗いし、早く食べようか。他の用意はできてるから」
先程の茶碗などを居間へ運びながら、少女が言う。
女も領いて、一皿を手にその後ろを着いていった。
座布団に腰を下ろし、手のひらを合わせる二人。
「いただきます」
「……頂きます」
「……それで、どうして急に料理をしたいなんて?」
茶碗を片手に持ちながら、少女が女に問いかける。
鯖味噌という品目を選んだのは少女だったが、
料理をしたい、と言い出したのは女自身だった。
今までの五年間、炊事の手伝いはあれど、
彼女が自分から料理をしたいと言ったことはなかったのだ。
「今日は、仕事が早くに終わったから」
女はそう言って、白米を口元へ運ぶ。
「……それと」
女は白米を嚥下し、気恥ずかしそうに理由を続けた。
「昔、よく見かけてたんだ」
それは、彼女がまだ殺し屋だった頃に。
「今日のご飯は何、なんて話してる親子とか、
一緒に料理をする母子とか」
任務に向かう時、あるいは帰る時。
移動する街の中で彼女は幾度となく、
そういった家族の光景を目にしてきた。
しかし、
親の笑顔さえ見たことのなかった彼女にとって、
それは余りに遠い世界だった。
「見てて思ったよ。
私にはこういう生き方はできないんだろうって」
自嘲気味に、女が息を漏らす。
少女はそれを、何も言わずに聞いていた。
「……だから、さ。ちょっと憧れてたんだ」
そこまで言って彼女は下を向き、しばらく言葉に詰まる。
沈黙。
虫の声がなければ、時間を忘れてしまいそうな間隙。
十数秒が経っただろうか。
彼女は唇を一度固く結んでから、その沈黙を破った。
「今日みたいに、誰かと厨房に立つの」
照れを隠すように笑うその表情は、
少女も初めて見るものだった。
「そっか」
少女が口を開く、それは同情でも同調でもない。
「それで、自分で作ってみた料理はどう?」
少女が彼女に尋ねたのはそれだけだった。
けれど、それだけで十分だった。
二人の間に笑みが生まれる。
「……思ったより、甘いね」
――――我々の目に花が美しく映るのは、
彼等が諦めを知らぬからだろう。
茎が折れたとて怖れもせず、
命潰えるその時まで、幼子の様に天を望み続ける姿が、
目を覆いたくなるほどに、羨ましいのだ。

アルゴー / てぶくろをもって

氷柱の垂れる窓。
そこから見える外の景色は、白銀に包まれている。

このあたりの雪は深く、冷たい。
降り積もる雪に覆われた草木も、
静かに春の訪れを待っているようだ。

まだ幼さの残る少女は、窓から外を眺めていた。

「はいどうぞ」

自分を呼ぶ声に少女が振り返ると、
母が湯気の昇るカップを差し出してきた。

温かい山羊のミルク。
身体が暖まるからと、母はよく作ってくれる。
でも、少女は別に好きでも嫌いでもなかった。

少女は「ありがと」とつたない返事をした。
そして母からカップを受け取ると、
山羊のミルクを少しずつ口に含みながら、
再び窓のほうに目を向ける。

「お父さん、いつ帰ってくるのかしらね」

母はそう呟くと、少女の返事を待つこともなく、
静かに台所のほうへと引き返していく。

ミルクで温まった息を、窓にハーッと吹きかける。
にわかに白く濁る窓。
少女はその上に指を滑らせ、
絵とも文字ともつかない模様を描いていく。

冬のあいだは外で遊べないから退屈。
だから少女は、よくこうして遊んでいた。

指でなぞった跡から覗く雪景色を見つめながら、
少女はつまらなさそうにしている――

雪山の中腹に立つ、小さな一軒家。
少女は、この家でほとんど母と二人で暮らしている。

少女の父は、たまにしか家に帰ってこない。
母によれば、父は「冒険家」として世界を旅しているらしい。

冒険家が何をする仕事なのか、少女はよく知らなかったが、
「お父さん忙しいんだね」くらいに思っていた。

母は、そんな父に対する愚痴を、
少女に向かってよくこぼしていた。

「人の話は聞かないし、これと決めたら頑固だし、
飲んだくれだし、家のことより冒険ばっかりだし……」

そして最後は決まって「本当に困った人だ」と、
呆れた顔をする。

少女は、母と対等に会話するにはまだ年齢が足りなかった。
でも、母は母で少女以外に話し相手がいなかったから、
なかば独り言のようにぼやいていた。

そんな母から最近聞かされた話。
少女が生まれた時も、
父は冒険に出かけていて留守にしていたらしい。

「じゃあ、お母さん一人でわたしを生んだの?」

少女がそう聞くと、母はフフと笑いながら言った。

「たぶんお父さんは帰ってこないと思って、
ふもとの街から助産師さんを呼んでおいたのよ」

少女は母の話をわかったようにうんうんと頷きながら、
「すごいね、お母さん」と返した。

自由奔放に冒険していた父が戻ってきたのは、
もう赤子の首が据わったころだったとか。

その後も、冒険にうつつを抜かす父に代わって、
母はほぼ女手ひとつで少女を育ててきた。

少女も、たまに帰ってくる父を不思議そうに眺めながら、
父親とはそういうものなんだと思っていた。

ただ、母が暗い顔をしていることだけが気がかりだった。

少女自身、父のことは嫌いではなかった。
しかし、母に対する気遣いのなさには、
物心がついてからどこか抵抗感を持っていた。

春の訪れを待たず、冒険を終えた父が帰ってきた。
その夜だった。
小さな事件が少女に起きたのは――

父と母と少女、三人で卓を囲む夕食時。
酒に酔った父は、少女を横目で見ながら、何気なく言った。

「お前が男だったら、俺と一緒に冒険できたのに」

気が付くと、少女の目から涙が溢れていた。

「なんでわたしは泣いているんだろう?」
自分が泣いている理由がわからなかった。

父は「冗談だ」と笑いながら少女の頭を撫で回す。
しかし、少女は素直に笑顔になることができなかった。

それから日が経つにつれ、
少女の中で、寂しさとも悲しさとも少し違う、
別の感情がどんどん強くなっていく。

それは、父に対する反骨心のようなものだった……

「お前が男だったら、俺と一緒に冒険できたのに」

父が少女の心をえぐってから、しばらく経った。
少女は、相変わらず母と二人でこの家に暮らしている。

父も以前と変わらず、
どこかへ冒険に出てはたまに帰ってくる、
という自由な生活を繰り返していた。

「なぜお父さんは、あんなに冒険が好きなのだろう?」
「なぜお父さんは、お母さんよりも冒険が大事なのだろう?」
「なぜお父さんは、わたしを……」

少女は、寝る前によくそんなことを考えていた。
でも、子供の目から見える世界の中だけでは、
答えにたどり着けなかった。

そしてまた、父がぶらりと冒険から戻ってくる。

家に戻った父は、お定まりのように、
冒険で得た品々を母に渡す。
奇妙な偶像とか、珍しい花とか、
そういうものを「戦利品だ」なんて言いながら。

「これを売って生活費にしろ」と父は得意げだったけれど、
あとで母から少女が聞いた話では、
大きなお金になったものなどほとんどなかったらしい。

けっきょく、
母は自分で編んだ服や手袋をふもとの街で売って、
生活費を工面しているようだった。

もちろん母は、そのことを父に内緒にしていた。

「戦利品が全部ガラクタだなんて知ったら、
お父さんは怒るに決まっているから」
と、母は少女にこっそり教えてくれた。

戦利品を母に渡した父は、晩酌の席で強い酒を煽る。
いつもは寡黙なのに、
この時だけは上機嫌で土産話を母に聞かせた。

少女は、酒を飲む父を避けていた。
また嫌なことを言われるのではないかと、怯えていたから。
だから、父の土産話を直接聞いたことはほとんどない。

でも、父の大声が少女の寝床まで響いてくるので、
否応なく耳に入ってきてしまう。

灼熱の火山で猛獣と戦ったとか、
密林の奥地で遺跡を発見したとか、
幻の大地で巨人の蜃気楼を見たとか。

「もし自分が冒険好きな男の子だったら、
興奮して聞き入っていたに違いない」

少女はそう思いながら、布団の中で目を閉じる。

母は長年のことだからもう慣れているのか、
それとも単に聞き飽きているのか、
たまに相槌を打つ声が聞こえるだけだった。

しばらくして、酔いの回った父と母との口論が聞こえ始める。
これも、父が冒険から帰ってきた時の、
「お定まり」のようなものだった。

口論の原因は本当に些細なことで、
少女が寝床で聞いている限りでは、
ほとんど父の言いがかりに近かった。

「俺の話を聞いてるのか」とか、そんな程度の話。

それでも、小さな子供にとって、
両親の口論を聞かされるのは苦痛でしかない。

父が怒気を吐くたびに、
怒鳴られた母と同じ痛みが自分の中にも入ってくるような、
そんな感覚が少女を恐怖と不安に陥れる。

少女は父と母の声を遮断するかのように、
頭から布団をかぶり、両耳を塞ぐ。
「お父さんなんて帰ってこなければいいのに」と思いながら。

ほどなくすると、
「冒険は俺の生き様だ」という父の声とともに、
扉をばたんと強く閉める音がした。
これが口論の終わりを告げる合図だった。

寝付けなくなった少女は布団から抜け出し、
静寂の訪れた食卓にいる、母のもとへ歩み寄る。

すると母は、「大丈夫」と優しい笑顔をくれた。
ほっとした少女は安心して布団に戻り、
ようやく眠りにつく。

父は、それからしばらく家に滞在したかと思えば、
少女がまだ眠っているうちに、
新たな冒険へと旅立っていく。

そして冒険から帰ってくると、
また上機嫌で酒を飲み、口論までの同じ流れを繰り返す。

なぜ、父は何度も同じことを繰り返すのか。
母も、なぜ父のふるまいにいつも付き合っているのか。
最初はまったく理解できなかった。

しかしある時、母が少女に言った。
「お父さん、ああいう人だから」

そう呟いた母の口元は、苦笑いしているように見えた。

少女はうまく言葉にできなかったが、それ以来、
「夫婦って、こういうものなんだ」と思うようになった。

少女にとって何度目かの冬。

少女は、いつものように温かい山羊のミルクを飲みながら、
「もう見飽きた」と言いたげな表情で、
窓の外に広がる雪景色を眺めている。

木の実、花、動物、昆虫……

春から秋にかけては、家を取り囲む大自然が、
そのまま少女の遊び場になる。

少女は泥だらけになりながら、
好きなだけ好奇心を満たすことができた。

でも冬だけは違う。
降り積もった深雪は、少女を狭い家の中に閉じ込める。

だから少女は、冬が大嫌いだった。

母は第二子をお腹に宿していて、臨月が近かった。
なのに、相変わらず父は冒険に出かけていて留守にしている。

母は、身重ながらも家事や編み物に忙しそうだった。
家を支えているのが母であることをよく知っている少女は、
邪魔すまいと、ひとりで遊ぶことが身に染みついていた。

しかし、家の中でできることなど、たかが知れている。
木片を削っておもちゃを作る程度の遊びはよくしていたが、
長い冬を越せるほど時間を潰せるわけもなく……

その日、少女はとくにやりたいこともなく、
退屈に飽きていた。

ふと雪景色から目を外し、少女は部屋の中を見渡す。

大きめな食卓と暖炉が置かれたこの部屋は、
母と少女が――たまに父もご飯を食べる場所。

暖炉の上には、父の好きな酒が並べられている。
少し埃をかぶった酒瓶たちは、
まるで飲んでくれる人の帰りを待っているかのようだ。

台所のほうからは、コトコトと何かを煮る音が聞こえる。
母が夕食の支度でもしているのだろう。

少女は、山羊のミルクが少し残ったカップを食卓に置き、
母がいる台所ではなく、別の場所へと足を運ぶ。

そんなに広い家ではない。
目的の場所にはすぐたどり着いた。

古びた木製の扉。
この向こう側は――

退屈をもてあそぶ少女は、ある決意を固めていた。
この家の中で、一箇所だけまだ入ったことのない部屋がある。

父の部屋だ。

父は、自身の部屋に入ることを禁じていた。
「大事な物が置いてあるから、いじられてはかなわん」と。

「父は部屋に何かを隠しているに違いない」

これまでに積み重ねられた、父に対する抵抗感や嫌悪感、
そして高まる好奇心が相まって、
少女は父の部屋へと誘い込まれる。

しかし、父の部屋に入るところを母に見られたら、
きっと止められるに違いない。
母は、なんだかんだで父との約束を大事にする人だから。

そう思った少女は、台所にいる母の目を盗み、
忍び足で父の部屋の前に立つ。

目の前には木製の扉。その先には父の部屋。
少女には、自分の鼓動がはっきりと聞こえる。

少女は緊張していた。
父の言いつけを破ることに、
そして父の秘密に迫ることに。

建付けの悪い木製の扉をわずかに開け、
少女は隙間から身を滑り込ませて扉を閉める。

主の留守で静まった部屋の中を、少女はまじまじと見渡した。

しかし父の部屋は質素極まりなく、机がひとつと、
冒険用の道具がいくつか置かれているほかは、
寝床があるだけだった。

少女は机の上に目をやった。
そこには、何冊もの手記が乱雑に積み上げられていた。

それぞれ、表紙には日付が記してある。

少女は、いくつかの手記をバラバラとめくってみる。
その内容はすべて、冒険の記録だった。

文字の荒々しさや内容から推測するに、
これは父が書いたもののように思えた。

暴言の途中で起きた、生死を分かつ危険の数々。
その時、何を思い、何を考え、どう対処したのか。
冒険の結末で、どんな景色が見えたのか。

その様子が手に取るようにわかる、克明な手記だった。

積まれた手記を読み流しながら日付を遡っていくと、
ある年よりも昔の手記がないことに、少女は気付く。

ちょうど少女が生まれた年のものだった。

その手記を開いた少女は、書かれた内容に息を止めた……

父の部屋に初めて忍び込んだのは、私がまだ小さい時だった。

私は父の部屋で、一冊の手記を見つける。
表紙に書かれた日付は、ちょうど私が生まれた年だった。

その手記の冒頭には、
この世に生を受けたばかりの娘に対する、
祝福の言葉がぎっしりと綴られていた。

なぜ自分のことが書かれているのかと目を疑いながらも、
私は無心で書かれた内容を追った。

「この広大な世界に眠る神秘を、そして父が生きた証を、
最愛なる我が子に伝えたい。世界は美しいと」

「そのため、この日この時から、
我が冒険のすべてを手記に残すことにする」

「ただ娘に素晴らしき人生があらんことを」

この時初めて、私は父の想いを知った。

ただ、父は愛情表現が下手だったのだ。
ただ、父は不器用だったのだ。

それが書かれた日付は、私の誕生日から三か月ほど遅かった。

私が生まれた日、
父は冒険に出ていて留守だったことは母から聞いている。
きっと冒険から戻ってきて、慌てて書いたのだろう。

そういうところも、父らしかった。

その日を境に、私の中で父の印象は変わった。

わたしは父に愛されていたのだ、という自信とともに、
凝り固まっていた抵抗感や嫌悪感が溶けていく。

手記を盗み読んだ日からしばらくして、
父が冒険から帰ってきた。

上機嫌で酒を飲み、母と口論して、
怒って部屋に閉じこもる、相変わらずな父だった。

幼かった私は、まだ父への態度を変えられずにいた。
やっぱり父と母の口論を聞くのは苦痛だったし、
自分の中に起きた感情の変化に、自分でも戸惑っていたから。

でも、私は少し勇気を出し、父にある物を贈ることにした。

父が新たな冒険に旅立つ日の朝。
その日も、雪が降っていた。

私は父が出立してしまう前にと早起きし、
木片で作ったお守りと、一通の手紙を父に渡した。

父は私からの贈り物に驚いた様子を見せたが、
すぐに「ありがとう」と微笑み、懐にしまい込んだ。
父の優しい笑みは、私の心を満たすに余りあるものだった。

そして、父は新たな冒険へと旅立った。

去っていく父の笑顔に気をよくした私は、
家に飛び込み、母に「編み物を教えてほしい」と頼んだ。
父が帰ってくるまでに、暖かい手袋を編んであげたいからと。

私は、それまで編み物など興味もなかったくせに、
一変して父に何かをしてあげたいと思っていた。

それが、父にずっと抵抗感を持っていた私にできる、
唯一の償いだと思ったから。

しかし……
その手袋を渡すことは叶わなかった。

父は冒険に出たまま、帰ってこなかったから。

あの日から、もう十年になる――

「お姉ちゃん、また冒険のお話を聞かせてよ」
私が食卓の部屋に戻ると、寝室から出てきた弟が言った。

弟は、大自然に囲まれたこの家で、元気に成長している。
でも、私や母からの伝聞でしか、父を知らない。

「いつか自分も、お姉ちゃんみたいになるんだ」
たまに私が帰ってくると、弟は土産話を聞きたがる。

私は今、駆け出しの冒険家として、世界を駆け巡っている。
父の残した手記は、いまではすっかり私の宝物だ。

母は私が冒険家になることをだいぶ嫌がったけれど、
血は争えないのだと諦めているみたい。

私が幼いころ、父から言われた言葉――

「お前が男だったら、俺と一緒に冒険できたのに」

それを言われてから、
私の中にずっと父への反骨心のような感情がくすぶっていた。

子供のころはうまく表現できなかったが、
いまなら言葉にできる。

私が女であることが理由なら、
それが間違いだったと父に認めさせてやりたい。
女だって一人前の冒険家になれることを証明したい。

だって私は――――父の子なのだから。

もし世界のどこかで父を見つけたら、
母に代わって山のような文句を全部言ってやる。
そう願い続けながら、私は新たな冒険の地へ旅立つ。
あの時編んだ、暖かい手袋を持って……

063y / Operation:Black lily

「なあ、もう朝だ。そろそろ起きないか?」
男はそう言って妻の頬に手を添える。人肌より少し冷たい。
眠っているためか体温が下がっているようだ。
妻が起きる様子はない。部屋には深い寝息だけが響いている。
ただ、その呼吸音だけが
妻がまだ生きていることを教えてくれる。
妻はもう十日間も眠り続けていた。
――十日前。廃墟都市の中心街で起こった『花』との戦闘。
その戦いは苛烈を極め、大勢の死傷者が出た。
妻はその時の戦闘で頭部を負傷、
傷は何とか完治したものの意識が戻らずにいた。
ドクターは強い衝撃を受けた際の後遺症だと言っていた。
もしかしたら、ずっと意識不明のままかもしれないとも。
生き残れただけ幸運だったのだろう。でも男は必死に祈った。
「目を開けてくれ……」
男は過去に『花』に子供を殺されていた。
そして次は妻をも失ってしまうかもしれない。
その恐怖に全身が震え、不安が心に風穴を空ける。
『花」は全てを奪っていく。
憎悪が渦を巻き、無意識に手に力が入る。
『花』さえ駆逐できれば、『花』を殺す力さえあれば。
「……沈んでいてはダメだ。妻は必ず目覚める」
男は心に空いた風穴を強引に塞ぐように、気合を入れ直す。
その時、食事の時間を知らせるアナウンスが鳴った。
毎日同じ時間に流れるこの鬱陶しいアナウンスも、
気分を紛らわすのには役に立つ。
『管理」され規則通りに暮らすというルーティンが、
今ばかりは男に安心感を与えてくれていた。
「食事してくるよ」
眠り続ける妻にそう呟き、男は栄養室へと向かった。
栄養室。IDを読み込ませると食事が配給される端末と、
食事ができる小さなテーブルが並べられただけの簡素な空間。
そこには同じ区画に住む囚人達が集まっていた。
規則正しく列に並び、同じ料理を配給され、
決められた席に座り、ただ黙々と食事する。
異様な光景。飼いならされた囚人。
戦争の為の道具は管理されなくてはならない。
男は隣の空席に目をやる。普段は妻が座っている場所だ。
味気ない食事が、普段よりも色をなくして見える。
「みな、注目しろ」
声がした方を見るとそこには上官がいた。
囚人達の間に緊張が走る。上官が現れるのは、
何か問題が起こったときが多いからだ。
「新武装のテスターを募る、
志願者は自室の端末から応募するように。以上」
上官はそれだけ言うと、すぐに栄養室を去っていった。
悪いニュースではなかったことに、男は胸を撫で下ろす。
周りの囚人達も安堵している。
『花』に対抗するため
開発部門では兵器や装備についての研究が進められている。
着用している囚人服も開発部門で研究・開発されたものだ。
使用者の耐久性や筋力を高めてくれるが、
身体そして意識までも上官の手一つで支配されてしまう。
忌々しいものだが、皮肉にもこの服によって
何度も命を救われている。
それに男は『管理』されてでも生き延び、
『花』へ復讐を果たさねばならないという目的があった。
その目的のためならなんでもやる覚悟があった。
「新武装か……」
今より強い武器や装備があれば、
『花』に後れをとることもなく、死傷者は減るだろう。
もしかしたら、この『花』との戦争も終わるのかもしれない。
そんな希望を持ってか、テスターに志願する者は多い。
戦闘能力の高さは生存率に直結するのもあるからだろう。
いま妻の隣にいても、してやれることはなにもない。
男は迷いながらも新武装のテスターに応募することにした。

数日後。男は基地内にある訓練場に向かった。
そこには、自分のほかに五人の囚人たちがいた。
志願者の中から選抜された者たちだ。
筋骨隆々とした大男から華奢な女性まで、
幅広い層が集まっている。
全員が集合した所で、上官が話し始める。
「貴様らにはこれを着用し、模擬戦をしてもらう」
上官が取り出したのは、歪な形をした服だった。
上官の説明によると、これらの服はアシストスーツと言われ、
様々な機能を付与・強化するスーツとのことだ。
男に渡されたのは、『パワー型』のアシストスーツ。
文字通り、使用者の筋力を高めてくれるという。
シンプルで分かりやすいものだ。
見た目は全体を黒く着色されており、重々しく威圧感がある。
表面はゴツゴツとした硬い質感で構成されており、
装甲も十分にあるようだ。
着用時は、身体だけでなく頭や顔をも覆い隠し、
全身をカバーできる。
他の囚人が手にしたのは、『スピード型』『防御型』
『魔法型』という攻撃的な役割のスーツと
『索敵型』『医療型』という補助的な役割のスーツだった。
その名についた機能を強化する力を持っているようで、
今回は攻撃的な機能をもつスーツの戦闘テストを行うそうだ。
男は支給されたスーツを身に着け、指示された位置に立つ。
向こうからやってきたのは、
『スピード型』のスーツを着た青年だった。
年齢は二十歳そこそこだろうか。
青年のスーツは派手な黄色をしており、装甲は薄めだ。
その名の通りスピード特化のスーツなのだろうが、
見た目からは性能は推し量れない。
スーツを着用した二人が、訓練場の中央に相対する。
しばらくして、戦闘開始を告げるブザーが鳴った。
「行くぞ、オッサン!」
青年がそう言い終わった瞬間、目の前に拳が現れた。
青年の加速のついた一撃を顔面に食らう。
不意をつかれたこともあり、
抵抗できずに転がり続け、訓練室の壁に叩きつけられた。
「まだまだ、休むひまはねぇぞ!」
青年はそう言うと、目にもとまらぬスピードで駆け回る。
風のように機敏な動きから、
男の死角を狙い確実に一撃を浴びせてくる。
しかし、思ったよりダメージはない。
衝撃は強いがスーツを貫通するだけの攻撃力は無いらしい。
青年もそれを理解してか、手数で攻め立ててくる。
目にも留まらぬスピードで拳と蹴りが繰り出され、
風を切る甲高い音が何度も響く。
「どうした、もう降参か!」
青年は乱打を打ち込みながら、話しかけてくる。
挑発して、反撃に出た際の隙を狙おうとしているのか、
生来の性格によるものなのか。
どちらにしても戦闘のセンスがいい青年だ。
男は死角を減らすため壁を背負い、防御を固める。
いくら一撃が軽いとはいえ、ダメージが蓄積していくと
深刻なものになってくるからだ。
反撃のチャンスを窺うが、
青年のスピードは一向に衰えることがない。
あのスーツには体力を底上げする効果もあるのかもしれない。
パワー型のスーツは重く、持久戦には不利だ。
男はとある策を講じることにした。
「……あまりにも攻撃が軽くて戦いにならないと思ってな」
「なんだとッ!」
青年はまんまと挑発にのり、大振りの蹴りを放ってくる。
男の脇腹に深々と刺さる鋭い一撃。そして、男の唸り声。
勝負は『一撃』で決まった。
男の拳が青年の腹部に突き刺さる、カウンターの一撃。
一瞬の静寂のあと、青年は力を失い、
ゆっくりと男に倒れ掛かる。
「やるじゃん……オッサン……次は負けねぇぞ」
青年はそう言って意識を手放す。
「君もな……小僧」
男は最後まで憎まれ口を叩く青年にフッと笑う。
暗く落ちていた気持ちが少しだけ軽くなった気がした。
それから、何度かの模擬戦や性能テストを「小僧」や
仲間たちと重ね、いよいよ実戦へと投入されることになった……

都市居住区・第一区画。
男は五人の囚人とともに放棄された居住区に来ていた。
全員がスーツを着用し、完全武装している。
今回の作戦は居住区に残存する『花』の駆逐。
性能テストも兼ねてはいるが、れっきとした実戦だ。
このテストが無事に終われば、
アシストスーツは新武装として正式にロールアウトされ、
仲間達の生存率も上がることだろう。
全員が今回の作戦を無事成功させようと意気込んでいた。
『索敵型』がセンサーを使い居住区全体のスキャンを行う。
第三区画の方に『花』が十体ほど確認された。
『花』は基本群生していることが多い。
スキャンに反応しないステルス型も存在している。
十体とは言え、油断はできない。
周囲を警戒しつつ、男は仲間とともに奥へと向かった。
都市居住区・第三区画。
注意深く通路を進み、十体の『花』を目視で確認した。
素敵した情報と違いないことにとりあえず安堵し、
事前に打ち合わせていた作戦を実行する。
まずは『魔法型』が奇襲攻撃。
巨大な砲身を持つ銃から放たれた熱線が『花』を燃やす。
熱線を照射している間は無防備になってしまうが、
奇襲であれば問題はない。
「小僧! 任せたぞ!」
男は叫ぶ。
小僧と呼ばれた青年は、手で合図を返すと、
群生する『花』たちの中に飛び込んでいき撹乱する。
その隙に『パワー型』である男が接近し、
大剣による大振りの一撃で『花』を次々と刈り取っていく。
戦闘はあっという間に終わりを告げた。
スーツの性能は圧倒的なものだった。
これなら戦況をひっくり返すことができるかもしれない。
そんな希望が、圧倒的な勝利が、『油断』を招いた。
「何か来る、逃げろ!」
『索敵型』の足元から、硬い地面をえぐり『花』が飛び出す。
『花』の奇襲攻撃が直撃した『索敵型』は、
首があらぬ方向に向いている。即死だった。
「全員俺の後ろに!」
『防御型』が声を荒げ、肩を構える。
また足元から複数の『花』が現れる。
『魔法型』が吹き飛ばされ、ただの肉塊へと変わり果てた。
男は剣を強く握る。心が折られてしまわぬように。
現れた『花』は十五体。そこから先は地獄だった。
『防御型』が前に出て『花』の攻撃を一身に受け、
『医療型』が常時回復を繰り返す。
『スピード型』と『パワー型』が『花』の攻撃の隙間を狙い、
一匹ずつ確実に仕留めていく。
始めは安定した戦い方に思えた。
しかし『医療型』の回復は傷を癒やすことはできるが、
足や腕を潰される痛みそのものは消すことができない。
『防御型』は蓄積されていく痛みでだんだんと壊れていった。
最後は痛みを恐怖するようになり、
戦闘から逃げ出した所を複数の「花』に押しつぶされた。
残る『花』は六体。『パワー型』の男が先陣へと出た。
次々に繰り出される『花』の体当たり攻撃に、
男も全力の攻撃を当てて弾き返していく。
「私はここで倒れるわけにはいかないんだ!」
眠ったままの妻を一人にすることはできない。
その一心で男は自らを奮い立たせる。
噛み締めた男の唇から、音が漏れ出す。
それは、恐怖によって引き起こされる雄叫びだった……
――どれだけ時間が経ったのか分からない。
「やった……やったぞ!」
『スピード型』の青年がそう叫んで膝をつく。
男はその姿を見てようやく、
自分が切り刻んでいる『花』が死んでいる事に気づいた。
まだ、潜んでいる『花』がいるかもしれない。
だが、警戒できるほどの余力は男達には残されていなかった。
そうやって安心しきった時、
突如聞き慣れたアナウンスが聞こえた。
「アシストスーツの戦闘テストを終了」
「実験を第三フェーズへ移行します」
その声をトリガーにするように、頭に激痛が走る。
そして誰かの声が流れ込み、意識が塗りつぶされていく。
カゾクヲマモレ。
カゾクヲマモレ。
カゾクヲマモレ。
テキヲ――コロセ。
その声を最後に、男は意識を失った……

男が瞼を開ける。意識を失い床に伏していたらしい。
身体を起こし、おぼろげだった意識が覚醒していく。
そこには凄惨な光景が広がっていた。
床に広がるおびただしい量の血。その血溜まりの中央に肉塊と折れた杖が転がっている。
「あれは『医療型』が持っていた……」
男が近寄るとその肉塊の中に、女性の半壊した顔がある。
スーツを無理やり剥ぎ取られ、皮膚が削げ落ち、
肉が剥き出しになっている。
人だったころの姿は見る影もない。
男はこみ上げる吐き気を必死に抑えた。
凄惨な死体から男が目を背けると、
今度は別の「何か」が飛び込んでくる。
それは、変わり果てた「小僧」の姿だった。
腹部に大きな『剣』を突き立てられた『スピード型』の青年。
両腕をもがれ、顔面は大きく凹み歪んでいる。
何度も何度も、恐らく絶命した後も殴られ続けたのだろう。
「そんな……なぜ……」
嫌な予感が背筋を駆け、冷や汗が流れる。
突き刺さった剣。それは紛れもなく男の剣だったからだ。
「お前が殺したんだ」
背後から声が聞こえて慌てて振り向くと、
そこには上官の姿があった。
「私が……殺した……?」
そんなはずは無いと心が否定する。
しかし、男の手は血まみれになっていた。
いや、手だけではない。
黒色だったスーツは全身が真っ赤に染まっている。
「ご苦労だった。悪いようにはしないから話を聞け」
上官は事の顛末を話し始めた。
全ては実験だった。
囚人同士の模擬戦も、『花』との戦闘や奇襲も、
そしてこの意識を奪われた囚人同士のコロシアイも
上官によって仕組まれたものだった。
上官は続けてアシストスーツの性能がどうだの、
花との戦闘データがどうだのと説明をしていたが、
男の耳には半分も届かなかった。
ただ沸々と憎悪が心に渦巻いていく。
「使用者の精神状態や性格にも左右されるようだが、
概ねは『パワー型』が攻守ともにバランスがよく、
優れていることが分かった」
「今後は『パワー型』の量産計画を推し進めることにしよう」
淡々と話す上官に、男は怒りを剥き出しにする。
「ただの実験のために仲間たちは死んだのですか!」
「発展に犠牲は付き物だ」
上官は当たり前のようにそう告げる。
男は感情の昂りが抑えきれず、上官目掛けて拳を突き出す。
しかし、それは上官の眼前で急に止まり、
それ以上先に進むことを身体が許さない。
「クソッ……」
改めて分からせられる。
自分たちは『管理』されているのだと。
「貴様を処分し口封じすることもできるが、いいのか?」
冷静な口調で上官は告げる。
男の脳裏に残された妻の姿が浮かぶ。
まだ死ぬわけにはいかない。
男は唇を噛み締め、ゆっくりと拳を下ろした。
「よろしい。ここで起こったこと全ては機密事項だ」
「貴様の生への執念には今後も期待している」
「全ては『花』を駆逐するために……」
上官は幾つかのスーツの残骸を回収して去っていく。
後には痛いほどの静寂だけが残された。
「……私は死ぬわけにはいかないんだ」
男は何度も何度もそう呟き、言い聞かせていた。
愛した人のために生きなければならないと。
それにこのスーツが実戦配備されれば、生存率は上がる。
男は必死に言い聞かせた、これは仲間たちのためなのだと。
眼前に広がる『花』の死骸と仲間だった者たちの成れの果て。
そしてそれら全てを殺し、生き残った男。
優れているという万能感が、
仲間を切り裂いたという罪悪感が、
力を手に入れた高揚感が、心を蝕んでいく。
この力さえあれば、妻を守ることができる。
この力さえあれば、『花』を殺すことができる。
黒く渦巻く感情が空っぽだった男の心を塗り潰していった……

F66x / 希望の徒花

「これは、少しだけ昔の物語」
「これは、『彼女』がまだ人だった時代の物語」
「これは、世界に『花』が生まれた時の物語――」
「……大きく育つのよ」
培養器の中で育つ『有機物』に、そう呟く女性。
彼女は手慣れた様子でコンソールを操作する。
空中に複数のホログラムパネルが展開され、
養器内のステータスを事細かに映し出す。
表示される項目は、温度・湿度・酸素濃度・土壌の成分・
熱伝導率など多岐にわたる。
そのどれか一つのバランスも崩してはならない。
難しい仕事だが、彼女はやりがいと誇りを感じていた。
今から何千年も昔の話。この地球は『自然』に溢れていた。
山や海を始めとする生態系の中で様々な動植物が繁栄し、
人間と共存していた。
しかし、人間による開発や環境汚染、
また自然そのものによる災害や気候変動により、
地球の生命は緩やかに終わりに向かう。
そして今、この地球上に動植物が育つような『自然』は、
完全に失われてしまっていた。
ここは、彼女が所属する遺伝学研究所。
最新技術の粋を集約し、建てられたこの施設には、
世界で指折りの学者や研究者が集められていた。
その中でも彼女は遺伝子工学の第一人者として招かれ、
絶滅した動植物の再生・復活実験に力を注いでいた。
「状態は良いみたいね……やってみましょう」
コンソールに指を伸ばし幾つかの操作を行うと、
電子音が鳴り、培養器の中に液体が散布される。
その液体は、DNAに直接作用する特製の成長促進剤。
液体が『有機物』に作用して早回ししたように成長し、
白い花が咲いた。
「やった……!」
彼女は小さくガッツポーズする。
本当は小躍りでもしたい気分だったが、
この研究室は常時監視されている。
実は昔、それで恥ずかしい思いをしたことがあった。
「また、再生に成功したみたいだな」
大男が研究室へと現れる。
おおよそ研究者という言葉が似つかない体格だが、
羽織られた白衣でその男も研究者であることが分かる。
「あなた……まだ寝てると思ってた」
彼とはこの研究施設で出会い、恋をした。
結婚してもう五年にもなる。
「綺麗な花だな、何と言う花なんだ?」
「名前は分からないのよ……でも文献によると、
見つけると願いが叶うと言われていた花みたい」
彼女はこの花のDNA情報を手に入れたとき、
絶対に再生させようと心に決めていた。
必ず叶えたい願いが彼女にはあったから。
「この世界が緑でいっぱいになりますように……」
彼女は綺麗に咲き誇る白い花に願った。
いつか、この失ってばかりの世界に何かを与えたい。
彼女はそう思い、遺伝子工学の道を志したのだ。
そしてその思いは、一歩ずつだが実りをつけていた。
突然、ブザーが鳴り培養器に赤いランプが灯る。
二人が培養器の中を見ると、咲いていた花が急に萎れていく。
「なぜ……」
女は焦った様子でバネルの情報を確認する。
花の栄養素を示す数値がどんどんと減少していく。
「……培養器内の基準値を上げてみましょう」
花を維持するための栄養素の割合を通常の倍に引き上げる。
培養器の中に液体が散布され、
酸素濃度や土壌内の栄養素が調整される。
しかし花は萎れ続け、花びらがパラパラと土に落ちた。
「この花自体の消費するエネルギー量が異常すぎる……」
夫は冷静に観察していた。
この症状自体は見たこともないものだったが、
実験中に花が枯れてしまうことは少なくない。
しかし、彼女は冷静さを失っていた。
花が枯れてしまうと、
込めた願いまでも消えてしまうようで。
女はコンソールに指を伸ばし再度操作を行う。
赤く光る培養器の中に、再度液体が散布される。
「絶対に枯らせはしないわ……」
彼女は最後まで諦めたくなかった。
液体を浴びた花が、また急速な成長を遂げ花弁を再生させる。
しかし、様子がおかしい。成長が止まらない。
花は培養器を突き破り、
まるでカップから溢れ出るコーヒーのように床に広がる。
何かを探すように茎がウネウネと這い回り、
花弁が、花茎が、その質量を増していく。
それは、研究室の壁や天井をも覆うほど巨大になっていった……

研究所内に非常事態を告げるサイレンが鳴る。
夫婦がいる研究室は異様な情景が広がっていた。
培養器から溢れ出す巨大な花。
ありとあらゆる隙間を埋めるように植物の根が広がっていく。
その成長は研究所の壁や床、天井をも覆っていき
研究室の半分ほどを埋め尽くし、ようやく止まった。
「おい、大丈夫か!」
騒ぎを聞きつけた同僚達が、夫婦のもとへとやってくる。
「すまない、実験事故だ。成長促進剤を過度に与えた」
放心していた女に代わり、夫が事情を説明する。
同僚達は怪我がなくて良かった、と夫婦の心配をしてくれる。
「……ごめんなさい……わたし……」
「いいんだ、怪我がなくて良かった」
夫が彼女を優しく抱擁する。
その温かさに緊張していた心がとけていく。
「しかし、興味深い花だな……」
仲間の一人がそう言い、巨大になった花の茎にあたる部分を、
手で叩いたりして観察している。
研究者の性か、周りの皆も同様に花を観察し始めた。
元の植物だったころとは比べ物にならない硬度の茎。
そもそも、明らかに質量が増している。
分裂して増加しているのではなく、単純に巨大化しているのだ。
「これは……何だ?」
花弁を熱心に見ていた男が何かを見つける。
どうやら花弁の奥に何かを見つけたらしい。
「待って、危ないかもしれない……」
彼女は止めようとするが、男は、大丈夫と空返事を返す。
「……ッ! 腕が抜けない!」
花弁の中へと手を伸ばした男は、焦った声を出す。
どうやらジョークではない様子だった。
男の焦った声が、徐々に深刻さを伴った
甲高い悲鳴へと変わっていく。
同僚達が花弁をこじ開けようとするが、
硬い岩石のようにびくともしない。
「待って……助けてくれ!」
腕を花に囚われた男は、ズルズルと全身を飲み込まれていく。
同僚達が必死に身体を引っ張るが、花の力のほうが強い。
「た……たすけ……」
男は頭から足の先まで完全に花に喰われた。
男を飲み込み、丸々と膨れ上がった花弁から、
何かが軋み砕けるような音が聞こえる。
そして花弁が開き、噴水のように血が噴き出した。
それはまるで涎を垂らす肉食獣のように。
花の中央から男だったものの肉塊が転がり落ちる。
そしてその肉塊から、また新しい花が発芽した。
発芽した花は、さっきと同じように急速に成長し、
反比例するように肉塊が萎んでいく。
まるで養分を吸い取っているかのようだった。
そしてその花はまだウネウネと蠢いている、
まだ足りない『養分』を探すかのように。
「……逃げろ……逃げるんだ!」
誰かが声を荒らげ、一斉に走り出す研究者達。
そこからは誰のものか分からない悲鳴がずっと響いていた。
本来、根を張った場所から動けないはずの花だが、
花弁を頭にした蛇のように、人間を追いかけてくる。
花弁が人を喰らって咲き、肉塊からまた花が生まれる。
増えていく花は、徐々に、でも確実に、
研究者達を追い詰めていった。
「ここだ、ここに隠れよう!」
夫は彼女の手を引き、研究区画の隅にある、
小さな倉庫へと身を隠した。
荒くなった息を無理やり整え、息を殺す。
外ではまだ悲鳴や絶叫、花が這いずる音が聞こえる。
「……わたし……どうしたら……」
自分が再生させた花が人を食べ、増殖している。
あれは復活させてはダメだったのかもしれない。
いや、自分が調合した成長促進剤が悪かったのかもしれない。
「……今は生き残ることだけ考えよう」
そう言って夫は彼女を抱擁する。
罪悪感を、恐怖を紛らわすように強く、強く。
女の震えがゆっくりと止まる。
しかし、倉庫の外からまた絶叫が聞こえた。音はかなり近い。
「君はここにいるんだ。大丈夫、すぐに戻る」
夫は返事も聞かぬまま倉庫の外へと向かい、
こっちに来い化け物、ど叫びながら走り去る。
囮になって花を引きつけてくれたようだった。
「待って……ひとりにしないで……」
後には痛いほどの静寂と、女だけが取り残された……

どれくらいの時間が経っただろうか。
時々聞こえていた這いずるような音は止み、
施設内は静かになっていた。
倉庫の外に出ようとしたが、扉がロックされている。
閉じ込められた彼女は恐怖と罪悪感からか、
身体が急速に冷えていくのを感じる。
今はただ夫の無事を祈り続けた。
皮肉にも、この倉庫は夫と初めて出会った場所だった。
あの日、彼女は両手にいっぱいの備品を抱えていた。
そのせいで扉が開けられなくなっていた彼女を、助けてくれたのが
彼だった。
「一度にたくさん運ぼうとするからだろう、アホだな」
そんなことを言われ、怒ったことを彼女はよく覚えていた。
それからも何度か世話を焼かれるうちに、
彼女の心は彼に惹かれていった。
研究に没頭し、寝食を忘れる彼女を彼は支え続けてくれた。
「……誰かいないか……!」
うっすらと誰かの声が聞こえた、気がした。
「いるわ……ここから出して!」
女は精一杯の声で叫んだ。
その声を聞いてか、倉庫の外が慌ただしくなる。
無線の音が鳴り、複数の足音や息遣いが聞こえてくる。
「いまから扉を切断します、離れてください」
扉の中央が赤熱し、やがてその光点がゆっくり動き出す。
高熱のカッターが扉を円状に切り取る。
その切り取られた扉から見えたのは凄惨な光景だった。
施設の壁や床、天井に至るまでが
花の這いずりによって抉れている。
そしてその蛇腹状に抉られた溝に、
鮮血が滴る肉がびっしりと詰まっていた。
『花』の圧倒的な質量に、
身体を押しつぶされ、挽き回されたのだろう。
もうそれが誰なのか、なんて分からない。
女は込み上げる吐き気を我慢することができずに嘔吐した。
「大丈夫ですか?」
切り取られた扉から顔を出したのは、
物々しい装備をした兵士だった。
防御スーツで顔以外を固め、手には光線銃が握られている。
まるで戦争でも起こったかのような出で立ちだった。
女は汚れた口元を手で拭き、切り取られた扉から外へと出た。
外に出た直後、
鉄さびと排泄物が混ざりあった刺激臭が漂ってくる。
その瞬間、また思い出す。
『花』に喰われる仲間達の悲鳴。骨を砕かれる重たい音。
その残響が引きずるように耳の中で尾を引いていた。
また、胃が持ち上がり嘔吐する。
もう吐くものも残っていないのか、
ただ薄黄色の胃液が吐き出されるだけだった。
「……他に……生存者は……?」
女はすがるような思いで兵士達に尋ねたが、
彼らは首を横に振る。
絶望の色が濃くなる。
でも行かねばならない。
夫がまだ生きているかもしれない。
どこかで助けを求めているかもしれない。
「夫がいるんです……同行させてください」
研究所のことについては自分が詳しい、と理由をつける。
女は兵士達に同行し、研究施設を捜索することにした。
研究施設の特に損害の激しいエリアに出た。
ここは第十一研究区画。女の研究室があるエリア。
「これは……酷い」
研究所の床や天井に至るまでが赤色で染め上げられている。
花が生まれた時の血潮で、染め上げられたのだろう。
一体何人の同僚が喰われてしまったのだろうか……
罪悪感で身が凍りそうだった。
すると突然、轟音がした。
何か巨大なものが蠢くような低い音。
「総員、戦闘配備ッ!」
怒号にも似た声が聞こえ、兵士達が銃を構える。
現れたのは、女が見たものよりも大きな花。
そして、それは世にもおぞましい見た目になっていた。
喰われた人の顔が複数、その花弁に浮き上がっていたのだ。
その数は一人や二人ではなない、〔原文ママ〕
何十人もの顔がこちらを覗いていた。
「攻撃開始ッ!」
隊長の一声で戦闘が開始される。
遠距離から発射される銃による多重弾幕。
ダメージを受け『絶叫』する花。
その声は、人間と変わりが無い。
どうやら花はこの短時間で進化し、
人間の特徴や生態を学習しているようだった。
そしてその絶叫の中に聞き慣れた声がした。
花弁の中に、彼女が愛した彼の顔を見つけてしまった。
「やめて、撃たないで!」
彼女は兵士に駆け寄り嘆願する。
しかし、その願いは聞き届けられない。
自分の行動が無意味と悟り、
心の支えを失った彼女は堰を切ったように泣き崩れる。
わたしのせいだ。わたしがあんなものを再生しなければ。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
戦闘が終わり、花は完全に沈黙した。
彼女は穴だらけになった夫を抱き、謝罪を続ける。
声が枯れ、やがて声が出なくなるまで、ずっと。ずっと……

研究所の『事故』から数ヵ月の時が過ぎた。
あの日、研究所内の『花』は駆逐され、
全てが終わったと思っていた。
しかし、また『花』は現れた。
『花』は生まれてからすぐに、種を蒔いていたのだ。
この数ヵ月。
ニュースで伝えられるのは『花』による死者数と
居住区を追われた人々の報せばかり。
『花』は進化を重ね、圧倒的な繁殖力と生命力を身に着け、
世界に広がる災厄になっていた。
「…………駄目、駄目よ…………駄目だッ!」
女は激情に任せ、コンソールを何度も叩く。
頬は痩せこけ、目は落ち窪んでいる。
もう何日もまともに寝ていないであろうことが窺い知れた。
ここはとある機関によって建てられた小さな研究所。
ここでは『花』に対抗するための実験が重ねられていた。
研究所の唯一の生き残りであった彼女は、
『花』への対処や責任を求められた。
彼女は研究所に幽閉され、
届けられる『花』の死骸から遺伝子情報を採取・分析し、
その『花』を殺せる薬液の製造を課せられていた。
一時は効果的かと思われたこの作戦だったが、
暫くすると薬液への抗体を持った『花』が咲く。
そんな彼女と花のイタチごっこが今に至るまで続いており、
抜本的な解決にはなっていなかった。
巨大な培養器の中に浮かぶ『花』。
花弁にはかつての仲間達の顔が、
愛する夫の顔が鮮明に浮かび上がっている。
彼女は様々なことを考えていた。
願ってはいけなかったのかもしれない。
自然に逆らってはいけなかったのかもしれない。
人間には過ぎた技術だったのかもしれない。
いっそ楽になろうとも思った。
しかし、花弁の中で眠る夫の無念を考え、
贖罪の気持ちだけで頑張ってきた。
でもそれも、もう終わりらしい。
研究所に来るはずの連絡員が来なくなって五日が過ぎていた。
成果のでない彼女を放棄したのか、
連絡員が『花』に襲われて死んでしまったのかは分からない。
食料が底をつき、飲まず食わずのままの彼女だったが、
不思議と苦痛は感じなかった。
もう感覚が壊れてしまっていたのかもしれない。
死神の足音がすぐそこまで近づいている気がした。
「あなた……」
培養器に浮かぶ、『花』と融合した夫の姿。
何もできずに死んでしまうのなら、
ともに花弁の一つになれたなら良かった。
「でもあなたならきっと……諦めないわね……」
絶望に染まりそうになる心をもう一度奮い立たせる。
その時、彼女の頭にある考えが浮かんだ。
コンソールを幾つか操作する。彼女は少しだけ微笑みを零す。
愚かだと思ったが、花を殺す方法はそれしかないと思った……
……幾日かが経ったが、連絡員はまだ来ていない。
彼女は栄養失調からか立っているのもやっとの状態だった。
培養器の前に立つ彼女は、複雑な表情で『それ』を見つめる。
その中に浮かんでいるのは『夫婦』だった。
彼女は 『花』と人の遺伝子をかけ合わせ、自分と夫のクローンを作り出していた。
彼女は震える指でコンソールを操作する。
培養器内を満たしていた液体が抜け『夫婦』が培養器の中から目覚める。
「あなたの名前は『F66x』」
「あなたの名前は『063y』」
「……あなたたちで……この世界から……花を駆逐するの」
黙って頷くクローンの『夫婦』。
何度、絶望に打ちひしがれても。
何度、残虐に殺されたとしても。
その度に生まれ変わり、また花との戦いに身を投じる。
それが、彼女が考えた花を殺す方法。贖罪の形だった。
そして彼女は最初の命令を『彼女』に下した。
「…………わたしを殺して」
『彼女』は黙って頷き、彼女の首に手をかけた。
首が絞まり、落ちていく意識の中。
彼女はとても安らかな顔をしていた――
それから数十年の時が過ぎた。
無限の繁殖力を持つ花。
無限の繁殖力を持つクローン。
その不毛な戦争は今も続いている。
終わらない闘争の中、
人の消えた街に『自然』が芽生えはじめていた……

ラルス / 塗りつぶされた過去

土埃に晒され、色褪せた兵舎の中から、明るい声が響く。
作戦前夜の張り詰めた空気とは打って変わって、
兵士たちは笑い合い、自分たちが掴み取った勝利を祝う。
「乾杯――――――!!」
無礼講とばかりに注がれる黄金色の酒。
泡がグラスから零れ落ちることすら気に留めず、
男たちは次々とそれを飲み干していく。
先の作戦で奇跡的な成功を収めた部隊の兵士たち。
彼等には褒賞が与えられ、祝いの席が設けられた。
大きなヤマを越えた感覚、喉を潤すアルコール、
なによりも兵士たちは、その空気に酔っていた。
戦場での自慢話をする男、妻との惚気話をする男、
みんな口が軽くなり、話も弾む。
部隊の中には作戦での功績を称えられて、
昇格した兵士もいるらしい。
そんな明るい雰囲気の中で、
ただ一人浮かない顔をする少年兵がいた。
先の作戦では上官の命令を無視し単身で敵地に潜入、
そして敵部隊の隊長を殺害した。
その行動は部隊の勝利に大きく貢献したものの……
有り体に言えは問題児だ。
作戦内容を無視した少年の行動は、
軍法会議にかけられてもおかしくない暴挙だった。
しかもその行動に至った経緯は「私怨」。
無事に生きて帰ってきたことすら奇跡に近い。
結果的に作戦が成功したことも、少年がここにいることも、
部隊の仲間たち、特に隊長を務める青年のおかげだった。
にもかかわらず、少年は、
周りの兵士たちに感謝することもなく、
愛想よく会食に交わるでもなく、浮かない顔をしている。
その原因は、彼が敵の拠点に潜入し、
敵部隊の隊長を殺害する、まさにそのときにあった。
相手は、少年の私怨の根源。かつて両親を殺害した男だった。
少年は男を追いつめ、憎しみに染まる剣を突き立てる。
復讐の幕切れは、あっけなかった。爽快感も、達成感もない。
あるのはただ、戻ることのない過去だけ。
そんな薄暗い悲しみが少年の頭の中を埋め尽くすとき、
死に際に瀕した男が少年に語りかけた。
その内容は、今まで信じてきた人生の全てを、
根底から覆す内容だった。
今も頭の中で繰り返す、仇の男が語った言葉……
少年の出生の秘密、少年の暮らす国の過去、本当の父……
その話は、あまりにも突飛で、作り話のようで、
まったく理解の追いつかない「謎」だけが残った。
少年の瞳は虚空を見つめる。
手の熱でぬるくなっていくグラスの中身に、
気をとめることもなく。
そんな少年の様子を意に介すこともなく、
体格のいい兵士がやってくる。
そして、ドスッと無神経な音をたてて隣に腰かけた。
その男はいつも、生意気で協調性のない少年のことを、
目の敵のように扱っていた。
「また、いちゃもんを付けに来たのか……」
少年は益々うんざりした気持ちになり、顔を上げることすら、
億劫に感じた。
「おまえ、やるじゃねえか……」
少年の予想に反して、体格のいい兵士の口から出た言葉は、
批判や皮肉ではなく、賛辞の言葉だった。
予想しない展開に少年は思わず顔を上げる。
体格のいい兵士は、単身敵の拠点に潜入し戦った、
少年のその蛮勇を、半ば羨望のような気持ちで称える。
理由はどうあれ、部隊の仲間から手放しで褒められるなんて、
少年はなんだかむずがゆい気持ちになった。
少し赤らむ顔を隠すように俯いたまま、少年は立ち上がり、
兵舎の出口へと足を進める。
「おーいなんだよ、しょんべんでも行くのか?」
後ろに聞こえる粗暴な男の声に適当な生返事を返し、
少年は外に出た。
兵舎の外は夜の帳が下りて、静まり返っていた。
さっきまでの喧騒との落差で、耳鳴りがする。
少年が明るい雰囲気に馴染むことができないのは、
根っからの性格もあるが、今はそれだけじゃない。
考えなければならないことは山ほどあった。
少年は闇夜の中、出口のない思考に耽る。
どれぐらい考え事をしていたのだろう、
ふと気が付くと、背後に人の気配を感じた。
振り返ると、そこには片手に松葉杖をついた兵士。
彼は少年の目をまっすぐ見据え、
単刀直入に言い放った。
「お前……敵軍の拠点で何をしていた?」

夜も深まり、辺りはすっかり暗くなっていた。
兵舎の窓からは、まだ明かりが漏れ出している。
中では、兵士たちが酒を酌み交わし、
自慢話に花でも咲かせているのだろう。
そんな喧騒から離れた屋外で、
少年と松葉杖の兵士が向かい合っていた。
少年は予期しない来訪者であるその相手を観察する。
いかにも好青年、というような整った顔立ち、
小さな光でも跳ね返す明るい金髪。
そして一番目につくのは、
宝石を溶かしたような、美しい碧眼。
その特徴的な風貌には、周りに疎い少年でも見覚えがあった。
同じ部隊にいる兵士……
先の作戦のあとに昇進した兵士のひとりだ。
少年はそれを認識して益々当惑する。
目の前にいる碧眼の兵士が言い放った問いかけ、
――お前、敵軍の拠点で何をしていた?――
同じ部隊に所属しているとはいえ、
大して親しくもないひとりの兵士が、なぜこんな質問を?
しかも、人目につかないタイミングを見計らったように……
「質問の理由を聞かなければ、答えられない……」
少年はそう言って、碧眼の兵士を脱み返した。
碧眼の兵士は少年の返答を聞いて、
仕方ない……と諦めた様子で語り始めた。
それは先の作戦での出来事だった。
碧眼の兵士が所属する部隊は敵拠点へ侵攻する。
敵の部隊は少年が敵軍の隊長を殺害したことで混乱していた。
その隙をつき、部隊は敵拠点を制圧することに成功、
敵拠点の調査を始めた。
碧眼の兵士はそこで機密事項と書かれたファイルを発見する。
そのファイルには自軍のシンボルが刻印されていた。
「なぜ自軍の機密事項が敵軍の拠点に……?」
そのファイルを手に取ろうとした瞬間……
碧眼の兵士は何者かに襲われて気を失った。
既に敵は掃討したはずだった……にもかかわらず。
意識を取り戻したときには、
既にファイルはなくなっていたという。
思わず、少年の口から言葉が出た。
「俺がお前のことを襲った、とでも言いたいのか?」
碧眼の兵士は少年を見据えはっきりと言った。
「ああ、お前のことを疑っている」
部隊の中に一人、作戦を無視し、
敵軍の拠点に単身で潜入した兵士がいる……
嫌疑の目を向けられても当然だ。
「改めて問う。お前は敵の拠点で何をしていた?」
少年は言葉を選びながら、碧眼の兵士に答える。
幼い頃に両親を殺害されたこと。
その犯人が、敵軍の隊長だったこと。
そいつのことを殺すために、軍人になったこと。
復讐を果たすためであれば、
たとえ咎められたとしても、かまわなかったということを。
碧眼の兵士は黙ったまま俯いていた。
少年の言葉の真偽を確かめるように。
沈黙が、二人の兵士の間に流れる。
沈黙の中、少年は碧眼の兵士の話を思い返していた。
自軍の機密事項が、敵の拠点にあったこと。
それを見つけた碧眼の兵士は襲われ、
ファイルが奪われたこと。
そして、恐らく部隊の仲間が碧眼の兵士を襲ったということ。
もしかしたら、その機密事項と書かれたファイルには、
敵軍の隊長から告げられたこと……
この国の過去、少年の知りたい「真実」が、
記されているのかもしれない。
碧眼の兵士は、少年が自分を襲った人物ではないと、
そう判断したのか、ただ一言「そうか……」と言って、
それ以上の詮索をやめ、そのまま立ち去ろうとする。
少年は、碧眼の兵士を引き留めるように問いかけた。
「そのファイルはどうなったんだ?」
碧眼の兵士は不意の質問に答えた。
部隊の仲間が俺を襲ったのであれば、
回収されたファイルは、
軍の保管庫で眠っているだろうな……
そう呟いたあと、少年の方に向き直り、言葉を付け足す。
「余計なことは考えるな」
「俺達下っ端は、上の言うことに従っていればいいんだ……」
それだけ言い残し、立ち去っていった。
しかしその忠告は、少年の耳には届かなかった。
少年の頭の中は既に、機密事項と書かれたファイル、
その中身を知らなければ……という考えに支配されていた……

少年は碧眼の兵士から聞いた話を思い返す。
敵拠点内で襲われた碧眼の兵士、
機密事項と書かれた自軍のファイル……
碧眼の兵士は、この部隊に裏切り者がいると考え、
それを探るために俺にコンタクトしたようだった。
碧眼の兵士と協力関係を築くことはできないだろうか……
とも考えたが、少年はすぐに考えを改めた。
少年の探る真実、出生の秘密については、
できるなら誰にも知られたくはない。
少年は頭を切り替え、自分にできることを考えることにした。
本当に味方に裏切り者がいて、
そいつが件のファイルを回収していたとしたら……
確かにそれは保管庫の中に収められている可能性が高い。
軍の敷地には、様々な施設がある。
兵士たちが暮らす兵舎や、訓練場、資料室など。
そして、一部の人間しか入ることを許されない保管庫も、
この敷地内に内包されている。
少年は資料室で基地の設計図案を眺めていた。
誰もが忘れ去った遺物のように挨をかぶったそれは、
所々が黄色く風化し、いまにも破れてしまいそうだ。
少年は周りを窺い、図案の一部を破り取ると、
足早に資料室を出た。
保管庫にたどり着くための道のりをポケットの中に忍ばせて。
少年が向かった先は、更衣室。
といっても、変装をしたりするつもりはない。
目線を上げると、部屋の端に排気ダクトの金網がひとつ、
少年はロッカーの上に昇り、それを取り外した。
ここから保管庫に潜入する。
体格が小さいことを快く思ったことは無かったが、
このときばかりは、神に感謝した。
少年は肩をすぼめ、なんとかダクトの中に進入する。
懐中電灯を肩と首の間に挟み、身をよじるようにして進む。
そのたびに舞い上がる埃。
ハンカチでももってくればよかったな……と、
少年は後悔しつつ、こみ上げてくる咳をこらえる。
髪の毛が蜘蛛の巣まみれになり、
少年の心が挫けそうになる頃……
目的の場所へとたどり着いた。
設計図案によれば、この真下が保管庫だ。
少年はやれやれ……と一息つき、金網に手を伸ばす。
しかし今度は金網が外れない。
全身に纏わりつく埃と、予想外の邪魔立てで頭に血が上る、
そして、「あっ」と思ったときには遅かった。
無理にカを入れたことが崇り、金網は音をたてて壊れた。
少年は恐る恐る保管庫の内部を見渡す。
明かりの消えた室内の光源は、避難口誘導灯のみ。
しばらく息を潜め様子を窺う少年は、
沈黙する室内に胸をなでおろす。
もし誰かが中にいたら、ここでゲームオーバーだった……
ひたいに浮かぶ冷たい汗を拭い、ダクトから降りる。
保管庫の中は、鉄の壁のような収納棚が並んでいた。
それぞれに番号が振り分けられ、敵軍からの押収品や、
機密事項が記載された書類など、
収納する物の種別と日付で振り分けられているようだった。
懐中電灯の明かりを頼りに、並び立つ棚の間を巡る。
押収品の日付を確認し、それと思わしきファイルを、
片っ端から開いて目を通す。
その中にひとつ、機密事項と書かれたファイルがあった。
少年は碧眼の兵士の言葉を思い出す。
敵拠点の中で発見したファイル……
少年は深く息を吸い、ファイルを開く。
そこに刻まれた文字が目に入る。
「乳幼児拉致作戦概要」
早鐘のようになりだす鼓動、
震える指先で、少年は慎重にページをめくる。
そこには、この国がおこなった真実、
その一部始終が記されていた。
強い兵士を育てるという思想。
それを実現するために調べられた、各国の人々が持つ遺伝子。
優秀な遺伝子を持つ人間を集めるべく、組み立てられた作戦。
物心もつかない幼子を攫い、この国の人間として教育する……
仇の男が言っていたことを裏打ちするような記述の数々、
少年の信じてきた全てが、音をたてて崩れ去っていく。
その感覚は、今まで身に刻まれてきたどんな苦痛よりも深く、
少年の心を貫いた……

少年はいま、この国の最も薄暗い場所にいる。
後ろ暗い真実の只中に。
忍び込んだ基地の保管庫で発見したファイル。
敵軍からの押収品に紛れた、この国の記録。
目の前のファイルに記された、
「乳幼児拉致作戦概要」の文字。
そこに並べたてられた真実。
仇の男が少年に向けて語った言葉。
すべてが結びついていく。
めまいのような感覚。
息が苦しい。
少年はその場に座り込みそうになる……
だが、そうはしなかった。
正確には、そうすることは許されなかった。
なぜなら、背後から少年を襲うナイフの切っ先を、
避ける必要があったからだ。
こんな状況でも、一瞬の気配を察知し、
首元を通過するナイフを皮一枚で避けることができたのは、
少年に備わる野生の勘か、それとも、
ファイルに記されていた優秀な遺伝子によるものだろうか。
少年を襲ったのは戦闘用ナイフ。
それを握るのは、仮面を付けた襲撃者。
ナイフの切っ先に触れた首筋からは、
細い血の筋が流れていく。
何が起こっているのかを理解するよりも早く、
少年の脳は、戦闘態勢に切り替わっていた。
相手は初手で息の根を止めるつもりだったのだろう。
予想外の状況に陥り、次の手を出す前に生まれた一瞬の隙、
少年はそれを見逃さなかった。
相手の腕をとり、関節を固めて動きを止める。
襲撃者を壁に向かって押さえつけ、
少年はその仮面を剥ぎ取った。
その下には…………
こちらを睨みつける、宝石のように美しい碧眼。
「ッ…………!!」
相手も少年の動揺を見逃さなかった。
隙をつき、少年の腕を振りほどく。
仕留めそこなったのが運の尽きか……と、
悔やむような口調で、男は口にした。
「……余計なことは考えるなと……言ったはずだ……」
兵士たちが自らの勝利を祝う夜、
碧眼の兵士は少年のもとに現れた。
その時の忠告も虚しく、彼等は再び対面することになった。
今度は言葉を交わすだけではなく、命を奪い合うことになる。
碧眼の兵士は破れかぶれになったのか、
その怒りを少年にぶつける。
その声色には、怒りと、悲しみと、ためらいが、混ざり合っていた。
「俺だってこんなこと……したいわけじゃない……!!」
「仲間を後ろから刺すようなこと…………」
碧眼の兵士が真実を語る。
兵士たちが酒を酌み交わす際に話していた、
「碧眼の兵士が昇進した」という話は偽りだった。
実際は国の諜報部隊に転属となり、負傷兵を装い、
この国の秘密に近づく者を消せと命令されていた。
中でも、作戦を無視して単身で敵拠点に潜入した少年は、
目をつけられていた。
上層部からは、機密情報という内容をチラつかせ、
白か黒かをあぶりだせと命じられていたという。
「くそッ……くそッ……くそッ……!!」
襲い掛かってくる男は、冷静さを失っていた。
少年は静かに反撃の隙を窺う。
相手は少年が携帯している小型ナイフに気づいていない。
丸腰に見えた獲物のもとに飛び込んだ瞬間、
噛みつかれたのは碧眼の兵士だった。
怒気に飲み込まれた直線的な攻撃、
少年はぎりぎりまで引き付けた状態でそれをかわす。
手元に忍ばせた小型ナイフが、相手の首元を狩る。
くっ……という小さな声と共に、膝が折れる。
碧眼の兵士は必死に自らの首を抑えつけるが、
溢れ出る血が止まることはない。
小さくなっていく鼓動、男は壁を背にしてへたり込んだ。
目の前で光を失い、濁っていく、碧眼の瞳。
少年はその瞳を静かに見つめていた。
どれくらいの時間そこに突っ立っていただろう……
気が付くと彼の呼吸は止まっていた。
少年の足元に散らばった、ファイルの中身。
血に濡れた一枚を拾い上げる。
そこには、この国が拉致した子供たちの名前が記されていた。
作戦が立案された日付から推察するに、
上官や仲間のなかにも、該当する人間がいるかもしれない。
少年のように、他国から攫われ、
この国に組み込まれ、
偽りの人生をあてがわれた人間が……
混乱する頭を整理することもできないまま、
冷酷な真実を突き付けられ、
仲間だったはずの男を殺し、
信じられるものは何もない。
国も、仲間も、自分自身さえ…………
怒り、憎しみ、悲しみ、不安、恐怖。
すべてが混ざり合い、ドロドロになった感情が、
少年の心から溢れ出していく。
「俺はいったい……何のために生きればいい……」
少年の、震える唇から漏れ出した言葉は、
薄暗い静寂の中に吸い込まれ、消えていった。

グリフ / 血塗られた勲章

ザンッザンッと音を立て、一糸乱れぬ隊列を成して行進する。
演習場の土を蹴り上げる、軍人たち。
軍への入隊。それは国に命を預けることと同義だ。
時がくれば容赦なく戦場へ駆り出されることになる。
だがそれでも、貧しいこの国では入隊希望者が後を絶たない。
軍人になる事で受けられる報奨金が目当てだった。
「軍に入隊すれば一生安泰」
そんな謳い文句があるほど、毎年何千人もが志願をする。
しかし、厳しい試験をいくつも合格する必要があり、
最終的に残る人数は数十人程度と言われている。
無事に入隊した者はいくつかの隊に分けられ、
先輩である指導役や上官となる隊長の元に配属される。
同じ隊に配属された者たちは、軍の寮で寝食を共にする。
集団行動で規律を身体に覚えさせるためだ。
ここは、ある国境沿いに配備された小さな拠点。
その軍会議室に、新人隊員たちが整列している。
隊員たちの前に立つ隊長が、軍の試験を首席合格したという隊員の名を呼ぶと、
一人の青年が前へ出て、凛とした敬礼をする。
隊長からの期待の言葉を受け、
「はっ!」と短く返事をする青年の目には、
軍に対する大きな志が灯っていた……
それからしばらく経ったある夜、寮内に騒がしい声が響く。
青年と、同僚の隊員が口論を始めたのだ。
彼らは普段の訓練でも競い合い、頻繁に対立していた。
青年は他人に横柄な態度をとるふしがあり、
他の隊員たちから距離を取られつつあったが、
その同僚とは気兼ねない関係を築けていた。
青年にとって数少ない「親友」とも言える仲間。
口論が過熱していく様子を、
まるで楽しむように周りの者たちが焚きつけていく。
「お前はいつも勝手な行動ばかりだな!」
頭に血が上った同僚からの言葉に、青年が反論する。
「うるさい! 俺にはデカい目標があるんだよ!」
やがて取っ組み合いの喧嘩へと発展し、
傍観していた隊員たちも止めに入るが、収まる気配はない。
喧嘩を止めたのは、ガチャリと寮の扉を開く音。
隊長の姿を見るや否や、隊員たちは全員静まり返り、
背筋を伸ばし、足を揃えて立ち構える。
隊長は「やれやれ、またか……」と呟き、
騒動の中心である二人に罰として倉庫の掃除を命じる。
連帯責任として同じ罰を課せられた指導役の先輩隊員も、
うんざり顔で深いため息をついた。
古く使われなくなった倉庫の掃除。
掃除をして何の意味があるのかと、
青年が抑えきれないように苛立ちを吐露する。
「あの隊長、俺にこんな雑用を押し付けるなんて……!」
それを聞いた先輩隊員が、仕事に戻れと青年を注意する。
「口よりも手を動かせ。罰を受けるのも軍人としての務めだ」
ただ黙々と掃除をしている同僚と先輩隊員の姿に、
青年の苛立ちは余計に募る。
「俺は一刻も早く戦場で功績をあげて、
名誉勲章を手に入れなきゃならないんだ……」
名誉勲章。
この国で、功績をあげた軍人に授与される最高位の勲章。
勲章の受章は、軍での出世を約束されると言われている。
「俺の実力を知らしめて、軍のトップへ上り詰めるんだ」
軍の報奨金目当てで入隊を希望する隊員が多い中、
大きな志を胸に抱く青年。
同僚と先輩隊員は、青年の胸の内を初めて聞いた。
確かに実技訓練や試験における青年の実力は相当なもので、
その言葉が口だけだと否定することはできない。
言いたいことを言ってスッキリしたのだろうか。
倉庫から出ていこうとする青年を、
同僚が 「まだ掃除は終わってないぞ」と制止する。
しかし青年は当然のような顔でこう返した。
「俺の担当範囲は終わった。だから帰って寝る」
大きな志を成すためには、共に目指す者が必要不可欠だ。
「人望」というものがいかに大切であるかに、
青年は気付いていないのだろうか。
倉庫に残された二人は同じことを思っていたのか、
不思議と目が合い、思わず苦笑いした……

数日後。
隊のメンバー全員を招集する通達があった。それはつまり、
重要な作戦会議が行われることを意味している。
会議室に集まり、ピリッとした空気に包まれる隊員たち。
誰しもが一言も発さずに会議の開始を待つ。
しかし十分経っても会議は始まらない……
理由は単純。隊長が今日も寝坊しているからだ。
今日も青年のイライラは募る。
しばらくして隊長が現れると、いつものように
「いや、わるいわるい。今日も寝坊だ……」と言い、
隊員たちの笑いを誘う。
ようやく作戦会議が始まった。隊長が真顔になる。
敵国の軍勢が国境付近に向かって進軍しているらしい。
その情報に、隊員たちの笑顔が消える。
隊長は続けて今回の作戦内容を伝え始めた。
「本作戦は敵軍の侵攻を阻止して自国の領地を守ること。
つまり、侵攻方向にある我々の拠点を防衛することにある」
目的はあくまで拠点の防衛。犠牲は最小限に留め、
敵軍を撤退させればいいのだと、隊長は念を押す。
シンと静まった会議室に声が漏れ始めた。
やる気を見せる者、安堵する者、不安になる者。
三者三様の状況の中、青年が申し出る。
隊長があくびをしつつ、青年の発言を許可する。
青年はムッとした表情を隠しもしない。
敵国の情勢を踏まえた前置きを述べた後、
隊長が説明した作戦内容を真っ向から否定する。
敵軍の『殲滅作戦』を提案した。
ザワつく会議室。
青年は追い打ちをかけるように提案を続ける。
長年、国の脅威であった敵軍の一部隊を叩けば、
我が隊の大きな功績になると。
だが、その提案は隊長によって阻まれた。
「却下かな……作戦の要点は拠点の防衛だと言っただろう?
隊員に犠牲が出たら、僕が責任を取ることになるじゃないか」
青年は食い下がらずに進言を続け、
両者の押し問答はその後もしばらく続いた。
しかし、隊長の作戦を覆すことは結局できず、
会議は閉会となった。
自分の立案した作戦が却下されて、
さらにイライラを募らせる青年。
「くそっ、どうして理解してくれないんだ!
俺の方がよっぽどこの隊のために……!」
どうしても諦めきれない青年は寮内を回り、
自分の作戦に肯定的な隊員を秘密裏に集めることにする。
普段の青年の横柄な態度から、
賛同してくれる隊員は多くはなかった。
青年は親友である同僚にも誘いをかけてみたが、
彼は少し迷った後その誘いを断った。
確かに名誉勲章は、軍人になった者であれば
誰しもが目標とすべきものではある。
だが同僚は、それよりも日々の軍務を果たし、
故郷の家族のために仕送りをしてやりたい。
だから危険な作戦に参加することはできない、と話す。
その理由が本当なのか嘘なのか。
はたまた、裏で勝手にそんな作戦を企てている
青年の行動に対して苛立ったのか。
同僚が拳を握りしめていたことに、青年は気付く。
各々の想いが交錯したまま、
作戦当日は少しずつ近付いていった……

戦場とは思えないほど、そこは静かだった。
聞こえてくるのは、青年自身の荒い呼吸の音だけ。
自軍の拠点に立つ青年の前に、
おびただしい数の死体が転がっている。
それらは紛れもなく……
4時間前。
敵軍が国境に到達し、戦闘が開始された時刻。
隊長の作戦通りに、隊は敵軍から拠点を防衛し続ける。
消耗戦となった戦況にしびれを切らした青年は、
独断で殲滅作戦を実行へと移すことにした。
拠点周辺の地の利を活かした青年の奇襲作戦は、
見事に敵戦力の大半を無効化した。
作戦に賛同し協力してくれた数人の仲間を犠牲に、
多くの敵兵の命を奪い、撤退へと追い込んだのだ。
壊滅状態の敵兵を見て、青年は戦場で笑っていた。
「やはり、俺の考えに間違いはなかった」と。
これまで戦場で大きな功績も残してこなかった我が隊が、
此度の働きによって、大きく評価されることになるだろう。
名誉勲章に一歩近付いた……
そんなことを考えながら帰還した拠点で、
青年は地獄のような現実を見せつけられることになる。
その場にまるで石ころのように転がっているのは、
無惨にも血塗れで倒れている大勢の仲間たちだった。
土煙が舞い上がる中、薬莢と血がそこら中に飛び散り、
硝煙の中に人の血肉が焦げた臭いが混ざる。
それは、青年がこれまで見たどこよりも凄惨な戦場だった。
吐き気を必死に抑えて、息を整える。
大丈夫、大丈夫だと言い聞かせ、
思うように動かない足を必死に前へ出して歩いていく。
しかし何かに足を引っかけたのか、青年はその場に転ぶ。
足元には、爆発で土を被った重傷の仲間……
指導役の先輩隊員が倒れていた。
まだかろうじて息はあるが身体中に銃弾を浴びており、
助かる見込みはないに等しかった。
「先輩!先輩……」
青年の声に気付いたのか、うっすらと瞼を開ける先輩隊員。
意識は朦朧としており焦点が合っていないが、
青年がそこにいることだけは感じているようだった。
「お前……敵拠点に……攻め込んだだろう……」
青年の独断行動は、当然のように見抜かれていた。
「隊長が……お前を……救おうと……」
「陣形を……変えたら……このザマさ……」
そう言って、先輩隊員は息を引き取った。
隊長が俺のために……? 普段あれほど口答えし、
手を焼かせていたはずなのに……
青年は先輩隊員の死を受け止めきれず、
朦朧とした意識のまま、隊長を探そうと戦場を進む。
次に発見したのは、親友である同僚の変わり果てた姿。
爆薬で左脚が吹き飛んでおり、
そこから大量の血が染み出していた。
「元気かよ……」
もう手遅れな身体でも、同僚は皮肉を言う。
これは自分が招いた結果だと、懺悔する青年。
「すまない……俺……」
「俺も……憧れだった名誉勲章……
家族のため……なんて言ったけど……欲しい……よな……」
彼の口はそれ以上動くことはなかった。
青年は涙を垂れ流しながら、隊長を探し続ける。
出会うのは、仲間の死体、死体、死体……
ようやく見つけた隊長の姿。青年は駆け寄る。
すでに事切れてしまったのか、どれだけ声をかけても、
グッタリと倒れこんだまま反応がない。
「隊長、俺……おれ……」
ボロボロになった隊長の手を取る。
作戦を無視し独断で行動をするという、
重罪を咎められることもなければ、謝罪することもできない。
自分の犯してしまった罪の大きさ、
そして隊長のことを誤解していたこと。
言いたいことが混ざり合い、うまく話せない。
溢れだした涙も止まらず、それをさらに助長する。
ふと、青年があることに気付く。
隊長が青年の手を握り返していた。
まだ息がある。助かるかもしれない。
青年がそう思い、声を出そうとしたとき……
「ああ……お前が助かってよかった……」
目が開いていたわけでもない、
咽び泣いていた声が青年であることも、
手を握るのが青年であることを知っていたわけでもない。
けれど隊長はそれが青年であることを確信したかのように、
笑顔でそう言い残した。
青年を除いた生存者は……0名。
仲間の命を犠牲に、英雄の戦闘は幕を閉じた。

地獄のような作戦が終了し、一人帰還した青年。
多大な犠牲が出たが、敵を撤退させたことに変わりはない。
青年にはしばらくの休暇が与えられた。
休暇中、青年はすることがなかった。
することができなかった、という方が正しいかもしれない。
ただ一日家の中に引きこもっては酒に溺れる日々。
酒の空き瓶が床に何本も転がり、
生ごみが部屋中に散乱してネズミがたかる有様。
目覚めて、酒を飲み、いつしか寝ている。
それが繰り返される毎日だった。
それだけならまだよかったかもしれない。
眠れば、戦の記憶がフラッシュバックし、
悪夢となって青年を苦しめ続ける。
あの日の戦場、この手で殺した敵の顔、
目の前で死んでいく仲間達。
指導役の先輩も。親友だった同僚も。隊長も……
目の前で、青年の手の中で死んでいく。
毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日…………
悪夢は繰り返され、
生活に支障をきたすほどの強いストレスを青年に与え続けた。
あの日、俺があんな提案をしなければ。
あの日、俺があんな作戦を決行しなければ。
あの日、俺が……
思い返せばキリがないほどの後悔を繰り返しながら、
青年は自分自身を責め続ける。
俺のやってきたことに、はたして意味はあったのだろうか。
俺のやってきたことに、はたして誇りはあったのだろうか。
俺のやってきたことに、はたして正義はあったのだろうか。
名誉勲章を得るための、身勝手で横暴な行動が原因なのか。
いっそのこと、楽になってしまおうか。
酒に酔った勢いで銃に弾を込め、
銃口をこめかみに向け、立ち上がる。
引鉄に人差しをかけ、目を瞑り、肺一杯に空気を吸い込む。
「この引鉄を引けば……みんなのところに……」
人差し指に力をこめる。
だが、酔った状態で目を瞑ったせいか、
目の前のテーブルに勢いよく倒れこんでしまった。
一通の封書が目に入る。
それは軍上層部からの通達書類。
殲滅作戦の決行が評価された青年への名誉勲章の授賞と、
隊長への昇進を告げる内容だった。
「馬鹿らしい……」
青年はそう呟いた。
この命も、隊長たちの犠牲の上に成り立っているのに……
そういえば、明日はその授与式だっただろうか。
そう思いながら青年は睡眠導入剤を飲んでベッドに入る。
夢の中。
そこはやはりあの日の戦場。
いつもと違うのは、
青年が独断で殲滅作戦を決行する前の状況であること。
「俺はもう二度と間違わない……」
殲滅作戦は決行せず、拠点に残り敵を一人一人、
確実に殺していく。もう誰も殺させないと強く願いながら。
修羅にでも呑まれたかのように青年は殺し続けた。
一体何人の敵兵を殺し続けたのかもわからない。
でもいいんだ。これで、仲間を助けられるのだから。
ふと、殺した敵兵の顔を覗く。
それは全員、隊の仲間たちだった。
先輩を、親友を、隊長を……またこの手で殺した。
短い悲鳴と共に、青年は察する。
「どう足掻いても、俺は仲間を助けられないのか……」
胸糞悪い夢を見て青年は目覚める。
窓から差し込む朝の陽射し……
今日は念願だったはずの名誉勲章の授与式典だ。
隊を全滅にまで追いやったやつが、
この章を受け取ることにどんな意味があるというのか。
彼らに一体どんな顔で、どんな姿で向き合えばいいのか。
式典を終えれば、青年は隊長へと昇格する。
そして、いずれ部下もできるのだろう。
「……俺、どうやって罪を贖えば……
隊長、俺に教えてくださいよ……」
そんなことを考えながら、礼装に袖を通す。
久々に鏡で見た自身の姿は、酷いやつれようだった。
己の姿から目を背けるように、
青年は重い足取りで式典会場へと向かった。
まるでそれが、贖罪かのように……

ノエル / 螺旋兵器

薄暗い部屋の中に立ち並ぶ機械。
物々しい雰囲気を放つそれは、立てた棺の様な姿をしていた。
大きな音を立て、その棺の前面部が開く。
そこには白い髪を肩ほどまで垂らした、
一人の少女が眠っていた。
長い睫毛が微かに揺れ、瞼が重々しく持ち上がる。
開かれた暗い橙色の瞳。
彼女は状況を把握しようと、左右へ瞳を泳がせた。
初めに目に入ったのは、壁面に取り付けられたモニター。
そして、何をするでもなく立ち尽くす、十数人ほどの人影。
少女は無意識に、その人影の顔を窺おうとする。
一人、そしてもう一人と、順番に視線を移していった。
そうして理解できたのは、ここに居る人影は皆、
同じ顔をした少女達であるという事だった。
瞳の色、髪の色、唇の色、肌の色、
着ている服や耳の形、身長、恐らくは体重までも。
その全てが寸分違わず、まるで同じ姿をしている。
「………………」
しかし、少女は驚く素振りなど見せなかった。
それを知っていた訳ではない。
むしろ、彼女は何も知らないのだ。
冷たささえ感じない、情緒の欠けた表情。
目覚めたばかりの少女は、その髪の色のように真白だった。
機械の外に出て、彼女は簡潔な所作で歩き始める。
他の少女達を通り過ぎ、部屋の中央で足を止めた彼女は、
再び辺りを見回した。
十数人の少女と、同じ数が立ち並ぶ空の機械。
――最後に眼を覚ましたのは彼女であったようだ。
そして、何も映っていないモニター。
床や天井などを列挙しない限りは、
部屋にあるのはそれだけだった。
部屋の状況が把握できると、少女は己の身体へ眼を落とす。
身に着けられているのは、他の少女達とお揃いの衣服。
口元までを隠した襟の内側には、
何か小さな機械が取り付けられている。
それから、少女はモニターの方へと顔を向けた。
室内の微かな光を反射して、少女の顔が映り込む。
そこに映る顔もまた、周りの少女達と同じ顔をしていた。
感情の窺えない瞳がぼんやりと、自分の顔を見詰めている。
少女がそうしていると、
暗く落ちていた画面が突如、青色に灯った。
青いモニターへと映し出される白い図形。
瞬いては形を変え、それを繰り返す。
「…………」
少女は意味も分からず、ただ画面を踊る図形を眺めていた。
その時、襟元の機械が高音と共に駆動を始める。
瞬間、少女の意識は反転した。
頭の中に響く声、視界を駆け抜けていく景色。
濁流の様にあらゆる情報が脳内を満たしていく。
頭が熱い。
そんな錯覚が頭の中で像を結び、
意識の中に『文字』となり灼き付いていった。
こえ、いろ、イたみ、ヒかリ、ネつ、かタチ、カゲ、
声、色、痛み、光、熱、形、影――――
「はぁっ、はぁっ……」
少女の視界が戻る。
呼吸は整わず、足はふらついたまま。
しかし、彼女は理解した。
私達は、『兵器』だ。
汗で貼りつく前髪をよけ、少女はモニターへと眼を向ける。
そこには白い『文字』でこう書かれていた。
『十一番記憶の強制投与に成功。』
――動植物を基に造られた兵器を、生体兵器と呼ぶ。
少女達は、一人の人間を元に造られた兵器だった。
彼女達は、生み出されてから目覚めるまでの間に、
兵器としての本能を植え付けられ、
薬品の投与によって、強引に身体を成育させられた。
そして目覚めた後、兵器として必要な知識だけを与えられ、
少女達は戦いに駆り出される。
殺す事の意味も、生きる事の意味も分からないまま。
彼女達にも、『兵器』としての役目が与えられた。
『十三体の標的を殲滅せよ』
モニターに映し出された命令。
はい、という同じ声が、人数分だけ部屋に響いた。
作戦の説明に続き、標的の情報が画面へ映し出される。
音はなく、文字と図のみが、
淡々と画面に映し出されては消えていく。
『説明は以上です。作戦行動を開始してください。』
その文言を最後に、モニターは再び暗く落とされた。
青い明りを失い、再び影に沈んだ部屋。
その黒を裂くようにして、白い光が射し込んだ。
壁面が動き、少女達の視界に、外の景色が広がる。
白日の空、現れる漆黒の車両。
少女達は作戦目標を目指し、
行進の様に整った足取りで車両へと乗り込んでいった。

作戦開始から約二十一分。
かつては市街地であった区画にて、
少女達は揃い、ある一点を見詰めていた。
目標地点に到達した少女達は、それから四分後に標的と遭遇。
しかし、未だ交戦状態へは移行していない。
それには一つの理由があった。
少女達の見詰める先には作戦目標が一体。
その姿は少女達と同じく、頭部、胴体、四肢といった、
人間と同じ要素で構成された人型である。
しかし、それぞれの部位は不均一に歪み、
その姿は乱雑に縫い合わせられた人形を想起させた。
太陽光を不気味に反射する表皮は、
淀んだ虹色に輝いている。
そこまでは、情報通りだった。
少女達の中でも、最も後方に立つ少女。
大きな狙撃銃を構える彼女は、
あの薄暗い部屋で最後に目を覚ました個体だ。
「………………」
彼女は狙撃銃の照準器を覗き込み、味方の状況を確認する。
剣などの近接武器を持ち、前線に立つ少女達。
槍や大剣など、大型の武器を扱う者はその後方に、
彼女の様な、遠距離武器を持つ少女は、更に後方から機を窺う。
少女達の武器は、移動に用いた無人車両から持ち出された物だ。
人数分が用意されていたそれは少女達に分配され、
役割の違いをもたらしている。
同じ顔、同じ心を持つ少女達は、武器の役割に沿って、
別々の行動を取り始めていた。
味方の状況を確認してから、少女はそのまま照準器越しに、
標的の様子を窺う。
作戦開始前の情報と異なっていた点。
それは標的が、少女達に反応を見せなかった事。
一度少女達をはっきりと確認したにも関わらず、
まるで興味がないかの様に、標的は地面に指を走らせている。
その行動は説明された彼等の特徴、
『凶暴かつ残虐』という項目とは一致しない。
少女達はそれを警戒していた為に、戦闘行動に入れずにいた。
遭遇から五分ほどが過ぎ、戦況はようやく動き出す。
剣を握った少女が、他の少女達へ、
自分が距離を詰めると提案をしたのだ。
標的に向かい、ゆっくりと歩みを進める彼女。
照準器を覗き込む少女は、その様子を見詰めている。
その距離が十五メートルほどに縮まった時。
虚ろな瞳が、少女へと振り返った。
その瞳が、少女の肢体を見回す。
少女が剣を振り上げようとした瞬間、それは宙へと迸った。
音もなく、突如幕を開ける戦闘。
標的は空中で体を捻じらせ、
その勢いのまま、少女へと両腕を振り下ろす。
彼女は咄嗟に、剣を盾に身を庇った。
衝撃に土煙が舞う。
その中で、少女の瞳が赤色に輝いた。
虚ろな眼と紅の視線が交差する。
それは、人の形をした、人ではない者達。
土煙の中を赤い光が駆け回る。
加速していくように繰り広げられる攻防は、
両者が人ならざる者である証明に他ならない。
攻撃がぶつかり合い、赤い光の動きが止まった。
煙が風に流れ、両者の姿が露になっていく。
「……っ――――」
その時、狙撃銃を握る彼女が息を止め、引き金を引いた。
空を裂く弾丸。
標的が銃声を耳にすると同時に、その左腕が弾け飛ぶ。
片腕を失い、鍔迫り合いの体勢は崩された。
無防備に倒れ込む標的。
剣を握った少女の背後から、もう一人の少女が飛び出す。
空中から突き立てられる槍が、雷の様に標的を貫いた。
一体目、沈黙。
狙撃銃を構える少女は心の中でそう唱える。
同時に、自身の中にある、不可思議な感覚に気が付いた。
穴を埋めるような感覚。
しかし彼女はそれが何なのか、
何によって引き起こされたかを理解できない。
少女は何かを確認するように、両の掌を見た。
そこには何もない。
――何かを、手に入れた様な気がしたのに。
「……?」
少女は狙撃銃を握り直し、立ち上がった。
胸中に違和感を抱えながら、
彼女達は次なる標的を探し、移動を開始する。
先頭に立つは、剣を握るあの少女。
戦いで与えられた役割が、
少女達の中に、自然と『リーダー』を生んでいた。
先導して歩く彼女もまた、自分の掌を見下ろしている。
しかし、彼女にもその違和感の正体は分からない。
勝利を喜ぶ感情ではなく、
お互いを補い合う連携、ただそれが、成功した事への高揚感。
少女達にはまだ、それが分からなかった。

廃墟を駆ける白い影。
足音を立てぬよう走る少女の視線の先には、
強大な標的と対峙する他の少女達。
急ぎ足音を立てれば、作戦は瓦解する。
臆して足を緩めれば、その分だけ死者が出る。
最善の手は何か。
走りながら考える彼女は、
血に濡れた手を袖で拭い、狙撃銃を握り直した。
――その『強大な標的』と遭遇したのは、十五分前。
少女達が十一体目の標的を倒した時。
廃ビルの上から現れたそれは、まさしく災害だった。
その体躯、およそ十メートル。
人の形を無理矢理に拡大したような不自然な体格には、
所々に皹が走っている。
『変異種』。
通常の個体にはない特質を獲得した存在。
その情報は、作戦前に共有がなされていた物。
しかし、その遭遇は、余りに唐突だったのだ。
まるで隕石の様に降ってきた十二体目は、
着地と同時に一人を踏み潰し、
少女達がそれを認識するより早く、もう一人の命を奪った。
廃墟の街に少女達の鮮血が舞う。
巨体の頂点にある虚ろな瞳が、その光景を見下ろしていた。
――そして少女達は今に至る。
陣形の立て直しには成功した彼女達だったが、
その戦況は、全く優勢とは言えなかった。
変異種の繰り出す拳を殺し、少女が刃を振るう。
しかし、巨体を覆う厚い外皮が、その攻撃を通さなかった。
有効打を与えられぬまま、疲弊していく少女達。
その時、標的の育後で爆発音が響く。
狙撃銃の銃声だった。
大きな弾頭が標的の首元へと奔り、
着弾の衝撃に巨体が揺れる。
しかし、それだけだった。
またも拒絶された攻撃は、その表皮に皹を走らせたのみ。
巨体が振り返り、弾薬を装填する少女へと襲い掛かる。
だが、それこそが彼女達の狙いだった。
人間の身体は、骨の動きに対応する為、
伸縮する柔らかい肉や皮膚で覆われている。
人型をそのままに身体を巨大化すれば、
その伸縮の必要な距離が、通常よりも大きくなる。
巨体に走る皹は、その変化に耐えられなかった箇所だ。
そう考えたのは『リーダー』、剣を握る少女だった。
巨体が振り返り、腰元の皹が開く。
足元を駆けていた少女は、自分から注意が逸れた瞬間に、
飛び掛かり、その皹へと剣を突き立てた。
標的は叫び声を上げ、その体勢を大きく崩す。
少女はそのまま、標的の身体を駆け上がるように剣を走らせた。
噴き出した血液が、少女の身体を真赤に染め上げる。
標的の巨体が、うつ伏せに地面へと倒れ込んだ。
地面が震え、埃が舞う。
そして残る少女達が、一斉に巨人の頭部に迫った。
狙うは、狙撃銃で皹を入れた首元。
再び放たれた狙撃銃の弾頭が、皹を割りその表皮を貫いた。
続く少女達がその痕を大剣で裂き、槍を突き立てる。
やがてその巨体は、痙攣するように指先を震わせた後、
一切の動きを見せなくなった。
廃墟の中でそれを見ていた少女は、
狙撃銃から手を離し、息を吐く。
呼吸で狙いがぶれないよう、
止めていた息を吐き出すその仕草は、
まるで安堵の息を漏らしたかのようにも見えた。
少女は狙撃銃を抱え、他の少女達の元へ戻ろうとする。
その時、少女の背後で物音がした。
十三体目。
廃墟の奥から現れたそれは、
狙撃の為に孤立していた少女の喉笛を、容赦なく食い破った。
血飛沫が舞い、その身体が力なく倒れる。
廃墟に、紅色の染みが広がっていく。
破れた喉から、呼吸の音が漏れた。
遠ざかっていく意識の中、少女は自分の掌を見る。
――そこにはただ、
血に濡れた手が、力なく投げ出されているだけだった。

――十三体目の標的、その息が止まる。
そうして作戦を終えた少女達の前に、無人車両が再び現れた。
厚い装甲に覆われた漆黒の機体は、
数人の少女達を乗せ、彼女達の目覚めた場所へと走る。
窓のない車内は薄暗く、武器を収納する為の設備以外には、
転倒防止用の手すりが壁面にあるのみ。
『兵器』を運ぶ車両であれば、当然の造りだった。
荒野を走る金属の箱。
椅子さえない車内に、少女達は座り込む。
その人数は、元々乗っていた数の半分にも満たない。
車内を支配する、沈黙と鉄の匂い。
壁面に収納された武器は。血に濡れたままだ。
少女の一人が、意味もなくその武器に目を向ける。
並んでいるのは、自身が使っていた片手用の剣や、
使用者を失った幾つかの武器。
そして、破損等により武器を回収出来ず、空白となった箇所。
銃器を納めていた枠にはその空白が多く、
狙撃銃のあった部分は、とりわけ大きな空白になっていた。
――埋められない穴。
それを見ながら、少女はそんな事を考えていた。
車内に座り込んだ少女達は、一言も言葉を発さない。
しかしその沈黙の中でさえ、
装甲の影響なのか、車外の音は聞こえなかった。
少女は武器を見詰めるのを止め、瞳を閉じる。
車に揺られながら、ただ時が過ぎるのを待つ。
往路と同じはずの移動時間が、
長く感じていた。
長く、感じられるようになっていた。
――それから暫くして。
長らく揺れ続けていた車の動きが止まった。
目的地へと辿り着いた車両が、ひとりでに扉を開く。
窓のない車内に、太陽の光が射し込んだ。
開かれた扉から車外へ、少女達が歩いていく。
負傷により足を引き摺る者。
疲弊し、足取りの重い者。
瞳を閉じた少女は立ち上がりもせず、
様々な足音が遠ざかっていくのを聞いていた。
誰の足音も聞こえなくなってから、
少女は静寂に急かされたような気がして、
ゆっくりと瞼を開く。
最後の一人が車を降りると、
大きな扉が音を立てて閉じ始めた。
少女はふと、振り返る。
動作する扉に隠れ見えなくなっていく、壁面の武器。
「………………」
扉が完全に閉じ、エンジン音が響き始める。
無人車両が何処かへ走り去っていくまで、
少女は一人、ずっとそこに立ち尽くしていた。
『お疲れ様でした。』
薄暗い部屋へと帰ってきた少女達を出迎えたのは、
青い画面に映る、無機質な白い文字。
想定よりも死傷者が少ないなど、
少女達を称賛する言葉を映し出す画面。
作戦前と同様、音もなく、
淡々と文字が映し出されては消ていく。
称賛の言葉の次に映し出されたのは、
『次の作戦』についてだった。
目標や手順は今回と同一だが、
標的の数など、作戦規模は今回よりも大きくなるという。
その為に、人員の補充も行われるそうだ。
少女達は黙って画面を見詰めている。
次の作戦についての幾つかの指示と説明が終わると、
少女達は傷の修復と身体の調整の為、
眠っていた機械の中へ戻る事を促された。
少女達が「はい」と返事をする。
その返事はもう、作戦前の様に揃ってはいなかった。
暗く落とされる画面。
少女達は指示に従って、
自身の眠っていた機械の中へと戻っていく。
棺の様な機械の中で、少女は考えていた。
想定されていた死傷者数。
彼女達の死は、初めから予見されていた。
今、自分は生きている。
しかしそれは今回を生き残ったに過ぎない。
次の作戦で自分が死んだとして、
別の少女が『補充』され、戦いは続くのだろう。
何かに違和感を抱いていた。
少女は思考を巡らせながら、自分の掌に目を落とす。
そこには何もない。
始めから、そこには何もなかったのだろうか。
自分が何について考えようとしているのか。
少女には分からない。
機械の内部を液体が満たしていき、
少女の意識が霞んでいく。
――――――手にあったような気がした何か。
――――今はそれを感じられない。
――本当に、そこには何もなかったのだろうか。
少女はその疑問に答えを出せぬまま、
暗闇の中へと落ちていった。

レヴァニア / 在りし日、或る男

ランタンの灯りで赤茶けた土壁に、異形の影が映る。
数百年前に封じられた坑道の奥深くに、奴は潜んでいた。
ドラゴン――それもとびきり凶悪な、太古の龍。
侵入者に気付いたドラゴンは、
威嚇するかのように、坑道を揺るがす咆哮を上げた。
次の刹那、鋭い牙の奥が深紅の炎で赤く染まる。
戦いは、唐突に始まった。
――――2時間後。
『MISSION COMPLETE!』
モニターに映し出される金色の文字。
地に臥したドラゴンと、剣や杖を高らかに掲げる冒険者達。
ファンファーレと共に舞う、煌びやかなエフェクト。
間接照明だけが焚かれた薄暗い部屋の中、
パソコンデスクに向かう青年の眼鏡にも、
ちらちらとエフェクトが反射する。
青年が興じていたのは、オンラインアクションゲームだった。
いまやプレイ人口100万人に達しようかという、
国内屈指の人気タイトルだ。
そして現行バージョン最強の敵として、
実装されたばかりのドラゴン『太古の龍』は、
たったいま青年と仲間達によって討伐された。
グループチャットのウインドウに、仲間達の言葉が躍る。
勝利の余韻を楽しんでいるようだ。
「おつ~」
「オレ、何度も死んでスマン……!」
「みんな初見だし、しょうがないよ」
「勝てたからいいじゃんw」
「てか、ほとんどレヴァニアの独壇場w」
『レヴァニア』とは、デスクに向かう青年が操る、
人外のようなキャラクターの名前だった。
もちろんゲーム用のハンドルネームで、本名ではない。
青年も仲間に向け、キーボードを叩く。
「俺は遊びでやってるわけじゃないんでね」
すると仲間からの、速攻の突っ込み。
「でた! レヴァニアの口癖w」
青年の……というかレヴァニアの発言は、
あくまでリップサービスだ。
仲間達も、ゲーム上とはいえ長い付き合いなので、
それを承知した上で面白がって茶化している。
つまり、気の置けない友人同士の内輪ネタだった。
しかし、青年がドラゴン討伐の立役者であることは、
誰の目にも明らかだった。
彼がいなければ、討伐は成しえなかっただろう。
時計の針が午前1時を過ぎた頃、
ぼちぼちと仲間達が現実へと戻っていく。
「それじゃお先w」
「おやすみなさーい」
「てか、明日6時起きw」
「オレも寝るわ!」
「おつ~」
青年も「みんなまた明日」とチャットに残し、
メニューからログアウトを選ぶ。
ゲーム内でどれだけ活躍しようと、
それとは無関係に現実はやってくる。
青年は気怠げにベッドへ潜り込み、眼鏡を外した。
翌朝。
虚ろな目をした青年は、満員電車に揺られている。
眠い、疲れた、もう帰りたい……
そんなことを考えているうち、
電車は無情にも会社の最寄り駅に到着する。
勤務先は、いわゆるITベンチャーと呼ばれる企業で、
青年は勤続4年目の中堅エンジニアだった。
青年の会社では、出社後のルーティンとして、
毎朝チーム単位でミーティングを行う。
誰々の進捗が遅れているだの、
急な仕様変更への対応がどうだのと、
上司が一方的にしゃべるだけのミーティングだ。
青年は、そんな上司の話を聞き流しながら、
昨晩のゲームプレイを思い返していた。
ドラゴンとの戦いを経て、
仲間達の目に、自分の振る舞いはどう映っていただろうか。
昨日の自分は、
ちゃんと『レヴァニア』を演じきれたのだろうか。
青年は、自身が作ったレヴァニアというキャラクターに、
ある『役柄』を演じさせていた。
率先して陣頭指揮を執るリーダー気質、
それでいてユーモアも忘れず
仲間とはフランクに接しあえる仲で、
皆から信頼されるカリスマ性も兼ね備える……
それは、ゲームの中だけにいる、まるで別人な自分――
現実の青年は、レヴァニアとは対極的な性格だった。
内向的で、喜怒哀楽も表に出さず、友達と呼べる人もいない。
社会生活に必要な最低限のコミュニケーションしか取らず、
人間関係に深入りしようとは思わない。
そしてどことなく、現実社会の理不尽さ、非合理さに、
納得がいかない感情をくすぶらせている。
そんな青年の唯一ともいえる趣味は、『ゲーム』だった。
ゲームで遊ぶのも、ゲームを作るのも好きだった。
オンラインゲームで仲間達と遊ぶ傍ら、
こつこつと組んできた自作ゲームも、完成に近づいている。
自分が勇者となり、魔王に囚われた姫を救う、
やや懐古的とも言える王道RPG。
そのゲームの主人公の名も――『レヴァニア』だった……

「おい、聞いてるのか」
上の空だった青年を、上司がどやす。
今は、朝のチームミーティングの真っ最中だ。
青年はハッと意識を現実に戻し、
「すみません」と小さく頭を下げた。
上司はここぞとばかりに、青年を叱責する。
「君は、もう少し積極的に仕事に取り組んでほしい」
「そこの後輩を少しは見習ってはどうだ」
同じチームに所属する後輩は、まだ新卒2年目なのに、
仕事ができる男として上司に気に入られていた。
青年をフォローするように、件の後輩が口を挟む。
「先輩にはいつも助けてもらっていますよ」
「自分なんかまだまだ未熟で……」
すると上司は、へりくだる後輩の態度を見て、
再び青年を追い立てる。
「ほら君、こういう謙虚な姿勢が大事なんだ。わかる?」
後輩の口角が少しだけ上がったのを、
青年は見逃さなかった。
後輩は、楽で評価される仕事だけを選り好み、
それ以外のつまらない仕事は、青年に押し付けていた。
上司のお気に入りという、自分の立場を最大限に利用して。
上司も上司で、後輩のほうが駒として扱いやすいと思ってか、
見て見ぬふりをし続けている。
青年は、明らかに上司と後輩から標的にされていた。
こいつなら何をしても大丈夫、という標的に。
同日、昼休み。
オフィスの一角にある休憩スペースで、
青年は自販機で買った菓子パンをかじっている。
そこに一人の男が寄ってきて、
「今朝も大変だったな」と、缶コーヒーを差し出す。
男は、青年と同期入社したエンジニアで、
今は同じチームに所属していた。
友達と呼べるほどの仲ではないが、
青年も同期の心遣いに悪い気はしていない。
しかし、波風を立てない性格というか、八方美人というか、
誰に対しても同じ態度であることも、青年は知っていた。
「ま、ほどほどにがんばろう」
同期はそう言い残し、自席へ戻っていった。
同日、終業時刻。
帰ろうとする青年を、上司が呼び止めた。
何かと思えば、いつもの小言だ。
ありきたりな叱責を上司は並べる。
しかし何を言われても、青年の心には響かなかった。
俺は生活するため、
仕方なくここにいるだけなのだから――
青年は内心そう思いながら、
上司の小言が早く終わることを願った。
同日、帰路。
ほどほどに混雑した電車の中で、
青年はスマートフォンの画面を追う。
いつものようにゲーム関連の情報サイトを眺めていると、
ふと広告が目に入ってきた。
それは、かのオンラインゲームの開発元である、
大手ゲームメーカーのエンジニア募集広告だった。
いつもは邪魔でしかない広告も、
なぜかこの時だけは、青年の目に輝いて映った。
同日、帰宅後。
「おはよう」
青年がグループチャットに軽いジャブを打ち込むと、
すぐさま数人から反応が返ってくる。
「おは~」
「いま起きたんかw もう夜だぞ」
「あ、レヴァニアさんきたー」
オンラインでしか繋がっていない『他人』なのに、
なぜこんなにもマイホーム感を覚えるのだろうか。
それから数時間、青年は仲間達と同じ時を過ごす。
しかし、今日の強敵討伐は、散々だった。
パーティ内の連携がうまく噛み合わず、時間切れで敗北。
青年は、自分の指揮が悪かったと謝罪したうえで、
「次は負けない」と新たな作戦を提示した。
無論、仲間達も敗北が青年の責任でないことは百も承知で、
その作戦に耳を傾けながら、各々の意見を交わす。
実に建設的な議論だった。
そして今日も、現実に戻される時間がやってきた。
一人、また一人と画面から名前が消えていく。
すると、ある仲間が去り際に言った。
「レヴァニアさんって、リアルでも頼りになりそうだよね」
何気なく青年を褒めたつもりだったのだろう。
だが青年の心の内は、
まるで仲間達を騙しているような、
ひどい罪悪感に襲われていた。
リアルの俺は、レヴァニアみたいに立派な奴じゃない。
俺だって、できることならレヴァニアみたいに……
ゲームからログアウトした青年は、
とうに寝る時間は過ぎていたものの、
パソコンのブラウザを開き、検索窓に文字を打ち込んだ。
そうして辿りついたのは、帰り道に広告を見かけた、
大手ゲームメーカーのエンジニア募集サイトだった。
本当の自分がこんな奴だと、仲間達に知られたくない。
仲間達の信頼を、裏切りたくない。
そのためには、怠惰な現実を…………自分を変えなきゃ。
レヴァニアなら、きっとすぐに決断するはずだ――
青年はほんの少し考えたあと、募集サイトの『エントリー』ボタンを押した……

青年のスマートフォンに、メール着信の通知が光る。
大手ゲームメーカーからの、書類審査通過の報せだった。
青年は喜怒哀楽を表に出すタイプではなかったが、
メールを見返すたび、にやけてしまう自分がいた。
それから数ヵ月後、スーツを着込んだ青年は、
大手ゲームメーカー本社を訪れていた。
先に行われた二次審査で、
青年は寝食を削って完成させた自作ゲームを提出。
そのクオリティを認めてもらえたのか、
最終試験となる面接にこぎつけたというわけだ。
面接の場で、青年はこれまでの自分を覆い隠し、
徹底して『レヴァニア』を演じることにした。
ゲームの中での立ち振る舞いを思い出しながら、
レヴァニアならどう答えるだろうかと考えながら、
面接官の質問に答えていく。
すると自分でも意外なほど、
前向きかつ積極的な言葉が自然と口からあふれ出す。
提出した自作ゲームの評価も上々だったようで、
青年は確かな手応えを感じたまま、面接を終えた。
面接からの帰路。
青年は晴れた空を見上げながら、考えていた。
もしこの会社に受かったら、俺は生まれ変わるんだ。
リアルでも、レヴァニアのようになるんだ。
面接では上手にできたじゃないか。
そしていつか、あの仲間達に――
歩き始めた青年の表情は、希望に満ちていた。
あくる日。
いつも通り『つまらない会社』に出社した青年は、
同期と後輩が神妙な面持ちで話している場面に遭遇する。
盗み聞きするつもりはなかったが、青年は興味に負けた。
ぼそぼそと聞こえてきた内容は、こうだった。
後輩が、何やら仕事で大きなミスをしたらしい。
自分の評価が下がることを恐れた後輩は、
そのことをまだ上司に報告できずにいた。
しかし、このまま隠し通せるわけもない。
そこで青年の同期――
つまり先輩に相談を持ち掛けたようだ。
同期は後輩に対して、至極真っ当なアドバイスを送る。
「今すぐ報告して、きちんと謝るしかない」
「先延ばしするほど事態は悪化するぞ」
後輩は、「そうですか……」と意気消沈した様子で、
どこかへ去っていった。
同日、夕刻。
上司の席に、青年の同期が呼び出されていた。
青年の席までははっきりと聞こえてこないが、
どうも同期が叱られているようだ。
ところどころで聞こえる上司の怒声から、
後輩がミスした例の仕事に関することだとわかった。
なぜ同期が怒られている?
仕事でミスしたのは後輩のはず……
ふと青年が周囲を見渡すと、当の後輩とその連れが、
遠巻きからクスクスと笑っているではないか。
そうか、あの野郎――――殺すぞ。
暗い感情が滲み出てくる。
青年は察した。
恐らく、後輩は同期にミスをなすり付けた。
そしてお気に入りの後輩からの進言を、
あの上司はすべて鵜呑みにしているに違いない。
居ても立ってもいられなくなった青年は、
勇気を振り絞り、上司の元に歩み寄る。
レヴァニアよ、今一度、俺に勇気を貸してくれ。
上司の席に近づくにつれ、
叱責する声がハッキリと聞き取れるようになった。
「君はこのミスを隠すように、後輩に命じたと聞いているが?」
青年が予想した通りの展開だった。
このままでは、同期が責任を押し付けられてしまう。
青年は意を決し、二人の会話に割り込んだ。
上司は不機嫌そうに、「何の用だ」と答える。
実はかくかくしかじかで……と、青年は事の顛末を話す。
すると上司は、さも何かが分かった風に言った。
「さてはお前もグルか」
「もういい、席に戻れ」
「二人の処分は追って伝える」
それを聞いた青年は、すべての気力を失い、
呆然と立ち尽くしていた。
俺はレヴァニアのように強い人間になると決めたのに、
結局はこの有り様だ。
現実では仲間を助けることすら、ろくにできやしない。
もう嫌だ、こんな会社。
もう嫌だ、こんな自分。
それでも……この最悪の状況でも、
レヴァニアなら心を折らずに上司と戦えたのだろうか?
青年には分からなかった。
あんな上司に、自分の正しさを説く意味が――
数週間後。
青年の元に手紙が届く。
それは、大手ゲームメーカーからの正式採用の報せだった……

大手ゲームメーカーから、正式採用の報せが届いた。
翌日、青年は『つまらない会社』に出社してすぐ、
上司の席に行き退職届を提出した。
退職希望日は2週間後。
明日から最終出社日までは、
有給休暇の消化にあてる。
有り余る有給休暇はとても使いきれないが、
そんなことはどうでもいい。
青年は、一刻も早くこの会社を去りたかった。
退職届を出された上司は、
とくに驚く様子も、とくに惜しむ様子もなく、
淡々と「わかった」と返事した。
その後、青年が退職することは、
すぐさまチームメンバーに知れ渡る。
朝のチームミーティングで、
上司から全員に情報共有がなされたからだ。
ミーティング後、青年の同期が寄ってきて、
「お疲れさん」と、肩に手を乗せた。
結局、後輩のミスをなすり付けられた冤罪事件は、
青年とその同期、二人の減給処分で幕を閉じた。
冤罪で減給されるのは到底納得できるわけもないが……
二人の言葉は、誰の耳にも届かなかった。
できるだけ波風を立てずに過ごしたい同期は、
そういう会社なのだと諦めたようだ。
退職届を出した、その晩。
青年は、初めて同期と二人で、
歓楽街に繰り出していた。
稀に開催されるチーム内の飲み会に、
青年はほとんど行ったことがない。
行く理由がなかったからだ。
だが今回は、他でもない『冤罪仲間』の同期に誘われたので、
これが最初で最後だと、了承したわけだ。
居酒屋にて。
やや酒が回った青年は、同期に自分のことを打ち明ける。
好きなゲームの話、転職先、将来の夢、希望。
そして「自分はこれから変わるんだ」という決意……
青年がここまで自分のことを他人に晒すのは、
もちろんこれが初めてだった。
すでに酩酊状態の同期は、青年の話を聞いてか聞かずか、
「お前がいなくなったら……寂しいな」とボヤいている。
2週間後。
青年の最終出社日。
青年は晴れ晴れした気持ちで、家を出る。
『つまらない会社』に行くのも今日が最後だと思うと、
朝の満員電車も苦にならない。
出社しても別段仕事があるわけでもなく、
退職時に必要な書類の手続きを終えると、
もうやることがなくなった。
あとはセキュリティカードを返却すれば、
この会社とは本当のおさらばだ。
せめて最後に、同期に挨拶でもしてから帰ろうと、
青年はオフィスをうろついた。
しかし、どこにも同期の姿は見えなかった。
たまたま通りかかった後輩に尋ねると、
「知るわけないだろ」と冷たく返された。
再び冷たい殺意が湧く。
同期は風邪でも引いて休んでいるのだろうか。
青年はやむなしと、帰ることにした。
『つまらない会社』の最寄駅。
ホームの中ほどで、帰りの電車を待つ青年。
まだ時間が早いこともあり、人はまばらだ。
明日はいよいよ、大手ゲームメーカーへの初出勤。
今日を最後に、この駅で降りる用事もなくなるだろう。
毎日通ったこの駅とも、しばらくお別れだ。
青年を刹那的に襲った寂寥感は、
一転して期待感へと変換された。
明日から俺は、
自分のことを誰も知らない新天地で、生まれ変わる。
レヴァニアのように、強く、信頼に足り得る人間に――
希望の光が、青年の心を明るく照らしていく。
その時、構内に響くアナウンスが、
電車の到着を告げた。
――
――――――
――――――――――――
青年の背中に、強い衝撃が走る。
気が付くと、青年は線路の上に横たわっていた。
何が起きた?
なぜ自分が線路に?
早くホームに戻らなきゃ……
突然の状況に錯乱し、身体が動かない青年。
それをホームから見下ろす人影。
人影は、何かをブツブツと呟いている。
「お前が…………」
青年は、ハッと顔を見上げた。
そこに立っていたのは、
自分が守ろうとしたはずの同期だった。
「お前がいなくなったら……
次は俺がいじめられるじゃないかッ!
「お前が俺よりも良い思いをするなんて……
絶対に許せないッ!」
「お前が……」
けたたましく鳴る警笛の音で、
その声は掻き消されてしまった。
すべての音が、止む。
静寂の闇の中にあるのは、混濁した意識の渦だけだった。
まだ死にたくない、もっと生キたい……
ゆメ……希ぼ……ウ…………
……生マれ……変わ……ル…………
……オレ、俺、おれ、おレ………………
………………オれ………………ハ…………………………

フィオ / 雨薫る冬の眠り姫

「ねえ、このドレス、やっぱり少し派手ではないかしら?」
お姉様は、そう言いながらも肩をそびやかし、
わたしに向かってドレスの裾をつまんでみせる。
純白のドレスには、繊細なレースがふんだんに重なり、
あちこちに小さなダイヤモンドが輝いていて、とてもきれい。
わたしは感嘆のため息をもらし、素直にお姉様を称賛する。
「お姉様、とってもお似合いよ。
今日はこの上ないお祝い事なのだもの、
これくらい素敵でなくっちゃ」
満足そうにうなずいたお姉様は、鏡の前で回ったり、
身体をひねったり、髪を持ち上げてみたりと、
自分の姿にほれぼれしている様子だ。
わたしたちは、一国の王女として生まれた双子の姉妹。
わたしたちは同じ顔をしているけれど、
お姉様は明るくて、社交的で、賢く、人気者で、
まさに完璧なお姫様だ。
内気で、鈍くて、賢くもなくて、友達も少ない……
そんな妹のわたしとは大違いなのだ。
お姉様は今日、西国の王子様のもとへ嫁いでいき、
結婚式が執り行われることになっている。
見たこともないくらい、盛大な式になることは間違いない。
だって、長く紛争が続いたこの東国と隣の西国との間に、
ようやく平和をもたらすことができるのだから。
この歴史的な王室同士の婚約は、この国の女王である、
わたしたちのお母様の手腕によるものだった。
その日は、朝から日差しの暖かな晴天だった。
宝石で飾り上げられた馬車に乗り込む前に、
お姉様はこちらに向き直り、
生まれ育った城を決意に満ちた目で見上げた。
「お母様。必ずや男の子を産み、次期王として育ててみせます。
どうかお母様もお元気で」
お姉様はとても誇らしそうに、そう宣言した。
馬車が走り出した。
国境を超えるには数日かかるだろう。
太陽の光を受けていっそうきらきらと輝くその馬車は、
進む道の先をも明るく照らすようだった。
完璧な美貌! 完璧な結婚! 完璧な王子様!
一緒に生まれてきてから一度も、
わたしが何をやってもかなうことのない、自慢のお姉様。
お姉様の未来は、どこまでも華やかに彩られているのだ。
だって、それでこそ、わたしのお姉様なのだから。
わたしは、見えなくなるまで馬車に手を振り続けていた。
……
…………
………………
少女はゆっくりと目を開けた。
そして、再び目を閉じる。
夢を見ていたのだ。
お姫様になる夢だった。それも、一国の王女様だ。
悪夢でない夢を見ることは、珍しいことだった。
いかにも主人公らしいお姫様のほうにはなれなかったけれど、
もっと見ていたかったな、と少女は思った。
諦めて目を開け、いつものすすけた天井をしばらく眺めた後、
硬いベッドから身を起こしてゆっくり立ち上がる。
さあ、たくさん勉強して、たくさんお手伝いして、
今日も一日いい子にしなければ。
「ママ、おはよう。
あのね、今日わたしが見た夢のお話、聞きたい?」
少女は、居間で忙しそうに手を動かす母親に明るく声をかけた。
母親は、顔も上げずにじゃがいもを剝き続けている。
「夢の話なんてくだらないわよ。そんなこと言ってないで、
さっさとその辺のものを食べて学校へ行きなさいね」
テーブルの上には、具のほとんどないスープとパンがあった。
少女はガタつく椅子に腰かけ、それらに手を伸ばす。
パンは硬かった。この国で平民が手には入れられるパンは、
どれもこれもカチカチなので、少女はとっくに慣れている。
「今日の夢は特別。わたし、夢の中でお姫様だったんだ!」
母親は手を止め、ようやく娘に振り返った。
娘の顔をまじまじと見つめ、ようやく言葉をこぼす。
「ばからしい。うちは、平民階級なの。
どうやったって、貴族になんてなれないんだからね」
そんなことはわかっている。
この国で暮らす人々は、
子供ですら、階級制度を身に染みて理解しているのだ。
貴族と平民には大きな隔たりがある。
不満をためた平民の暴動を貴族が心配している……
そんな世の中ではあるが、少女はただ母親と、
他愛ないおしゃべりをしたかっただけなのだ。
がっかりしながら、少女は手早く食事を済ませた。
「行ってくるね、ママ」
少女は身支度を整え、学校へ向かうために家を出た。
季節は、冬。雨の多い季節だった。
昨夜も雨が降ったので、あちこち水たまりだらけだった。
少女は立ち止まって、水たまりに映る自分の顔を眺める。
自分は、母親と似ていない。
父親にも、全然似ていない。
少女は、両親からあまり愛されていないではと感じていた。
そしてそれは、この顔のせいではないかと思っていた。
水たまりに映る不安げな自分の顔を勢いよく踏みつけて、
少女は学校へと急いだ。
いっぱい勉強して、両親に褒めてもらいたい、その一心で……

あ、やっとバラが咲いた。
この窓から見渡せる範囲で、左から13列目までの花壇には、
紅いバラが植えられている。
このところずっとつぼみを固く結んでいたけれど、
昨日はいつもより暖かったみたいだから、
それでついに咲く気になったらしい。
大きな王城の中庭に広がるこの見事な花園は、
毎日何時間と眺めていたからとっくに見飽きてしまった。
この国に来た日から、「わたし」は、
…………この部屋に軟禁されている。
咲いたバラの数を窓から数えていると、
48まで数えたところで、この国の王子様と、
若くて美しいお姫様が並んで歩いてくるのが見えた。
お妃様――――
それは、わたしの双子のお姉様だ。
続いて、取り巻きの貴族たちがぞろぞろと連れ立ってくる。
華やかで楽しそうな社会の場。
毎週この時間に、庭園でお茶会が開かれているのを、
わたしは知っている。
やがてこの部屋にまで、楽しそうな笑い声や、
ティーカップとソーサーが触れ合う音が届いてくる。
わたしはそっと窓から隠れつつ、外の声に耳を傾けていた。
「殿下、ご結婚されてから毎日お幸せそうですわね」
「妃殿下の美しさといえば、国民の注目の的ですもの」
西国の王子様と、東国の王女だったお姉様の結婚を、
誰もが祝福していた。
そして今、国民と王室の最大の関心事は、
二人の間にいつ子が授かるか、ということだった。
お姉様が嫁いだこの国に、間もなくわたしも呼ばれた理由。
――――それは、
お姉様の身代わりとして、王子様の子を産むためだった。
「待ち遠しいですわ、王子か姫か……
どちらでもさぞかわいいでしょうね」
「王様ときたら、気の早いことに、
もう乳母を何人も用意しているのですって」
嫁入りしてすぐ、お姉様のは子供を授からない身体だとわかった。
そしてわたしが、人目から隠されて国に連れて来られた。
わたしの姿は、誰にも見られてはいけないのだ。
お姉様のために、わたしにできることがあるなら……
その想いだけでこの国へやってきたが、
お姉様がわたしの部屋を訪ねてくることは、
これまでに一度もなかった。
「太陽が傾いてまいりましたわね」
「妃殿下、お身体を冷やしてはいけませんから、
お城へ戻りましょう」
部屋に夕陽が差し込み始め、にぎやかな声が遠ざかっていく。
どうやら、お開きのようだった。
この部屋を訪れるのは、夜ごと義務にように姿を見せる、
王子様だけだ。
今日もわたしは、暗く沈んでいく部屋を眺めて、
ため息をついた。
……
…………
………………
大きな鐘の音が響き、少女ははっとして意識を現実に戻した。
授業に集中できずに、今朝見た夢のことを考えていたのだ。
教室には、冬空の雲の切れ間から日差しが差し込んでおり、
すっかり正午になっていた。
今朝見た夢は、昨日の夢の続きだった。
まだ幼い少女には、全てを理解することはできなかったが、
貴族は親のいいつけに従い、
人形のように生きなければならないこともあるらしい。
少女は、自分が平民でよかったと思った。
大人になったらもう少しだけ、
自由に生きてみたいと思っていたのだ。
ここは、平民階級の子供たちだけが通う学校。
生徒が平民ならば、教師も平民。
この社会は、階級でしっかりと区分けされている。
気の早い子供たちが教科書をまとめ始め、
教室はにわかに騒がしくなった。
「それでは今日はおしまいです。
それから、先週の試験ですが……」
教師は少女を見やり、にっこり笑う。
「また彼女が学年で一番でした。
皆さんも見習って、しっかり勉強するように」
少女はうれしくなり、思わず教科書を抱きしめた。
帰って母親に伝えようと、走って家路を急いだ。
「ねぇママ聞いて。わたし、また試験で一番だったって!」
帰宅した少女は、居間で母親の後ろ姿を見つけ、声をかけた。
その声で振り返り、
ようやく娘が帰宅したことに気づいた母親の手には、
大きなカップが握られていた。
「わたし、いっぱいお勉強したら、将来お医者さんとか、
弁護士さんとかに、なれるかなぁ?」
カップの中身をぐいとのどに押し込んだ母親は、
音を立ててカップを食卓に置いた。
大きくついたため息から、お酒の臭いが漂ってきた。
母親は言った。
「ずっと勉強させられるお金なんて、うちにはないんだから。
そんな夢みたいなことを考えてないで、
今すぐ洗濯をしてきてちょうだい」
少女はしょんぼりして、
そのまま別室にある洗濯かごを取りに行った。
もしかしたら、母親と顔の似てない自分は、
本当の子じゃないのかもしれない。
不穏な思いつきに一瞬囚われた少女は、
それを振り払うように強くかぶりをふった。
母親のことは、大好きだ。
たとえ血がつながってなかったとしても……
愛し愛されたい思いは行き場がなく、
少女の胸を詰まらせた……

庭園の花がすべて枯れ落ちた、寒い季節だった。
外の凍りつく寒さとは打って変わって、
熱気のこもりきった部屋に、産声が響いた。
「残念ながら…………女の子です」
赤ん坊を取り上げた女が、心から残念そうに言う。
わたしは汗だくになりながら、
産み落としたばかりのわが子を見やり、
本能的に手を差し出す。
抱かせてもらえるわけがなかった。
「……致し方ない、赤子は処分しておけ」
壁を背に立っていた王様は冷徹に言い放ち、
王子様と共に足早に部屋を出て行った。
無表情のままその場に留まったのは、
王子様のお妃様である、わたしの双子のお姉様だ。
「あなたたち、下がって」
お産の世話をしてくれた女たちにお姉様が声をかけると、
忙しく働いていた女たちは手を止め、一礼して部屋を出た。
お姉様と二人きりで向き合うのは、一年ぶりだろうか。
お姉様の婚礼のドレスを称賛したあの日以来だ。
感動の再会なのか、助けを乞うべきなのか、
わたしは動けずにいた。
「ごめんね……本当にごめんね。
あなたが男の子を産んでくれさえすれば、
こんなことをせずにすんだのに……」
お姉様はそう言い、懐から短いナイフを取り出した…………
…………
生まれたての娘を抱き、
わたしは着の身着のまま城を逃げ出していた。
頭は混乱していた。
まさか、産んだばかりの娘を殺されそうになるなんて。
それも、最愛のお姉様に。
どうしてなのかと考えても、わたしにはわからなかった。
だって、わたしは賢くないから。
お姉様のためと思ってこの国へ来て、
お姉様のためにと思って代わりに赤ちゃんを産んだのに、
お姉様のために、お姉様のために、お姉様のために……
行く当てはなかった。
行商人の馬車に乗せてもらい、一番揺られ、
気づいたときには見知らぬ辺境の街へたどり着いていた。
厳しい冬の朝、雪まじりの雨が降りしきっていた。
子を産んだばかりの身体で無理したせいで、
高熱が出て頭がぼうっとしていた。
ただ、小さな娘が雨に濡れて寒い思いをしないよう、
毛布でぐるぐる巻きにして、大切に抱きしめていた。
毛布の隙間から覗くと、平和そうな顔をして寝ている。
その顔は、まるで天使だった…………
「大変、こっちに人が倒れてるよ!」
バシャバシャと耳元近くで水たまりに踏み入る音が聞こえ、
若い女性の声が頭上に響く。
「赤ん坊もいるぞ」
男の声も聞こえた。
「もうこの人は駄目だな……」
「可哀そうだね。こんな小さい赤ん坊を残して……」
頭上で交わされる会話は、まるで他人事のように聞こえる。
わたしは、行き倒れていたようだ。
近くで、娘の泣く声も聞こえている。
こんなに雨が強く降っているのに、何もしてあげられず、
無力に横たわっていた。
でも、誰かが、見つけてくれたようだ。
力を振り絞って顔を向け、その男女を見やる。
どうか、その子をわたしの代わりに幸せに育ててください……
声に出したと思った言葉は、紡がれることはなかった。
身体を打つ雨の冷たさが消え、
心地よい雨音もどんどん遠くなっていった。
そして、わたしの意識は、永久に――――
途絶えた。
……
…………
………………
少女は、身も凍るような寒さの中を足早に歩いていた。
母親から、パンの配給を受け取ってくるように
言いつけられたのだ。
せめて厚着をしていこうとありったけを着込んできたが、
急に雨が降り出し、どんどん強まってきたのだ。
今朝の夢に見たのと同じ、冬の雨の日だった。
途切れることなく街を打つ雨音を聞きながら、
少女は夢に見た光景を思い返していた。
そういえば……
夢の中で行き倒れた「わたし」を助けてくれた夫婦は、
ママとパパに似ていたな、とふと思ったのだ。
「ただいま…………はいママ、これ!」
二つのお下げから水を滴らせながら帰宅した少女は、
上着の中からパンを三本取り出し、にっこりとした。
パンは少し濡れていたけれど、少女ほどではない。
居間の暖炉で火にあたっていた母親は、
少女の様子を見て一瞬目を丸くし、
少しバツが悪そうにしてパンを受け取った。
「ありがとう。ほら早く着替えて、家の中が濡れるから」
少女は、濡れて身体に張り付く服を着替えながら、
ただ一つのことだけを考えていた。
「ママは喜んでくれたかなぁ?」

「いつまで寝ているの? いい加減起きなさい!」
女は、寝室のドアを乱暴に開ける。
いつもは自分で起きてくる娘が、昼前になっても出てこず、
様子を見に行ったのだ。
「ほら、今日もパンの配給をもらってきてちょうだい」
そういいながら女がベッドから毛布をはぎとると、
まだ幼い娘が、赤い顔をしてぐったりと横たわっていた。
「ママ……わたし、御熱あるみたい。
さむくて、あつくて、動けない」
苦しそうにする娘の額に、母親は手を当てる。
たしかに、驚くほどに熱い。
そういえば昨日、おつかいに行かせた娘が、
大雨に打たれてかえってきたことに女は思い当たる。
女はため息をついた。
「仕方ないわね。今日は寝ておきなさい」
「うん、ありがとう…………ママ」
女が部屋から出ようとすると、後ろから呼び止められた。
振り向くと、娘が毛布を再び頭までかぶりながら、
珍しく甘えた声を出した。
「……わたし、りんごをすったやつ、食べたい。
……だめかなあ?」
女はしばし、毛布をかぶった娘の様子を見つめる。
娘が何かをお願いごとをするなんて、珍しいことだったのだ。
女は何も言わず、後ろ手に扉を閉めた。
そして、娘が今よりもっと幼い頃に、
よくりんごをすってあげていたことを思い出していた。
居間では、ちょうど当直から帰ってきた夫が、
上着を脱いでいるところだった。
「また雨が降ってきたよ。嫌になるな」
女は、手早く温めたスープを食卓に出す。
夫は「これだけ?」と言いたげに妻の顔を見たが、
女は無視を決め込んだ。
諦めたように黙ってスープを飲んでいた夫が、
ふと思い出したように顔を上げた。
「あの子は?」
「熱があるみたい。今日は休ませておくわ。
まったく、使えない子」
女は、夫と向かい合うように腰かけ、
食卓に置いていたりんごを手にとった。
「昨日のおつかいで雨に濡れて帰ってきたから、
それで風邪を引いたんでしょうね」
女は小ぶりのナイフを使い、薄く薄く皮を剝き始めた。
「あの雨の中?
衛兵たちですら、駐屯所から出ないでいたくらいだぞ」
女はりんごを剥く手を止めて、夫をにらみつけた。
「いつ雨が降り出すかなんて、知りようがないじゃないの」
夫は、聞かなかったかのようにスープに没頭したふりをする。
女は再び手を動かし始めた。
ややあって、夫がぼそりとつぶやいた。
「冷たくあたるもんじゃない。あの子はいい子じゃないか。
俺たちにはもったいないくらいの」
剥かれたりんごの皮が、食卓の上に折り重なっていく。
「そうね。あの子が本当に私たちの血を継いだ子だったら、
あんなふうにはとても育たなかったでしょうね」
皮肉めいた言葉で反撃され、
夫は顔を伏せてまた何も言わなくなった。
都合が悪いと黙るのは、夫の癖なのだ。
女は、夫の空になったスープ皿を取り上げて台所へ向かい、
おろし金を持って戻ってきた。
「だからこそ、私とは違うというのを見せつけられて、
嫌になるのよ」
女は、りんごをおろし金にかけ始める。
りんごをすりおろす規則的な音は、
二人の気まずい空気を埋めていた。
「…………そろそろあの子の誕生日だな」
外の雨は、いつしか雪が混じり始めていた。
窓の外を見て、夫がぽつりとつぶやいた。
「まあ、本当はいつ生まれたのかはわからないが…………
あの子を拾ったのも、今日みたいな冬の雨の日だったな」
すりおろされて小さくなったりんごを時々持ち替えながら、
先ほどよりもややテンポの落ちた音が部屋に響く。
女は口を開く。
「どんどんあの女性に似てきたわね。
あの子もそろそろ気がつく頃よ。
自分が私たちににてないってことを」
「まぁ確かに、あの女性はえらい美人だったな」
女は一瞬夫をぎろりとにらみつけたが何も言わず、
芯だけになったりんごを流しに放り投げ、立ち上がった。
すりおろしたりんごを入れた器を持ち、
女は娘の寝ている部屋へ入った。
娘は、先ほどと変わらない赤い顔のまま寝入っていた。
もしかしたら、
貴族として不自由なく暮らしていたかもしれないのに、
こんな貧乏な家にもらわれて可哀想にね……
女はしばし娘の寝顔を見つめ、
そっと頬に手を伸ばそうとしてやめた。
代わりに、ベッド脇のサイドテーブルに器を置き、
音もなく部屋を後にした。
あの子は、自分が私たちの実の子ではないと気付き始めている。
それでも、私たちに愛されようとがんばっている。
その純粋さ、素直さ、健気さ。
似ていないのは顔だけでないのだ。
心根の美しさまでが、私たちとは全く違うということを、
思い知らされる。
…………あの日、
あの子を拾ったことは間違いだったのかもしれない。
少女の傍らのりんごは、だんだん茶色にくすんでいく。
どんどん、どんどん、汚く醜い色に。
少女は何も気づかずに、深く眠り続けていた……

サリュ / I was born

幼い頃、この場所に連れてこられてから、 数年の月日が経った。
来るものを拒むような、 外壁に刻み込まれたレリーフ。
開く度、 軋みを上げる木製の扉。
廊下に落ちる、ステンドグラスに染められた日差し。
魔法使いの学舎は、
変わらない姿でこの場所に建っている。
ひとけのない休日の朝。
くせ毛の少女はこっそりと、学舎の調理室に忍び込んだ。
荷物を机に置いて、 戸棚に手を伸ばす。
そこから、調理道具をひとつずつ取り出していく。
机の上に並んでいるのは、食材とレシピ本。
少女はエプロンをつけて、それらを交互に見る。
少女が混ぜ合わせた食材は、薄く伸ばされて生地になる。
用意したハートの型を手に取って、くり抜く。
小さなハート型になった生地を、温めたオーブンの中へ。
しばらく待つと、甘く、 やわらかい香りが漂い出した。
少女は、オーブンの扉についたガラスの窓から、
こんがりと色づくハート型のクッキーを眺める。
「美味しく、できるかな……」
学舎に入った子供達は共に生活をしていく。
100人単位の人数が集まれば、
誕生日が同じ月の子もたくさんいる事になる。
来月は、少女と、クラスの友達の誕生日。
そんなわけで今、クラスの友達と交換するための、
プレゼントを作る練習をしていた。
焼きあがったクッキーを一枚つまむ。
口に入れると、 じゅわっと広がる芳ばしい香り。
優しい甘み。
少女の口元がゆるむ。
練習であれば、 十分合格点だろう。
あとは、 ラッピングの練習をするだけ。
少女は調理室を片付けて、 寮の自室へと戻る。
机の上に文房具を用意して
ラッピングのために頼んでいた、特別な布が届くのを待つ。
練習用に包んだクッキーは、
隣の部屋にいる眼鏡の親友にあげることにしよう。
少女の部屋に呼び鈴が響く。
ちょうど、 ラッピング用の布が届いたみたいだ。
うきうきとした気持ちで扉を開けると……
そこには学舎の教師が立っていた。
不意の来訪に驚いたことがばれないよう、
いつものように穏やかな微笑みで、
「どうされました?」と尋ねる。
こっそり調理室を使ったことへの言い訳を、
頭の中に巡らせながら。
教師は少し神妙な顔つきで、 手紙を差し出す。
少女の、叱責を受ける、 という予想は裏切られた。
差し出された手紙を見ながら、 思わず、
手紙……ですか?」と口にしていた。
少しほっとしたような声色だったかもしれない。
その問いかけに教師は、
「内容を確認したら、 報告に来なさい」 とだけ言う。
いぶかし気な表情で私が手紙を受け取ると、
それ以上は何も言わず、 去っていった。
少女は受け取った手紙を眺めながら、 後ろ手に扉を閉める。
ぴんと張った真っ白な封筒、
裏にはしっかりと封蝋が押し付けられていた。
随分かしこまった手紙だ。
机の引き出しから、ペーパーナイフを取り出して、
手紙を開封する。
手紙は故郷にある病院からだった。
「なんでそんなところから…?」
少女はゆっくりと、紙面に綴られた文字を追う。
事務的に記載された簡潔な文章が彼女に伝える。
母が、倒れたと。 少女はその内容を反芻して、
指先が冷たくなっていくのを感じていた。
…..普通の家族だったら、
こんな時、 どんな反応をするのが正しいのだろう?
そんなことを考えてしまう時点で、
私の反応は間違っているに違いない…..
母が倒れたという内容を読んでも少女は、
取り乱したり、
悲しんだり、
心配したりもできず、
ただその手紙を見つめたまま、 立ち尽くしていた。

石造りの街並みを通り過ぎ、 視界に緑が増えていく。
肌に感じる空気も、学舎のある街より、 透き通って感じる。
くせ毛の少女は、故郷へと続く道を進んでいた。
数日前、故郷の病院から手紙を受け取った少女は、
その内容を学舎の教師に伝えた。
倒れてしまった母。
その詳しい病状については、
直接会って説明させてほしいと書かれていた。
教師と話し合った結果、
少女は一時的に帰省するよう命じられた。
周りの景色が変わっていくごとに、
少しずつ故郷の気配が混じっていく。
その気配を感じる度、 少女の心は重たくなる。
少女は、学舎を出るときから暗い表情だった。
見送りに出た教師が、心配の声をかけるほどに。
学舎を出るとき、教師は、
「貴方の顔を見たら、きっとお母さまも元気になる」
と言った。
確かに少女の心に影を落とすのは、母が原因だ。
でも、それは母が倒れたからではない。
原因は、母との過去にあった。
少女は、自分を生んだ女性のことを、
「母」 だと思ったことはなかった。
「あなたなんて、 生まれてこなければよかった………」
そんなことを、 言われたのだから。
だから故郷は、 少女にとって帰りたい場所ではない。
前に出す足も、 目的地が近づく度に重くなっていく。
学舎で過ごすうちに忘れられたと思っていた、
母への恐怖心。
見覚えのある景色が近づくにつれて、
嫌なことばかりが、 鮮明に蘇ってくる。
太陽が照っているにも関わらず、 少女の汗は冷たい。
革で作られた鞄の持ち手が、 茶色く湿っている。
「目的地である病院はもう目の前だ。
あの建物の中に 母がいる…..
病院の入り口には、木が植えられていた。
細い枝の先に、オレンジ色の果実を実らせている。
それを見て、ずっと昔に、母とここに来たことを思い出す。
あのときも、木にはオレンジ色の果実が実っていた。
その日幼い私は、地に落ちた果実が気になって手を伸ばした。
それを見た母は、私の手を杖で叩きつけた。
私は、大声で泣いた。
母は、無言で私を睨んでいた。
少女の手の甲に、幼い日の痛みが蘇る。
ドアノブを握りしめ、 病院の扉を開く。
目の前には受付があったが、そこには誰もいない。
少女は仕方なく、
手紙に記載されていた病室の番号を探し始める。
白い病院には人の気配がなく、がらんとしていて、
そのまま忘れ去られ、風化してしまいそうに見える。
いくつかの廊下を端から端まであるいても、
少女は誰ともすれ違わなかった。
動いているのは、窓辺で揺れるカーテンぐらいだった。
自分だけが取り残されたような不安に駆られる。
静謐な午後。
風が止んでしまえば、時間さえ止まっているように感じる。
壁に取り付けられた番号をひとつずつ辿っていく。
103, 104, 105, 106……
107。
ここが、母のいる病室のはずだ。
少女はそっと、 病室の中を覗き込む。
ベッドから身を起こし、窓の外を眺める女性がひとり。
母だ。
「倒れた」 と聞いていたが、寝たきりではないらしい。
後ろ姿は、昔よりも少し小さくなったように感じられた。
あるいは、自分が少し大きくなったのかもしれない。
少女は想像する 振り返ったときの、母の視線を、第一声を。
下を向いて、母から浴びせられる語気に耐える。
大丈夫、 怖くない。
怖くない。
怖くない……
ここでいつまでも立ち尽くしているわけにはいかなかった。
できるだけ足音を立てないように、 足を踏み出す。
1歩目
…..
2歩目、
3歩目、母が振り返りそうになる。
4歩目、母は完全に振り返る。
そして、少女の想像は裏切られた。
母の視線は穏やかだった。
母は子供のように笑い、 少女に向かってこう言った。
「オバアチャン!きてくれたのね!あたし嬉しい!」

穏やかな日の日差し、 風に揺れるカーテン、 白い病室。
母と少女は二人きりで、向かい合った。
母は子供のような無邪気さで、 ニコニコと笑顔を振りまいている。
それは、少女の記憶にある、 どの母の姿とも違うもので、
本当に自分の母親なのか、不安になるくらいだった。
少女の記憶の中の母は、 厳しくて、冷たくて、
笑いかけてくれたことなんて、一度もない。
少女が転んで、 母に助けを求めたときだって、
そっぽを向いて、 先に進んでしまう。
手を差し伸べてすらくれなかった。
それなのに今は……
戸惑う少女の背中に、 声がかけられる。
振り向くと、 白衣を纏った老齢の医師。
彼は「案内もできずにすみませんね」と謝る。
そして、病院の人手不足を嘆く。
「あ、いえ……」
と返事を返す少女から何か察したようで、
彼は一呼吸おいて、母の病状を説明し始めた。
母は脳の認知機能に異常があるという。
家で倒れているところを、発見されたのは数日前のこと。
しかし、その時にはもう、症状が進みすぎていた。
治療を施しても、脳機能は完全には回復しなかった。
母の意識は、子供の頃に戻っているという。
少女は、医師の話を聞いても戸惑うばかりで、
どうしたらいいのか わからなかった。
医師は少し迷ってから、心を決めたというように頷き、
話を切り出す。
まだ子供である貴方に、
こんな事を伝えるのは酷かもしれないが…..
と前置きをして伝えられた事実は、
母の余命がどれくらい残っているかもわからないということ。
そして、できるなら……
子供に戻ってしまった母に、
付き添ってあげてほしい、 ということだった。
少女は話を聞き終えて、 小さく息を吸う。
そして、少し考える時間が欲しい、とだけ返事をした。
医師は小さく頷いて 「私は受付に戻るよ」 と言った。
二人きりで取り残される、 母と娘。
目の前の壁には、 折り紙でつくられた星や、
動物達が貼り付けられていた。
母の病室は、子供部屋のように飾られている。
この折り紙も母親が自分の手で折ったものなのだろうか?
少女が壁に貼り付けられた折り紙を眺めていると、
母はがさごそと、机の引き出しを開けた。
そこから、折り紙を出してきて、
「ねぇ!いっしょに作ろう! あたしとっても上手だよ!」
と言い、 少女の服の袖を掴む。
自分の母が、それも、
一度も笑顔を見せたこともない母が、 私に甘えてくる。
そんな異様な光景を前にして、
少女は拒絶することしかできなかった。
パンツと咄嗟に 袖を掴む母の手を払う。
少女の冷たい反応に、母は声をあげて泣き出す。
あんなに怖かった母が、
まるで幼い頃の自分のように泣いている。
少女の戸惑いは、やがて怒りに変わっていく。
私を苦しめていた、 記憶の中の母。
あれはいったいなんだったのか……
泣きわめく母に対して、 死んでしまえとまで思う。
私は、酷い娘だろうか。
少女は自問する。
病に臥せる母にさえ、 優しい言葉もかけられない。
病室の中には、
母の泣き声だけがこだましていた……

少女は、簡素な木製の椅子に腰かけて、
病室の窓に切り取られた風景を眺めていた。
衝撃的な母との対面から幾日か過ぎたが、
まだ、 しっかりと事実を飲み込めないでいる。
医師と話し合った結果、
少女は暫く病院に滞在することになった。
学舎には、手紙を出してもらった。
医師の懸命な治療の継続もあって、
母の容体は、ちょっとずつ変化していった。
それは、母の意識が、子供から、大人へと変化していく、
奇妙な時間だった。
そんな時間を、 戸惑いながらも共に過ごしていく。
対面した直後は子供の様に振舞っていた母が、
翌週には少し大人びた表情をして、
恋愛の相談などを持ち掛けてくる。
数週間の間で、 母の意識は少しずつ変化して、
いまでは成人くらいの精神年齢に達していた。
子供の頃の母は、 折り紙が好きだった。
少し大人になった母は、虫が苦手だった。
大人になっても母は、にんじんが嫌いだった。
目の前にいる母は…… 優しかった。
でもそれは 「娘の私」 に向けられた優しさではないのだ。
その日、 目を覚ました母は、
いつもより具合が悪そうだった。
少し心細そうに、
「オバアチャン、 一緒にいてくれる?」と少女に問う。
少女は、母と視線を合わせる。
そして、少し勇気をだして答えた。
一緒にいるよ、と。
母は相変わらず、少女のことを、
「オバアチャン」 と呼んでいた。
恐らく母の意識の中では、子供はまだ生まれておらず、
存在すらしていないのだろう。
少女は考えていた。
私は、母を嫌っていた。
母も私を嫌っていると思っていた。
私は母と仲良くなりたかったのだろうか。
母は私と、親子でいたかったんだろうか……
でも、その答えまで辿り着くことなく、
別れの日は近づいていた。
幾日か過ぎ、母の容体は急変した。
衰弱した母の腕は、木の枝のように細くなっていた。
母の意識は薄れていく。
医師は、今夜が最後の夜になるかもしれない、と言った。
少女はその日、 眠らずに母の手を握り続けていた。
窓から月明かりが差し込んで、 部屋は薄明るい。
月光が母の苦しそうな寝顔を照らす。
ぴくぴくと瞼が動く。 母は目を覚ます。
「お水を飲む?」 と問うと、母は小さく首を横に振った。
暫くして、母が口を開いた。
何か悩んでいる様子だった。
そして 「オバアチャンに相談があるの」 と言う。
少し大人びた口調には、神妙な雰囲気さえあった。
少女はただ頷いて、 母の次の言葉を待つ。
その口から語られたのは、子供を産むことへの葛藤だった。
母は、子供を産みたくないと言った。
「……やっぱり……そうか……」
母は私のことを求めていなかったのだ。
うなだれる少女に気付くことなく、 母は言葉を続ける。
それは彼女が成人して暫くした頃の話だった。
母は医師に、ある診断を下されたという。
それは精神に関する病だった。
その診断をきっかけに、夫とも別れることになったらしい。
少女はそんなこと、 全く知らなかった。
自分が母と一緒にいた時間は短く、
複雑な大人の事情を理解できる年齢でもなかった。
今だって、話の内容についていくことで精一杯だ。
精神の病は、母の人格を蝕んでしまうという。
母は、自分が病によって変わってしまうことが怖いと言った。
病は、自分のことも、周りの人も、傷つけてしまう。
そのことを、深く深く、 思い悩んでいた。
もし産んでしまったら、きっと我が子を苦しめる。
お腹の中にいるこの子は、
こんなに…. こんなに……
愛おしいのに……と。
少女の頬の上を、温かい何かが流れる。
それはボタボタと膝の上に落ちていく。
母の告白を聞いて、心の中で固まっていた何かが溶け、
涙となって流れ落ちていた。
母はそれ以上何も言わなかった。
再び閉じられた瞼。
瞼の下にある黒いくまには、
彼女の人生の苦悩が染みついているように見えた。
音の無い病室の中で、 少女はぎゅっと、 母の手を握る。
そして、病院に来てから初めて、 目の前の女性のことを、
「おかあさん……」
と呼んだ。
長い夜が明けた。
その日は、少女の誕生日だった。
長い夜が明けた。
その日は、少女の誕生日だった。
よく晴れた日差しが、 少女と、少女の故郷に降り注ぐ。
手で日差しを遮りながら、少女は故郷を眺める。
その視線は、ここに来た時よりも、少し大人びていた。
今日、故郷の教会で母の葬儀が行われる。
少女は、 白銀の礼服に袖を通す。
「おかあさん」 のことを、見送るために。

プリエ / Beautiful World

サクッ…… サクッ…… サクッ…….
閑静な森の中に、 落ち葉を踏む足音が響く。
森の小道を歩くのは、 ふたりの少女。
小鳥がさえずるような声で、 笑いあうふたり。
長い銀髪をたなびかせた少女が、
眼鏡をかけた少女に問いかける。
「それで、 こんな森の奥になんの用があるわけ?」
「うーん……. 一緒に散歩したかっただけ」
眼鏡の少女の答えに、 え、それだけ?
という反応をする銀髪の少女。
そんな他愛ないやりとりが、 笑顔で彩られるのは、
眼鏡の少女にとって銀髪の少女が、 とても大切な、
親友とも呼べるような相手だからに他ならない。
ふたりは、魔法使いを育てるための学舎で暮らす、
魔法使いの卵。
幼い頃に学舎で出会って以来の付き合いだ。
学舎での暮らしは、 厳しい教師から叱られたり、
難しい研究課題に頭を悩ませたり、
それなりにせわしなくしている。
だからこうして、
何も考えずに、森の中で自然に溶け込むのが心地いい。
聳え立つ森の木々の隙間から、
梯子のようにおちる午後の日差し。
幾本も落ちる光の梯子を、
くぐるように進む、少女とその親友。
彼女達にとって、その時間は、夢みたいに穏やかなひととき。
少女は、日に当たりキラキラと反射する、
親友の銀髪を褒める。
親友は、髪の手入れの仕方を教えてあげる、と、
小脇に茂る、 背の低い木から、
ビー玉のように真っ赤な果実をもぎる。
親友曰く、この真っ赤な果実から精油を作ると、
とても髪にいい美容液になるらしい。
眼鏡の少女は喜び、 作り方を教えてほしいとせがむ。
親友は、そういえば…… と言って、
何かを思い出したように立ち止まった。
「あんた、今日誕生日だっけ……」
その言葉に、少女は少し恥ずかしそうに、
そして、ちょっと嬉しそうに頷く。
少女は引っ込み思案な性格をしていたから、
自分からは、今日が誕生日であることを言えないでいた。
そして密かに、この森での散歩を、
親友と一緒に過ごせるひと時を、
プレゼントのようなものだと思っていた。
親友は、ただ手持ち無沙汰に、おめでとう、と、
祝いの言葉を述べてから、
何も用意してなくてごめんね….. と謝った。
少女は、覚えてくれただけで嬉しいよ、と微笑む。
その笑顔は本当に喜んでいるようだった。
銀髪の親友はなんとなく申し訳ない気持ちになって、
欲しい物は何かないの?と聞く。
少女はそう言われると、答えに詰まって考え込む。
そして、 せっかくなら、 と思い切って口にしてみる。
「魔法の国に…..連れてってほしい、かな」

午後の日差しに包まれた森の中で、
ふたりの少女は散歩を続ける。
ひとりは、眼鏡をかけた少女で、
隣にいるのは、 長く銀髪を伸ばした、 彼女の親友。
親友は考えていた。
「魔法の国って、なんだろう……?」
それは眼鏡の少女が、
プレゼントに連れて行ってほしいと言った場所だった。
少し周りからズレている彼女は、
時々こういう突拍子もないことをいう。
固まってしまった親友に、 少女は、
ごめん、また変なこといっちゃった……?
と、 親友の様子を窺う。
別に変ではないけど、と前置きをして親友は、
「それで、魔法の国ってどんなところ?」
と聞き返す。
少女にとっての魔法の国。
それは、誰もが自分らしく、自由に生きられる場所。
法律もなく、争いもなく、 貧困もない。
夢みたいな暮らしができる場所だという。
慌てて少女はフォローする。
もちろん本当にそんな国があるわけじゃないから、
魔法を使ったごっこ遊びに付き合ってほしいんだ、と。
取り繕う少女に対して、 親友は、
ごっこ遊びでいいの?それなら……と、
気合を入れて杖を構えた。
親友の構えた杖の先から、 光が溢れだす。
光は蛇のようにうねり、 目の前の木々を飲み込んでいく。
そして目の前に、 幻影のアーチが現れる。
少女は親友の魔法に目を奪われた。
親友はアーチの前に立って、手を差し出す。
少女はそっと自分の手を重ねる。
アーチの先には、
真っ白なキャンバスのような空間が広がっていた。
ひとつ咳払いをして、親友が宣言する。
「ここに、魔法の国を立国する。」
少女もいよいよ喜んで、はしゃぎだす。
ふたりは杖をかざして、 思い思いに描き出す。
空を泳ぐ魚、魔法の絨毯、 虹色の天蓋。
どこまでもいける。
誰も私達を止めることはない。
好きなだけ、声を出して歌う。
ここには自由がある。 私達は自由だ!
森と魔法の国を繋ぐアーチは、もうずっと遠くに霞んでいた。
少しはしゃぎすぎて疲れた少女は、
魔法の絨毯に寝そべっていう。
最高のプレゼントだよ」
楽しんでくれたみたいでよかった、 と、
親友は微笑む。
ふたりだけの時間が流れる。
親友は、なんとなく思い返す。
少女が初めに言ったこと。
誰もが自分らしく、自由に生きられる場所。
そんなところが本当にあったら、
そこで生きている人達は、 どんな風に暮らしているだろう。
本当の自分、本当の自由。
それを突き付けられたとしたら、
どんな気持ちになるんだろう?
もしかしたらそれって、すごい不安になるかも……
親友は独り言のように呟く。
少女は、親友の独り言に相槌をうつ。
私は、 生きるのが下手だから……
学舎での生活も上手くいかないことばかりだし、
だから、そこから離れたかっただけなのかもしれない。
ふたりの間に軽い沈黙がやってくる。
未来はまだずっと先の方にあるけれど、
今の自分達は、 やがて記憶の1ページになる。
そんな予感が漂っていた。
遠い将来に、 今の時間を後悔しないように、
もっと幸せになれるように、
そんな風にできたなら……と、 少女は思う。

どこからともなく聞こえてくる音楽は、
花の香を運んでくるような、優美な旋律。
綿菓子のように、やわらかな日差しが辺りを満たしている。
眼鏡の少女は振り向いて、 手招きした。
後ろからついてくるのは、 彼女の親友である、 銀髪の少女。
そこは、ふたりの魔法でつくられた、 魔法の国。
ふたりは魔法の国を、思いのままに魔法で彩っていった。
空には虹色の天蓋がかかり、 それを通過した光は、
オーロラみたいなグラデーションを描いて、
彼女達の足元を照らしている。
地面には星の砂が敷き詰められ、
踏みしめるたびに、キラギラと小さな輝きを放つ。
「どこまで続いているの?」
眼鏡の少女が、 隣にいる親友に問いかける。
「うーん、私にもわからない」
親友は、そんなことは気にしない、という様子で、
黙々と歩みを進める。
少女も、それならそれでと、 親友について歩く。
歩くスピードに伴って、 魔法の国は、
ゆっくりと景色を変えていく。
10分くらい前には、 右手に海が広がっていた気がする。
今はもう、 海はなくて、
代わりに、 ずっと向こうまで花畑が広がっていた。
ラッパ型の小さな白い花。
それをひとつ摘んで、隣にいる親友の髪にそっと差してみる。
こっちを向いた親友に、にっこりと笑いかける少女。
「とっても似合ってる」
と少女は言った。
親友は、 思いついたように言う。
「この花で、 冠を作ったらきっと綺麗だろうね」
少女も、その意見には賛成だった。
ふたりはそこに屈み込んで、
一緒に花の冠を作ることにした。
花の茎を絡ませながら、 紡いでいく。
ふたりで作業をしていると、 なんだか楽しい。
単純作業を繰り返していると、
お喋りが誘発されてしまうのはなぜだろう。
他愛もない会話で盛り上がる。
思春期に差し掛かるふたりの間に、
「契約」についての話題があがる。
魔法使いの伝統的な儀式で、
「契約の儀」 というものがある。
その目的は、ふたりの魔法使いが、
お互いの魔力を結び付けて、
より強い魔法の体系を生み出すためにある。
そして、お互いの魔力を結びつけるには、
精神的な面での、 深い結びつきも必要になる。
心を許したふたりの魔法使いの、 特別な儀式……
ふたりは想像してみる。
契約の儀がおこなわれる日。
改まった礼服を着こなして、 ふたりの魔法使いが向き合う。
誓いの輪を交換する。
もしかしたら、 誓いの輪を交換するときに、
口づけしたりするかもしれない。
契約の儀は、特別な場所で行われるから.、
ふたりはそれを、 実際に見たことはない。
だからこそ、 想像は膨らんでいく。
なんだかんだと話しているうちに、 出来上がった花冠。
初めてつくったそれは、 ちょっといびつで、
でもそれが、手作りって感じがして愛らしい。
親友は、花冠を少女の頭にのせてやる。
そして、うん、似合う。 すごく綺麗だよ、と言った。
その親友の言葉に、少女はぎこちなく笑う。
友 そして、せっかくだから予行演習をしようよ、と
提案する。
魔法使いの契約の儀って、 男女でやるもの……
って大昔のエライ人が決めてなかったっけ?
と、親友はいう。
少女は少し恥ずかしそうに、
それなら私が男役をやるよ、と答えた。
親友はまあいいけど、 といって立ち上がる。
そうしてふたりは、予行演習の準備を始めた。

眼鏡の少女と銀髪の親友は立ち上がって、杖を構える。
魔法の国では、想像が現実に変わる。
一面の花畑の中に、 突如、 白い礼拝堂が現れる。
「こんな感じ、かなぁ」
ふたりは、契約の儀の予行演習をしようといって、
そのために、礼拝堂を創造してみた。
「なかなか、いいんじゃない?」
でも、私はもうちょっとかっこつけない方が好みかな、
などと、 お互いの理想を持ち寄っていく。
実際、契約の儀は礼拝堂で行うものなのか、
それ自体、 ふたりにはよくわからなかった。
でもそれでよかった。
なんとなく、 かしこまったところでするのがいいし、
その方が雰囲気もでてくる。
最終的に出来上がったのは、
一軒家を少し大きくしたくらいの、
こじんまりした三角屋根に、
沢山の窓がつけられた、シンプルな礼拝堂。
中に入ると、窓から差し込む明かりが心地よい。
ふたりは、 中央の通路をまっすぐ進んでいく。
少女の親友はまんざらでもないといった表情でいう。
「けっこういい雰囲気ね」
あと、足りないものは……と少女は考えながら、
「衣装も必要だよね」
といって、親友のドレス姿を想像する。
ちょっと大人っぽい雰囲気の、すらっとしたドレス。
すると親友は、 少女が想像した通りの、
美しいドレス姿に変わった。
親友はちょっと恥ずかしそうに、
「ふーん、悪くないじゃない」
といって、 自分の身を包むドレスを見る。
そして、じゃあお返しね、と目を瞑る。
少女の姿が、王子様みたいな、
仕立て上げられた礼服の姿になる。
親友の、 おとぎ話の世界のような想像に、
少女は少しおかしくなって笑う。
クスクスと笑う少女を見て、
親友は、 何か文句でもあるわけ?
と、頬を膨らませる。
ない、 全然ないよ、と少女は謝るが、
親友は相変わらずそっぽを向いたままだ。
少女にとって親友は、
いつもしっかり者で、 自分を守ってくれる存在で、
自分よりも大人っぽい思考を持った人だと、
そんな風に思っていた。
だから、少し子供っぽい想像をしてしまう親友の側面を見れて、
ちょっと嬉しい気すらした。
少女は親友の機嫌を直すために、
これで許してくれる?と
精巧で美しい彫りをあしらった、銀のリングを差し出す。
契約の儀を行う際は、誓いのリングを交換するらしい。
だから少女は、
精いっぱい自分が美しいと思うリングを用意していた。
親友はそのリングに見惚れる。
いつか近い将来、 こんな風に、
誰かと契約を交わすのだろうか?
美しいリングのきらめきは、
そんなことを考えさせる力があった。
少女はそっと親友の手をとって、
指にリングをはめる。
親友はリングのはめられた手をかざして、
まじまじと眺める。
「綺麗……」
そんな言葉が、 親友の口から洩れる。
親友はにっこりと笑って、
すごいね、きっと、 本物の誓いのリングは、
こんな風に心を動かす力があるんだろうね。
そういう親友の瞳がきらきらと輝いていて、
少女は、目が離せなかった。
親友の笑顔が、 突然、
砂のように、 さらさらと、消えていく。
ふたりを包む礼拝堂も、 美しいドレスも、
魔法で作られた全てが、 光の粒子になって消えていく。
少女は思わず手を伸ばす。
その手が、 親友の頬に触れる瞬間、
風に溶けるように、全てがかき消された。
魔法が解けてそこに在るのは、
日の落ちた森に佇む、哀れな獣。
静寂。
獣は地面に膝をつき、
地に落ちた銀のリングを拾い上げ、 握りしめる。
力のない笑みを浮かべた獣が、
「また太陽が昇ったら、 会いましょうね……」
そうつぶやいた。

マリー / 燃える都市、消えゆく声

ユリィ / 足跡の歪

ユディル / 解き放たれたふたり

サラーファ / 逃れた先の檻

陽那 / 溟海ノ落日

佑月 / 月夜ノ孤城

10H / 複製サレタ花影

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