イベントストーリー

記録:輪廻の檻

人間を守る為につくられた二体の人形が、
機械の敵と戦っていました。

女の子の名前は2B。
前線で戦う、とても強い戦士。
男の子の名前は9S。
2Bを後ろから補助する、分析に優れた兵士。
二人が組んで戦えば、
かなう敵はいませんでした。

しかし、9Sには密かな願いがありました。
繰り返される終わりの見えない戦い。
こんな世界から2Bを解放したいと。

あるとき二人は、索敵情報を元に、
ぽっかり口を開けた鍾乳洞の中を
進んでいきました。
出てくる敵を、次々と倒しながら。

二人の通ったあとに、
動いている機械の敵はいません。

深い、深い洞窟の奥。

情報に記されたその場所は、
暗く、物音一つ聞こえません。

一歩踏み出そうとしたその瞬間、
真っ赤な光が二人を包みます。
9Sは自分の失敗に気づきました。

仕掛けられていたのは電子迷彩。
隠れていたのは数十体の機械生命体。
その中央で2Bが叫び声を上げました。

ウィルス――
それは人形達を蝕む兵器。
2Bの目が汚染で赤く光ります。

状況は最悪で、
戦線離脱が最も優れた選択。
9Sはその道を拒絶します。

それは2Bを助ける為。

2Bの心の迷宮。
その扉を開ける9Sは、
奇妙な光景を目にします。

緩やかに蠢く2Bの記憶の中に、
自分の姿があったからです。

鉄の森で、冷たい海で、熱い砂漠で。
それは、覚えのない風景。

繰り広げられているのは、
2Bが9Sを……自分を殺す記録。

何度も……

何度も…………

そして、
殺される回数と同じだけ、
出会いの記録もありました。

「ナインズという愛称で呼んでほしい」
と伝える記憶も……

何十、何百と。

2Bの汚染を除去した9S。
予想外の反撃に崩れた包囲網の隙を突き、
二人は脱出をします。

遠隔で任務完了の報告をすませた2B。
ダメージを負った彼女を支えて歩きながら、
9Sは考えていました。

2Bに殺され、
記憶を消去され、
また出会うのはなぜだろう?

その答えは霧の中にあり、
2Bに聞きたい言葉も見つかりません。

でも……

彼女の記憶に残るのであれば。

「この自分」が、
彼女に記録されるのならば……

何度殺されても、悔いはない。

繰り返される二人の運命は、
螺旋のようで、
その糸にすがりつきながら……

9Sは暗闇を歩き続けました……

記録:狂妄の巣

とある街の、場末の酒場。

ならずものと賞金稼ぎのたまり場に、
ひとりの女が足を踏み入れました。

男たちはにやけた顔で彼女に目線を送ります。
しかし、すぐさま顔色を変えて、
視線を逸らしてしまいました。

なぜなら、彼女の左手と左足が、
鈍く光る戦闘用の義肢で、武装されていたからです。

彼女が向かったのは、
手配書が張り出された掲示板。

ふと、その中の一枚に目が留まります。

手配書には、

『少女ばかりを狙う、凶悪な猟奇殺人鬼』

と書かれていました。

瞼の裏に、喪った妹の顔が浮かびます。
彼女の心に、怒りの炎が広がっていきました。

彼女は手配書を剥ぎ取り、
店を出ました。

凶悪な殺人鬼をこの世から消し去るために。

殺人鬼の住処を探し、彼女は街を歩きます。

うらぶれた街の中は、
いつか、どこかで見たような風景でした。

彼女は何度も、こんなことを繰り返していました。

何人もの賞金首を殺してきたのです。

しかしそれは、金銭が目的ではありませんでした。

彼女を突き動かすのは、怒り。

この世の悪に対する憎しみの怒りでした。

しかし、どれだけ悪人を殺しても、
消えた命は戻ってきません。

そしてこの世から悪が潰えることも……

彼女の心の隙間に、仄暗い疑念が入り込んできます。

「クシャリ……」

携えた手配書を強く握りしめ、
彼女は雑念を振り払いました。

迷いは捨てなければなりません。

彼女の心を支えているのは、
己の「力」だけなのだから。

街外れに佇む古びた屋敷、
そこが殺人鬼の住処でした。

屋敷へと足を踏み入れた直後、
彼女は立ち止まります。

おびただしい数の罠が、
目の前に張り巡らされていたのです。

仕掛けられた罠に翻弄されながらも、
彼女は前へ進み……

最奥の部屋で、殺人鬼を追いつめました。

その殺人鬼は、卑屈で、臆病な男でした。

追いつめられた恐怖で、タガが外れたように笑っています。

そして男の背後には、
鎖に繋がれ、ぼろぼろになった少女。

男は少女にしがみつきながら、

「この子はボクの最高傑作なんだ!」

そう言って笑い続けます。

彼女は表情一つ動かさず、
一振りで男の首を落としました。

殺人鬼は己の死に気づく様子もなく、

最後まで笑っていました。

危険を排除したことを確認し、
彼女は少女の鎖を解いてやりました。

傷ついた少女に手を差し伸べた瞬間……

少女は彼女に襲いかかりました。

少女は、隠し持った凶器を振りかざします。

殺人鬼は少女のことを、
自分と同じような殺人鬼へと教育していたのです。

彼女に選択の余地はありません。

義手で少女の攻撃を受け止め、
その体に剣の切先を突き立てました。

………

少女の瞳が、ゆっくりと光を取り戻します。

「おか……あ……さん……」

その指は失ってしまった幸せを求めるように。

ゆっくりと力を失いながら。

自分の「力」を信じ続けた彼女は問いかけました。

私の力は、いったい何のためにあるのかと……

しかし少女の亡骸がそれに答えてくれるはずもありません。

静寂の中に、少女の血の滴る音だけが響いていました。

記録:皎潔の丘

とある辺境にある小さな村。

崖にへばりつくように立てられたその村に、
一人の少女が住んでいました。

彼女はいつも家の窓から、
村の子供たちが遊んでいる様子を眺めて
ふてくされていました。

体が悪いわけではありません。

彼女の足には生まれたときから
目立つ『あざ』があったのです。

足のあざを隠すようにと両親は言うのでした。
そうしなければ外に出てはならないと。

しかし、彼女にとってはあざも自分の一部。

それを隠せと言われる度に、
自分自身を否定されたように感じてしまいます。

ある時から少女は意固地になり、
あざを隠すことを嫌がるようになりました。

彼女と両親がよく喧嘩をするようになってから、
もうすぐ数年が経ちます……

足のあざを人目にさらさぬよう、家に閉じ込められた少女。
不満が抑えきれなくなった少女は、
両親の目を盗んで家を抜け出すことにしました。

家から逃れるように村を走り抜け、丘へ上ると、
そこには先客がいました。

流れるような白い髪の戦士。
地面に剣を突き立て、岩に腰をおろしています。

戦いの後なのか、
白肌に無数の傷がついていました。

特に少女の目を惹いたのは
彼女の左半身。
包帯が解けて露わになった肌は、
あざが広がったように真っ黒だったのです。

自分と同じだ、と少女は思いました。
そしてあざを見られても
少しも動じない彼女のようになりたいと、
強く憧れました。

「あなたのようになりたい」と、少女は戦士に想いを伝えます。

彼女は少女の顔……そして足を見て、
寂しそうな、怒っているような、複雑な表情を浮かべました。

「私のように生きてもいいことはない」
真っすぐに見つめる少女から目を逸らすように、戦士は告げます。

そして解けた包帯をしっかりと巻きなおしその場を去っていきました。

丘の上で出会った戦士と別れ、少女は家に戻ります。

今日のことを話そうと両親の部屋に向かうと、中から二人の会話が漏れてきました。

「生まれつきのあざを隠せだなんて、
 あの子に辛い思いをさせていたのね……」
「あの子が『マモノ憑き』だと思われないためだ。
 私たちがどんなに恨まれたとしても……」

聞こえてきたのは、家出した少女を心から心配する両親の本音。

『マモノ憑き』
その言葉を聞いて、
少女は幼い頃の両親の話を思い出しました。

マモノに呪われ、化物になった戦士の話。
彼女が村で、どれほど酷い扱いを受けていたのかを……

少女は戦士が見せた、
複雑な表情を思い返しました。

凛々しく見えた彼女にも、少女の知りえない事情があるのだと。

少女は一方的に憧れを伝えたことを恥じ、
あの表情に隠された意味を考え始めました……

少女にとって足のあざは自身の一部。
それを両親もわかってくれていました。

けれどこのあざを村人に見られたら、
きっとよくないことが起きる……

自分だけでなく、両親にも……

両親の愛と自らの誇りの狭間で、
少女は苦悩しました。

しばらくして、
少女はあざを隠し始めました。

両親が向けてくれる、想いに応えるためです。

ただ、あざは必ず包帯で隠し、
包帯を巻いた足は絶対に隠しませんでした。

戦士との出会いで気付いた、誇りを捨てないためです。

陽の光に包まれた、丘の上に立つ少女。
あの戦士のように強くなれたら……
両親に心配をかけずにすむようになれたら……

その時は包帯を取り、ありのままの姿で外の世界を歩く。
そう固く決心しました。

平原を見つめる少女の瞳には、
未来に続く空が広がっていました。

記録:光芒の谷

遥かな頂、
神秘の湖、
荘厳な滝。人が立ち入ることを許さない、
天然の要塞たち。

一つ制覇するだけでも、
偉業と称えられるような秘境の数々。
男はそんな秘境に挑み続ける冒険家でした。

鍛え上げられた肉体だけを頼りに、
無謀な冒険に身を投じる男。

若い頃から彼を知る同郷人たちは、
口を揃えてこう言います。

「あいつは変わった」と。数十年前、男は金銀財宝に執着する冒険家でした。

かつて隆盛を極めた廃城や王家の墓など、
宝がありそうな場所にしか興味を示しません。

首尾よく宝を手に入れると、
それを売った金で酒場に入り浸っては、
酔って粗暴に振る舞います。

そんな彼は、
いつしか人々から敬遠されるようになっていました。

しかし周囲の目など気にも留めず、
男は次なる宝を求めて旅立ちます。

深い山奥の峡谷。

男は獣しか通らないような断崖の小道を、
じりじりと進んでいました。

一歩踏み外せば谷底まで真っ逆さま。

死と隣あわせの危険な道。

しかし男の目には、
恐怖心よりも強く、欲望の光が宿っていました。

この峡谷のどこかに眠ると言われる、伝説の秘宝。

果たしてどれほどの値が付くのか、
男の頭の中にはそれしかありません。

欲望に支配された男は、
はやる気持ちを抑えることができず……

一歩踏み出した先の岩がほんの少しだけ、

脆くなっていることに気づきませんでした。

男は、深き谷底へと、転落していきました。

男が目を覚ますと、すっかり日は落ち、
あたりは真っ暗になっていました。

彼が倒れているのは谷底の小川。

身体を起こそうとすると、全身に激痛が走ります。

手足どころか、指ひとつ動かせません。

男は、このままここで死ぬのかと、
恐怖を覚えました。

その時、雲に隠れていた月が顔を出し、
周囲を照らします。

男は、月明かりに照らされた情景に、
一瞬で目を奪われました。

人間の小ささを嘲るような、
威風堂々と反り立つ岩壁。

自らの意志を得たかのような、
風にざわめく木々。

そして夜の帳を飾る宝石のような、
満天の星空。

どんな金銀財宝よりも輝かしい、
荘厳な大自然の在り様。

これまで気にも留めなかった風景の美しさが、
男の胸を打ちます。

生死の狭間で計らずも見つけた、
自分が真に求めるべきもの――

小川の流れが奏でるせせらぎに、
男の鼓動は溶け込んでいきました。

「俺にはまだ、成すべきことがある」

人生の大目的を見つけた男は、
迫りくる「死」を跳ねのけ、生還しました。

以来、男は金銀財宝には目もくれず、
ただひたすらに危険な秘境を目指しました。

過酷な状況に追い込まれるほど、
男の胸は高鳴ります。

死に近づくほど得られる、強烈な「生」の実感。

それは谷底で死の淵をさまよった時に覚えた、
不思議な感覚でした。

そんな彼を見た同郷人たちは、口々にこう言いました。

「あいつは変わった」

「まるで大自然に取りつかれたようだ」と。

そしてまた男は、新たな秘境に旅立ちます。

大自然の中を進む男の目は、
まるで子供のように輝いていました。

生と死の境界線――自分の求めるものはそこにあると。

記録:血盟の汀

砂浜を引きずるように進む、傷だらけの女と竜。

女の名はゼロ。
歪な『花』に右目を侵された、最強の剣士。

竜の名はミハイル。
言葉を話す、白く幼い竜。

二人は今まさに、死にかけていました。

傷口からはおびただしい血が流れ、
海岸には蛇のような赤い道が残っています。

その跡を追って現れるのは、大勢の兵士たち。
彼らは、裏切り者を殺せ、と息を荒らげ迫ってきます。

限界だ。もう逃げられない。

女は剣を強く握り、覚悟を決めます。
剣士に応えるように、竜は血まみれの咆哮を上げます。

まだ終われない。死ぬわけにはいかないと。

波のように押し寄せてくる兵士たち。
傷口から血風をなびかせながら、応戦する剣士。

そんな中、
剣士の赤く染まる視界の端。そこに映るのは、倒れゆく竜。

白い体躯に刺さる無数の刃。
竜は地に伏せたまま、か細い声を上げます。

女の髪が怒りで浮き上がり、目の前の兵士を一瞬で両断。
砂を蹴り上げ、竜の元へ駆け寄ります。

「キミを死なせない」

女は竜を庇うように前に立ち、振り返ります。

トン。

気づくと、その胸に深々と矢が刺さっていました。
その矢を取ろうとする手にも、次の矢が。
憎々しげに敵を睨みつける為、上げた顔。
その目を狙いすましたかのように、三の矢が撃ち抜きます。

血まみれの指から、ゆっくりと剣が落ちていきました。

緩やかに動いていた女の心臓が、完全に止まりました。

兵士たちから歓声があがります。
裏切り者は討たれたと。

兵士たちが、残された竜を殺そうとした瞬間、
女の『死体』が、叫び声を上げました。

その絶叫に呼応するように、
右目に生えた『花』が紅に光ります。

そして一瞬にして、
人間の身体を超える大きさまで膨れ上がり……

その『花』の中央から、血塗れの人間が『生え』てきます。
それは、生まれ変わった剣士。
『花』の力を持つ、悪魔。

「終われない。まだ……オワレナイ……」

蘇った女は剣も持たずに兵士に襲いかかり、
純粋な暴力だけで兵士を次々と潰していきます。

しかし、それでも多勢に無勢。
女は全身を剣で貫かれてしまいました。

すると再度響く、女の叫び声。
巨大化した『花』の中央からまた、女が蘇ります。

手足をもがれても、矢が頭を貫いても、
女は何度も蘇り、兵士たちに襲いかかりました。
それはまるで、無限の悪夢のように。

女は砂浜に腰を落としました。
鋭く息を吐く音が、緩やかに落ち着きを取り戻します。

戦いは終わりを告げ、
波の音だけが赤黒く染まった海岸を包んでいました。

しばらくして、回復した竜が目を覚まします。
全滅した兵士たちを目にし、女に向けて感謝を伝えました。

「守ってくれてありがとう。ゼロ」
巨躯に似つかわしくない、無邪気な子どものような声。

当たり前のことをしただけだ、と竜に返す女。
絶対にキミだけは守らなくては、と女は思っていたのです。

女の右目に咲く『花』。
これは呪われた力。世界を滅ぼす忌まわしき力。

この『花』を滅ぼせるのは、竜の種族のみ。

キミが成長して強くなったら……
それはいつか伝えねばならない、最後の願い。

でもその時が来るまでは、
キミは私が守る、この命が何度尽きようとも。

記録:不平の都

王国から逃げ出し、荒野を巡る
少年と機械の従者がいました。

追っ手から逃れるために、
二人はとある街に逃げ込みます。

これだけ広い街なら、
簡単に見つかりはしないでしょう。

二人は酒場へと入り、
ようやく一息つくことができたのでした。

街行く人々は誰もが笑顔で、
みんな幸せそうです。

「こんな平和な国にできたら……」

戦争で苦しむ祖国の民を想いながら、
少年は料理に手を伸ばしました。

ハッと何かに気付いた従者の男が、
少年の手を押さえます。

男は奪うように料理を取り上げ、一口食べて唸りました。

「この料理には、『薬』が入っている」

料理に薬が入っているという、男の一言。

愕然として立ち上がった少年に、
酒場の店主が近付いてきました。

この街では合法の薬なのだと、
店主は言います。

しかし、この薬はひとときの快楽と引き換えに、
身も心も壊してしまうもの。

どこの国でも禁止されている、
危険な薬物なのです。

それを承知しているのかと問いかける少年に、
店主は色めき立って周りの人間を呼びました。

詰め寄る住民達。

彼らの顔からは笑みが消え、
虚ろな目が二人を見据えます。

彼らの手に握られた刃物や拳銃。
ゆらゆらと揺れる得物が、怪しく光ります。

ただの脅しではなさそうです。

少年を守るため、
男は彼らの前に立ちはだかりました。

武器を持った、街の住民達に取り囲まれた少年と従者。

少年は彼らを説得しますが、
反抗するように住民が語り出します。

この街には、戦火に焼かれた過去がありました。

その後、薬をほうぼうに売りさばくことで、
ここまで復興したのです。

今では街を訪れた者に、
中毒性のある薬を混ぜた食事を振る舞い
新たな顧客にしていたのでした。

話していた彼らは、あることに気づきます。
少年が、王国から逃亡した王子であることに。

「圧制者に鉄槌を!」
「街を滅ぼそうとする者に裁きを!」

少年は声の限りに異を唱えましたが、
住民達は聞き入れませんでした。

襲い来る暴徒に向かって、
従者が銃を構えます。

「彼らを殺さないで!」

少年は、そう叫ぶのが精いっぱいでした。

街中での乱闘の末、
従者の男が住民達を鎮圧しました。

倒れ伏した彼らは、
口々に呪詛を吐き洩らします。

「街のために、
 悪魔のささやきに耳を貸すしかなかったのだ……」

「すべて戦争が……王国が悪いのだ……」

戦意を失った住民達を見下ろしていた男が、
少年に振り返ります。

顔の包帯がほどけ、
素顔が覗いていました。

傷だらけの顔。
王国のために戦争へ赴き、棄てられた兵器の顔。

少年は悲しげな眼差しを男に向け、
彼の頬の傷に、優しく触れました。

「行こう。次の街へ……」と、
俯いた少年が呟きます。

記録:虚影の筵

少年が目を覚ましたのは、見慣れない部屋。

傍らには静かに行む機械の男と、
優しそうな微笑みを浮かべた女性がいます。

少年と男は、祖国が始めた戦争を止めるため、
国々を巡っていたはずでした。
しかし、今自分が居るのは民家のベッドの上。
いったい何があったのかと、少年は尋ねました。

男は独断を謝罪します。

発作で朦朧とした少年を抱えていた時、
この女性が助けてくれた、と言いました。

弱い体を不甲斐なく思いつつ、
少年はお礼を言います。

その時、ありがとうという言葉と一緒に、
こほっと咳が出ました。

咳き込む少年を、
女性は優しく横たわらせます。

病による疲弊のためか、
手の温もりのおかげか。

少年はすぐに眠りへ落ちていきます。

それは不意に訪れた、
安らぎの時間でした。

少年が療養を始めて、数日が経ちました。

時折、外から聞こえてくる喧騒。
街の人々が戦争のことを話しています。

日に日に燃え広がっていく戦火が、
いつかこの街をも呑み込むのではないかと。

不穏な空気を警戒してか、
護衛の男は見張りに立つようになりました。

国家間の争いを和平に導くため、
一刻も早く、架け橋となる勢力を造らなくては。

少年がそう思っても、
弱った体がそれを許しません。

助けるはずの人々に助けられている。
少年は高熱だけではなく、
自責の念にも苦しんでいました。

そんな彼を、甲斐甲斐しく看病する女性。
慈愛に満ちた言葉。
貧しくも暖かな食事。

少年はなぜか、それを懐かしく感じました。
考えを巡らせた彼は、
やがてひとつの思い出に辿り着きます。

それは幼き日の記憶。
今はもういない、母親の顔……

ゆっくりと体を休めたことで、
少年は少しずつ快方に向かいました。

ある日、少年の頭にふと疑問が浮かびます。

なぜ彼女はこれほど尽くしてくれるのだろう。
なぜ母のことを思い出したのだろう。

少年は男に事情を聞いていないか尋ねました。
男は頷き、伏せられた写真立ての方を示します。

写真立てには、一枚の家族写真が入っていました。

男はこの部屋の過去について話し始めます。
この国には、全国民のデータベースが存在し、
機械である男はそこへアクセス出来ました。

男は語ります。
女には家族の存在記録がある事。
そして、この部屋が女の子供のものである事。

写真の中で、幸せそうに笑う家族。

その一人が、戦火により命を落とした子供である事を。

少年が彼女に亡き母親を感じたように、
彼女もまた、
失った子供を少年に重ねていたのでしょう。

少年の胸に痛みが走りました。
病のためではありません。

安らぎの時間。

女性の献身。

見え隠れする愛情。

その理由は……
祖国が引き起こした戦争だったのです。

女性の献身は、少年に亡き子供の姿を重ねたもの。
そして子供を亡くした原因は、祖国の起こした戦争。

その事実が、少年の胸に重くのしかかります……

「行こう、僕はここにいてはいけない」
少年はそう言って身支度を整えると、
杖を支えになんとか立ち上がろうとしました。

男が少年の肩を支えると、遠くで大砲の音が轟きます。
それは命の失われる音。
覚えのある悲劇の足音が迫っています。

今にもこの家を飲み込みそうなほどに。

物音に気づいた女性が起き出してきました。

出ていくのを止めようとする彼女に、
少年は自身が王国の人間、
ひいては王家の血筋であることを告げます。

その途端、女性の表情は驚愕に染まり、
次第に、憎しみと怒りへ変わっていきました。

「あなた達のせいで、あの子は……」

喉から絞り出される、怨嗟の声。
変わらぬ過去に苦しむ母親の、悲鳴。

「私の責任です」
そう言って少年は頭を深く下げました。
女性の子が戦火に命を落としたのなら、
王族である自分は彼女に恨まれるべきだと……

―― 民家を去った少年の体はいまだ熱に苛まれ、
痛みは意識を塗り潰そうとします。

しかし彼は進み続けました。
憎悪をその背に負いながら……
戦いを止めるために。

この家を、守るために。

少年は……

二度と振り返りませんでした。

記録:鎮魂の棺

人類を脅かす『花』と戦う兵士たち。

彼らは囚人のように閉じ込められ、
必要な場合は感情すらも管理され、
終わりなき戦いに身を投じていました。

ある日、兵士たちが集う拠点に、
言い争いをする声が響きます。

声の主は、新兵の青年と指導役の女。

青年は、これまで何度も実戦への参加を直訴しましたが、
女は彼の出撃を認めないと繰り返すのです。

この押し問答は、
2人が出会った時から続いていました。

「命と引き換えにしてでも『花』を殺します」

基礎訓練を終え、部隊に合流したその日に、
青年はそう宣言しました。

最愛の恋人を殺された彼は、
その復讐のために『花』と戦うのだと。

女は穏やかに、しかしはっきりと、
彼の考えを訂正しました。

「死んでしまったらそこで終わり。
生き残ることだけ考えて」

優しい口調が、亡くした恋人とそっくりで、
青年の復讐心をより煽るのでした。

実力を示せば、いつかわかってくれる。
そう考え、常に訓練に打ち込んできた青年。

どうしても自分を認めようとしない女に対して、
ある提案を持ちかけました。

次の仮想訓練でトップの成績を取ったら、
自分の出撃を認めてほしい、と。

変わらず首を横に振ろうとする女を遮り、
彼は一方的に「約束だ」と言い捨て、去っていきます。

早く、一日も早く恋人の復讐を。

彼の望みは、ただそれだけなのです……

青年の実戦参加が懸かった、『花』との仮想訓練。

彼は指導役の女に宣言した通り、
トップの成績を収めました。

他の兵士たちは青年の元に駆け寄り、
「お前となら『花』を倒せる」と息巻きます。

熱を帯びた雰囲気の中で、
青年は様子を見守る女に問いかけました。

「これで出撃を認めてくれますよね」

女が青年の申し出を断ろうとしたとき、
拠点の指揮を執る、彼らの上官がやって来ます。

上官は訓練の結果に満足した様子で、
青年や周りの兵士たちに、
次の戦いで出撃するよう命令したのです。

認められたと喜びの声を上げる兵士たち。
意味ありげに笑う上官。

喧騒の中、青年の耳に、
ふと女の声が届きます。

「私はまた、止められないの……」

その言葉に込められた意味に、
彼が気づくことはありませんでした。

上官から出撃命令が下されてからというもの、
青年は異常なほど訓練に明け暮れました。

かつて恋人と過ごした日々を胸に、
ようやく『花』へ報復できると闘争心を燃やしながら。

そして迎えた、初陣の日。
部隊の士気は最高潮に達しています。

青年の闘志に感化された仲間たちもまた、
訓練を重ね実力を伸ばしていました。

指導役として青年をサポートしてきた女は、
物憂げな表情で彼に訴えかけます。

「あなたの実力はわかってる。
 それでも命を粗末にしないで……」

この期に及んで不要な心配をする女。
青年はそれを一笑に付し、こう添えました。

「黙って俺に任せてください」

この『花』との戦いが終われば、
女との不毛な言い争いもなくなるでしょう。

恋人の復讐を果たし、実戦で実力を見せたなら、
彼女も青年を認めざるを得ないのですから。

剣を握る手に力が入ります。

青年が待ち焦がれた復讐の初陣が、
いよいよ始まろうとしていました……

新兵たちと『花』の、初めての戦い。

青年は内に溜めた復讐心を敵に向け、
多くの『花』を剣で貫きました……

激戦の末に荒れ果てた廃墟都市は、
今、不気味な静けさに包まれています。

戦場で生きているのは、ただ一人。

勇猛に戦った青年の亡骸を抱え、
座り込んでいる指導役の女だけでした……

回収用車両で到着した上官が、
「また失敗か」と不満げに呟きました。

上官の後ろに続くように、
車両からもう一人の人影が現れます。

言い争いの度に見据えた、見慣れた色の瞳。
女が抱える亡骸と瓜二つの、若い男。

彼は凄惨な戦場を眺め、
表情を歪ませながら宣言します。

「命と引き換えにしてでも『花』を殺します」

これで『何度目』でしょうか。

そんな無意味なことを考えながら、
女は静かに青年へと声を掛けます。

「死んでしまったらそこで終わり。
 生き残ることだけ考えて……」

変わることのない女の優しい口調に、
絶望の声色が、僅かに混じっていました……

記録:憧憬の路

彼女は知っていました。
自らが向かうべき場所がある事を。
しかし、彼女は知りませんでした。
その場所がどこにあるかを。

必要なのは目的地に辿り着く為の「情報」。
手がかりも何もない情報を求め、
廃墟となった都市をあてもなく彷徨う日々。

ある日少女が拾ったのは、一冊の古びた本。
ここがどこかも分からない無人の地では、
本は貴重な情報源になります。

しかし、長らく風雨に晒されていたためか、
字も挿絵も、掠れて読む事ができません。

少女が、仕方なくその本を閉じようとした時――

一羽の小鳥が、
樹の上から落ちてきました。

怪我をしているのでしょうか。
その両翼は不揃いで、
羽毛の剥げた箇所には血が滲んでいました。

草葉の上でもがく小鳥は、
傷付いた翼で何度も羽ばたこうとします。

苦しそうに、それでも必死に足掻く小さな羽。

少女は、小鳥へと声をかけました。

「……どこか、行きたい所があるの?」

小鳥は問いかけに答えるように、小さな声で鳴きました。

旅の途中で出会った、怪我をした小鳥。

少女の手の上で、
小鳥は一方をじっと見つめ続けています。
さらに、その方角に向かって、羽ばたこうとすらしました。

強い意志でどこかを目指そうとしている小鳥。
少女は服の裾を破り、羽を固定するように巻いてやりました。

幸い軽傷だったので、
数日、安静にしていれば回復するはずです。

そして少女は、小鳥を頭の上に乗せました。

彼女の旅の目的地、
その手掛かりはまだ見つかっていません。
探すあてもないのなら、と
少女は小鳥の旅を手伝う事にしたのです。

少女が立ち上がると、
突如、小鳥が激しく鳴き始めます。

何かに慌てているのでしょうか。

小鳥に急かされるように、少女が足を速めた、
直後、背後で轟音が鳴り響きました。

風化したビルが崩落し、少女と小鳥の居た木陰は、
瞬く間に瓦礫の下敷きになってしまいました。

「……助けてくれたの?」

答えるようにピィ、と鳴いた小鳥の声が、
少女には少し得意げに聞こえました。

少女と小鳥の旅は続きます。

少女には何でもないこの都市も、
飛べない小鳥にとっては捕食者の巣窟。
ある日、飢えた獣が彼女達の前に立ちはだかりました。

今度は自分が小鳥を助ける番、
少女はそう考えて、静かに槍を構えます。

彼女が素早く襲い掛かる素振りを見せると――

驚いた獣は、一目散にその場から逃げていきました。

しかしその時、少女の頭上から布が落ちてきます。
小鳥に巻いた、裾の切れ端。
彼女はすぐに違和感に気付きました。

頭の上の、微かな重みが消えています。

小鳥がいません。

周辺を探す少女の目に、
ひとつの建物に向かって飛ぶ小鳥の姿が映りました。

まだ怪我は治っていないはずなのに、
その羽ばたきは力に満ち溢れています。

きっとあそこに行きたかったんだ。

少女は小鳥の後を追いかけます。
壊れた扉を潜り抜け、建物の中へと……

力強く羽ばたく背中を追いかけ、
少女はついに小鳥の目的地を見つけました。

静まり返った空間に響く鳴き声。
そこにあったのは、小さな鳥の巣。

小鳥が目指していたのは、
我が家だったのです。

少女の胸を、微かな痛みが襲いました。

孤独に旅を続ける少女には、
家族も、帰るべき自身の家もありません。

巣で親鳥達と鳴きあう小鳥を見ていると、
痛みが少しずつ大きくなっていく気がします。

もう行こう。私も、目的地を探さなければ。

少女は小鳥に向かって小さく手を振り、
歩み出そうとします……

その時、彼女はやっと気付きました。

壁に並ぶ無数の本棚に。
ここが図書館である事に。

ようやく見つけた、読む事の出来る文字。
この地で使われた言語が分かれば、
現在地を知る手掛かりになるはずです。

それが自身の『行きたい場所』に繋がると信じて、
少女は本を手に取りました。

つかの間の旅の友がくれた、素敵な贈り物。

大切そうに本を開く少女の口元は、
少しだけ、綻んでいるように見えました。

記録:落陽の港

日光を反射して煌々と輝く海の傍、
その砂浜に、一人の女がいました。
幽雅に、そして幽然と歩く、黒い蝶のような水着姿。

彼女はある『仕事』のために国を離れ、
異国の港を訪れていました。

その仕事とは、近くここへ寄港する船に乗った、
とある人間の抹殺です。

女の正体は暗殺者。
彼女は過去にもこの地を訪れた事がありました。

光が溢れる水面を見ながら、
女は古い記憶に思いを馳せます。

それはまだ、彼女が幼く未熟だった頃……

若かりし頃の女は、修行の一環として、
不穏な動きを見せる敵国の政治家を追っていました。

ここは多くの船が、航海の中継地点として入港する場所。
様々な国、人種の人間が訪れるこの港で、
少女が一人歩いている事を気に留める人などいません。

無垢な子供を装い、情報を手に入れた彼女。
数刻ののちに出航する船で政治家達の会合があり、
そこに彼女の追う標的も参加するようです。

しかし停泊している船は多く、
どの船で会合が開かれるかは分かりません。

忍び込む船を誤れば、全てが無駄になる……
少女がそう考えていた時――

その身体に、衝撃が走りました。

船ばかり見ていた彼女は、
走ってきた男の子とぶつかってしまったのです。

ある任務で港町を訪れていた暗殺者の少女は、
浜辺で男の子とぶつかってしまいました。

声を上げて泣き出す、身なりの良い男の子。
転んで擦りむいた膝小僧からは、血が流れています。

人々の注意を引く泣き声を放っておく事もできず、
少女は怪我の手当てをしてあげる事にしました。

手当を終えて、少女は男の子に尋ねました。
親の元まで送るから、どこにいるか教えて欲しいと。

しかし男の子は、うつむいたまま首を横に振ります。
聞けば、一緒にいた父とはぐれてしまったそうでした。

「父さん、大事な話し合いですぐ港を発つって……」
再び泣き出しそうな声で、そう呟く男の子。

それを聞いて、少女は思いました。
彼の父が乗る船は、私が探しているそれかも知れない。
もしこの男の子が会合に参加する政治家の息子なら、
身なりの良さも説明が付きます。

少女はそう考えて、
親を探すのを手伝おう、と男の子に申し出ました。

男の子は目を輝かせ、お礼にと何かを差し出します。
それは少し汚れたおもちゃの人形でした。

その人形は、彼の母国のお伽話に出てくる、
凛々しくも優しい女性の英雄を模した物。

「あなたにそっくりだ」と、男の子は笑みをこぼします。
しかし少女は、その笑顔から目を背けました。

彼女が協力するのは優しさからではなく、
ただ、任務の遂行のためなのですから……

政治家達の会合が開かれる船を、早く見つけ出さねば。
その手掛かりを握る男の子の手を引き、
少女は足早に浜辺を歩いています。

すると、遠くに父の姿を見つけたのか、
男の子が突如駆け出しました。
「父さん」と声を上げて走る背を、少女も追いかけます。

自身を呼ぶ声に気付いた父親は、
飛び込んでくる息子を笑顔で抱きしめます。

「さぁ、早く船に。もうすぐ会合の……」

父親は少女に軽くお礼を言うと、
男の子と共に船へと向かいました。

彼らを見送る少女の顔に浮かぶ、微かな笑み。
その笑みは、一瞬にして冷静な表情に変わります。

会合の開かれる船は見付けた。
次にすべきは船に忍び込み、その情報を掴む事。

すぐさま船への潜入経路を考える少女。

気づくと、彼女の背後に女が擦り寄っていました。

その女は、少女と同じ国、同じ家筋の人間。
修業中である少女の任務を見届ける、監視役でした。
本来、接触してくる事はないはずです。

事情が変わった事が、少女にも分かりました。
女は、彼女だけに聞こえる声で囁きます。

「相手方に宣戦の意志がある。
 諜報は終わりだ。船に乗る者全てを殺すぞ」

血に濡れた甲板。
刃の先から滴る雫。
もはや動くことのない、屍の山。

少女と監視役は、船に乗り込むや否や、
瞬く間に船にいた人々を殺し尽くしました。

慣れた手つきで刀の血を払い、監視役の女は言います。
「これほどの死体に囲まれたのは初めてか?」

女に背を向けたまま、
少女はかぶりを振って答えました。

「……忘れました、そんな事」

流石は頭の娘か、と監視役は笑います。
少女は黙ったまま、刀を鞘へと納めました。

ふと海面に目をやると、
持っていたはずの人形が波間に揺れています。

少女は男の子の言葉を思い出し、
彼の言った通りだと、目を伏せました。

暗殺者の業に流されるだけの自分は、
確かにあの人形に似ていると……

――あれから幾歳。

船の到着を告げる鐘が、
女を追憶から現実へと引き戻しました。
今入港した船に、彼女の狙う標的が乗っているはずです。

女の母国を侵略せんと企む、異国の政治家達。
彼女の任は、その危険の芽を早くに摘む事でした。

標的の政治家を見逃さないよう、
女は下船してくる乗客たちを遠巻きから窺います。

船上がよほど暑かったのか、
下帯姿のまま下船する大柄な異国人も見えました。

その異国人に続いて船を降りてきたのは……
見つけました――標的の人物です。

侵略者の渡来を未然に防ぐ。
そのために、殺す。
これが、主君より賜った重任だから。

かつて船上を血に染めたのも、同じ理由でした。

だからこそ彼女は、思い出さずにいられないのです。
あの日命を奪った、男の子の言葉を。
自身が人形のようだという、振り払えない幻像を……

女は遥か水平線を一瞥し、
幽愁を帯びた表情を見せました。

「あの人形は、どこかへ流れ着いたのだろうか――」

女は一時の感傷を振り払うと、標的を追って歩き出します。
浜辺に残った足跡は、引き波に攫われていきました。

記録:蛮鼓の砦

揺れる灯火、艶めく指先。
ある屋敷の一角で、女が爪の手入れをしていました。

その爪同様、艶やかに飾り立てられた装い。
しかし女の瞳は、花魁の如きその風貌に反して、
冷たい刃のような輝きを放っています。

その女の背後、屏風の影から男が顔を見せます。
彼は女の爪紅を見て、せせら笑うように言いました。

「存外、様になっているじゃあないか。
 とても人斬り鬼の姿とは思えん」

女は男の言葉にも表情を変えず、
磨き上げた爪に、軽く息を吹きかけます。

彼女の正体は、ある大名に忠誠を誓う暗殺者でした。
その花魁姿は標的を欺くための変装。
男の方も、彼女を標的の元へ運ぶ協力者です。

主君と対立する敵軍の総大将。
好色家で知られるその標的を始末すること。
それが今宵の彼女達の任務でした。

僅かなやり取りで段取りを確認した二人。
夜闇の中、血塗られた計画が動き始めました……

花魁に扮した暗殺者と、仲介人に扮した男は、
敵軍の総大将を殺す為、出立しました。
花魁が遊郭の外に出るのも、総大将の命とあれば訳もありません。

城に着き、二人が守衛に案内された先は豪奢な扉の前。
随伴する男はそこで止められ、女だけが奥に通されました。

女へと向かう、武士達の好色な視線。
男は「うまくやれ」とだけ言い残し、その場を後にします。

奥の間に一人通された女。
総大将は彼女を見て、悪辣な笑みを浮かべました。

「待ちわびたぞ」

その途端、武士達が女を取り押さえます。
身体の自由を奪われながらも、
女は冷静に総大将を見上げました。

その顔を見て、総大将は堪え切れずに笑い出します。
「音に聞く鬼とやらも、縛り上げればただの女子よ」

満足そうに哄笑する総大将は語りました。
貴様らの計画は看破している、
あの男、金を見せたら簡単に寝返ったぞ、と。

買収による裏切り。
女は敵陣の中に一人、
四面楚歌の状況に陥ってしまいました。

敵軍の大将を暗殺する為、
花魁に扮して敵陣に潜入した、暗殺者の女。

しかし彼女は工作員の裏切りにより、
捕縛されてしまいました。

縛られた女に向けられるのは、
間抜けな暗殺者に対する嘲りの視線。
無力化された女に対する下卑た笑い。

「では、花魁らしく仕事でもして貰おうか」
総大将の男はそう告げて、
背後の武士達の方へ振り返りました。

総大将と武士達が、顔を見合わせて大笑いすると――

とん。と、軽い音が響き、
奥の間は瞬く間に静寂に包まれました。

総大将の額に突き立っていたのは、一本の簪。
武士達が気付くと、
女の手を縛っていたはずの縄が切れています。

崩れ落ちる総大将の身体。
混乱の中、刀を抜く武士達。

わざと縛られたのは、
抵抗の出来ない振りをして、居合わせる敵を減らす為。
そして、爪を念入りに磨いたのは、拘束の縄を断ち切る為。

女は何もかも分かっていたかのように、
準備を済ませていたのです。

女はゆらりと、その手を構えました。
磨き上げた真紅の爪を、まるで獣の様に構えて。

太鼓の音が鳴り、守衛たちが押し寄せた時、
そこに立っていたのは血に濡れた一人の女だけでした。

暗殺者の女を裏切った男は、
その見返りとして多額の金を得ていました。

総大将の居城から離れた場所。
男は銭を数えながら、 ほころんだ表情を見せます。

「うまくやれ」
居城から去る時に男が言い残した言葉……
あれは暗殺者の女に向けたものではなく、
武士達に向けたものでした。

女はきっと、自分への言葉だと勘違いしたことだろう。
そう考えると、得も言われぬ可笑しさが
込み上げてくるのでした。

男が稼いだ銭を懐に納めようと、手を上げた瞬間。
その掌に激痛が走りました。

右手を地面へと縫い付ける一振りの刀。
背後には、彼が売ったはずの女が立っています。

男の冷や汗が右手の傷へ流れ込み、悲鳴が上がりました。
そして弁明と命乞いが、続け様に吐き出されます。

「娘が病気なんだ」
「治療の為に金が必要だったんだ」
しかし、男の語る『理由』など、
女にとってはどうでもいいことでした。

女は眉一つさえ動かさずに告げます。
これは私怨じゃあない、と。

「標的の中にはアンタも入ってた、それだけさ。
 裏切りなんて、最初から知ってたよ」

刃を振り上げながら、
女は串刺しになった工作員の手を一瞥します。

傷口から流れた血が、その爪を赤く染め上げていました。
まるで紅を差したかのように。

「アンタは、様にならないね」

それが、
工作員が聞いた最後の言葉でした。

記録:言祝の庭

とある街に、一人の少女が暮らしていました。
少女の家は貧しく、生活は苦しかったものの、
それでも毎日懸命に生きています。

街から離れた遺跡で、一人で遊ぶ少女。

友達がいない彼女にとって、
この寂れた遺跡が、唯一の遊び場でした。

辛いことばかりの毎日。
ですが、今日の彼女はとても元気です。

それもそのはず……
今日は、少女の誕生日だったのです。

しかし、美味しい料理はありません。
プレゼントもありません。

少女の誕生日を祝ってくれる人など、
両親も含めて一人もいませんでした。

仕方なく、少女は自分で自分をお祝いします。

おめでとうと自分に言えば、
ふんわりと温かい気持ちになれました。

バレリーナのようにくるくると踊ったり、
ぴょんぴょんと跳ね回って遊ぶ少女。
彼女は思いつく限りの楽しいことを試しています。

これが少女にとっての、誕生日パーティーでした。

日々の辛さを忘れられるように。
今日という日が、特別なものになるように……

一人ぼっちの誕生日パーティーは、
まだまだ続きます。

今度の舞台は石のテーブルの上。
少女は土で何かを作り始めました。

少女が作ろうとしているのは、
食べきれないほどの大きさの、
とても立派な誕生日ケーキです。

小さな彼女に作れるでしょうか。

少女は、父親にも母親にも
誕生日を祝われたことがありません。
本物のケーキも、遠目で見たことがあるだけでした。

家にお金がないことは少女にもわかっていたので、
仕方がないと我慢していたのです。

本物のケーキって、
どんな味がするんだろう。
どんな匂いがするんだろう。
きっとおいしいんだろうな。

いつか家族みんなで食べてみたいな。

そんなことを夢見ながら、
少女はケーキ作りを続けます……

土のケーキを作り始めて、十数分。
少し歪ながら、なんとか完成させられました。

ですが、よく見ると何かが足りません。
大事な大事な、無くてはならないものが。

少女はすぐに気づきました。
そう、ロウソクが足りなかったのです。

少女は早速、代わりになりそうな木の枝を
探しに向かいました。

なるべくまっすぐなものを、
自分の年齢と同じ数だけ。

折ってみたり、削ってみたり。
ロウソクを作るのにも妥協しません。

ちゃんとしたロウソクがあってこそ、
立派なケーキになるのですから。

その時、ふと甘い匂いが漂ってきました。
どこかでお菓子でも焼いているのでしょうか。

いったい何の匂いだろう?
そう思いながら、木の枝を集め終えた少女は
ケーキを振り返ります。

すると、信じられない光景が広がっていました。
なんと土のケーキが、
本物のケーキに変わっていたのです。

少女ががんばって作った土のケーキは、
いつの間にか本物に変わっていました。

白いクリーム。
色とりどりのフルーツ。

夢のような出来事に、少女は喜びを隠せません。
そして歓喜の声は、そのまま歌に変わりました。

今日、一番幸せなバースデーソングが、
静かな遺跡に響き渡ります。

そんな少女の様子を、
遠くの木陰から見守る何かがいました。

人でもなく動物でもない、不思議な生き物。

その生き物は、一人で遊ぶ少女を見かねて、
つい『干渉』してしまったのです。
それがいけないことだと知りつつも。

「せめて……」

「せめて今くらいは……」

不思議な生き物が少女に向けた、暖かな願い。
少女の笑顔を見るに、それはきっと叶ったのでしょう……

「おめでとう。      
 ママからのプレゼントよ」

記録:欺瞞の街

瓦礫が転がり荒れ果てた街。
燻る黒煙があちこちから立ち昇っています。

それは、あるテロ組織と軍との戦闘の痕。

その戦いに勝利した軍の小隊を率いていた男は、
煙の中、隊員達に指示を出していました。

生存者の捜索、負傷者の手当、残党への警戒……
一通り指示を出した男は、自らも捜索に加わります。

程なくして、 廃墟の中で小さく震える
幼い姉妹を発見しました。

姉と思しき少女は怯えながらも、
妹を抱きしめたまま、男を睨みつけます。

男は少女達の警戒を解くために、
優しく微笑み、ポケットから飴玉を差し出しました。

しかし、よほど怖い目にあったのでしょう。
少女は妹を抱きしめたまま、
警戒を解こうとはしません。

しばらく膠着状態が続き、沈黙が場を支配します。

………………グゥ。

沈黙を破ったのは、少女のお腹の音でした。

男は思わず吹き出してしまいましたが、
すぐに「失礼」と、レディに非礼を詫びます。

少女は顔を赤らめながら、
「妹に食べるものを」と呟きました。
どんなことでもするから、と……

男は再び、優しく微笑みました。
駆け引きではない、心からの笑みでした。

「では、拠点の掃除を頼む」

少女は男のその言葉に頷き、
これで妹を守れると、喜びに顔を緩ませます。

幼いながらも守るべき者のために戦う少女。

同じく隊員達の命を守るべき立場にある男は、
その小さき同志に敬意を示すことを、
心に誓うのでした。

少女が隊の仮設拠点を掃除し始めてから、
数日が経ちました。

妹の為、一所懸命に掃除に励んでいます。

その姿は、隊員達の数少ない癒しとなり、
少女は、たちまち隊のアイドルとなりました。

隊員達は、少女とすれ違う度に
ガムやクッキーなどを与えようとします。

しかし、少女は
「お給料はもう、もらっているから」と
それを受取ろうとはしませんでした。

少女に掃除を命じた男は、
そんな少女と隊員達のやり取りを見て、
手にした飴玉をこっそりとポケットに戻します。

そして、「ご苦労様」とだけ声をかけ、
通信室に入っていきました。

男は部屋に入るなり、
部下から電報を受け取ります。

それは、軍の本部から送られてきた
テロ組織についての報告。

そこには、組織が購入した武器の記録、
次の襲撃の予想地点と日時などが
記載されていました。

男はその情報を基に、慎重に作戦を思案します。
自分が率いる小隊の被害を最小限に抑えるために。

そこに、新たな通信が入りました。
すぐさま部下が文字に起こします。

「敵ハ 子供ヲ スパイ ニ シテイル 注意サレタシ」

男は顔を上げ、部屋の外を掃除していた少女に
視線を向けます。

少女は男の視線に気が付くと、
小さく頭を下げました。

傍らにいた妹は男に向かって、
無邪気に手を振っています。

男はそれに応えながら、
たった今、頭に浮かんだ疑念を打ち消そうと
次の作戦の思案を再開させるのでした。

本部からの通信を受けたその夜。
男は自室で、次の作戦の詳細を記した
書類を作成していました。

目論みが上手くいけば、隊に被害を出さずに
テロ組織を壊滅に追い込むことができる。
男はそう確信し、ペンを走らせます。

男が書類を書き上げ、ペンを置いたとき、
部屋に少女が訪ねてきました。

男は咄嗟に書類を、机の引き出しに仕舞います。

そして、「ここには慣れたかい?」と
優しく少女に尋ねました。

少女は頷いて、感謝を述べます。
おかげで、妹の笑顔がまた見られたと。
おかげで、妹が安心して眠れると。

そして、伏し目がちに続けました。
「おじさんは、危ない所に行っちゃうの?」と。

男は微笑み、必ず帰ってくることを約束します。

少女は「絶対だよ」と不安そうに言った後、
おやすみなさいと、部屋を出ていきました。

翌朝。
拠点から少女の姿が消えていました。

男の机を漁った痕跡を残して……

妹を一人置き去りにして……

男達の小隊は、軽傷者こそ出したものの
死者を一人も出すことなく、
テロ組織との戦闘に勝利しました。

これにより組織は壊滅。
隊員達は皆、笑顔で勝利を喜びます。

暗い表情を浮かべているのは男と、
少女の妹の二人だけでした。

妹は今にも泣きそうな様子で、
「おねぇちゃんは、どこ?」と
男に尋ねます。

男は、「お姉ちゃんは……」と言葉を詰まらせ、
その最期の姿を思い返しました。

少女はテロ組織のスパイでした。

それはまだ幼い少女が、
妹を守るために選んだ道だったのです。

しかし、少女は失敗しました。
男の部屋から盗んだ情報が、偽物だったから。

それこそが、男が自分の隊の犠牲を
最小限に抑えるための目論みでした。

誤った情報を掴んだテロ組織に
奇襲を仕掛けることで、
隊は大きな被害を出さずに勝利したのです。

ただ一つ、少女がテロ組織の報復を
受けてしまったことは誤算でした。

いいえ。男は充分にその可能性を考慮したうえで、
この作戦を実行に移したのです。

隊の被害と、少女の命を、冷徹に天秤にかけて……

結局男は、少女の妹を前に
それ以上、言葉を紡ぐことはできませんでした。

拳を握る男の耳に、
自分が守りたかった者達の歓声と
少女が守りたかった者の泣き声が
遠く響きます。

男はそれ以来ずっと、
ポケットに飴玉を入れ続けています。

自分が犠牲にしたものの重さを 忘れぬために……

記録:祈望の室

その一家は、貴族達が定めた理不尽な新法により、
一夜にして社会的弱者へと転落しました。

真面目に勤め続けていたのに、突然職を失った父。
買い物に出ただけで、周囲から白い目で見られる母。
そして、学校にすら行けなくなってしまった娘。

新法の施行以来、父と母は毎日のように、
互いの苛立ちとやり場のない怒りを
ぶつけ合うようになっていました。

たいそうな剣幕で口論する両親に、
まだ幼さの残る娘は何も言えませんでした。

しかし、娘は心の中で訴えています。

本当は二人に仲良くしてほしい。
家族で笑い合った、あの頃のように。

「でも、私には何も……」

どうにもできない現実が、
娘の心をさらなる闇へと突き落とします。

その直後、娘はふと、
腰かけていた椅子から立ち上がりました。
何かを思い付いたようです。

「これ」ならきっと父と母は仲直りしてくれる。

そんな思いに胸を躍らせながら、
娘は自分の部屋に駆け込んでいきました。

父、母、娘。
どこにでもいそうな、ごく普通の家族。

その家族は、理不尽な法律によって、
貧困と差別を強制されるようになりました。

みずからの不遇を呪いながら、
互いの鬱憤をぶつけあう父と母。

それに心を傷めていた娘は、
仲直りの策を思い付きました。

自分の部屋に駆け込んだ娘は、
薄汚れた紙を広げると、鉛筆を手に取ります。

娘は真剣な眼差しで、紙に鉛筆を走らせました。

それからほどなくして、
ようやく浮かび上がってくる全体像……

お世辞にも上手いとは言えない絵でしたが、
それは手を繋いだ父と母の姿でした。

娘は精いっぱいの気持ちを込めて、
丁寧に絵を仕上げていきます。

まだ皆が笑って暮らしていた頃の、
大切な記憶を思い返しながら……

そして最後に描き込んだのは、
二人の優しい笑顔でした。

この絵のように、二人には仲直りしてほしい。
それだけが、 娘の願いなのです。

一生懸命に描いた、笑顔で手を繋ぐ父と母。

この絵を見せれば、
きっと二人は仲直りしてくれる。
きっとあの頃を思い出してくれる。

そんな期待を込めて、
テーブルでうつむいている母に、
娘は絵を差し出します。

しかし、父との喧嘩で苛立ちが収まらない母は、
無言で娘の絵を払いのけました。

そしてぼそりと呟きます。
「今は遊びに付き合う気分じゃない」と。

母は娘を見ることもなく、
再びテーブルに目を落とします。

娘は何もする事ができず、
その場に立ち尽くします。

それからほんの少しして、娘は気が付きました。
自分の目から、大粒の涙が溢れていることに。

誰に向ければいいか分からない悲しみが、
娘を追い立てます。

気付くと娘は、家の外へと駆け出していました。

娘の背後から微かに響く、父の怒声。
また母と揉めているのでしょう。

しかしその声は、もう娘には届きません。

母に冷たくされ、泣きながら家を駆け出した娘。

しばらく夜風に当たっているうちに、
揺れる心は少しだけ落ち着きを取り戻しました。

娘は、両親に余計な心配をかけたくないと、
重い心を引きずりながら帰路につきます。

「まだ喧嘩してるのかな……」

少女が不安げに窓から家の中を覗くと、
テーブルを挟んで父と母が向かい合っていました。

母が、父に何かを話しているようです。

理不尽な法律による、差別と貧困を免れない暮らし。
もともと苦しかった生活はさらに困窮し、
精神的にもう限界だと顔を覆う母。

父はそんな母を責めることもできず、
ただ黙って耳を傾けていました。

「本当は私だって……」

母は泣きながらそう言うと、
父を残して家の奥へと消えていきました。

父は母を追うでもなく、
一枚の紙を広げ、じっと見つめています。

よく見ると、それは母が拒絶した、娘の絵でした。

父は静かに席を立つと、
娘のつたない絵を棚にしまいます。

その棚は、父が大事な物をしまっている場所。
娘はそれを知っていました。

まだ結婚する前に、母と交わしていた手紙。
娘が初めてプレゼントしてくれた押し花。
家族で出かけた海で拾った、綺麗な貝殻……

自分だけではなかった。
本当は、父も母も、
家族みんなで笑って暮らすことを望んでいる。

泣きはらした目をこすり、娘は家の扉を開きます。

「ただいま」

少し元気になった娘の声が、家の中に響き渡りました。

記録:祈念の橋

生まれ育った王国から追われ、
各地を巡る、元王族の少年。

彼の傍らには常に、機械の従者がいました。

旅の途中、二人はとある村に立ち寄ります。

入り口に足を踏み入れた、そのとき。

少年と従者の男を、
村人が取り囲みました。

こんな村にも、王国からの追手が……

少年は緊張し、男はそっと銃に手をかけますが、
どうやら彼らは、少年の素性には気づいていません。

それではいったい何を恐れ、警戒しているのか。

少年が聞くと、彼ら「赤」の民は、
同じ村を二分する「緑」の民と、
長い間、対立しているとのこと。

いつから彼らは、対立していたのか。
なぜ、対立しなくてはならないのか。

彼らの中にも、
理由を知る者はいませんでした。

もはやこの対立は絶えぬ伝統であり、
彼らが受け継いできた慣習なのです。

少年が争いに巻き込まれることを恐れ、
村を去ろうと言う従者の男。

しかし少年は、その場を動こうとしませんでした。

「赤」の民は興奮状態で、
各々が武器を握りしめており、
すぐにでも「緑」の民を攻めるつもりです。

そこで少年は述べました。

「必ず戦いに勝てるようになるという、
 異国の儀式がある」

それは敗戦知らずの強国に伝わる、
世に秘された儀礼。

それを行えば、神が勝利をもたらしてくれる……

最初は「赤」の民も怪しみましたが、
少年の巧みな話しぶりと、真に迫った言葉が、
やがて彼らの心に届きました。

「その儀式はどうやって行えばよいのか」
「すぐにでも行おう」

民は息巻いています。

すると少年は、
儀式に必要な「緑の木々」が、
この周辺には見当たらないと告げました。

「緑の木々」は、
「緑」の民が過ごす地域でしか、
手に入らないのです。

仕方なく「赤」の民は、
身分を偽って「緑」の地域に向かい、
木々を買い求めることにしました。

ぶつくさと言い合いながら去っていく
「赤」の民を眺めながら、
少年と従者の男は顔を見合わせます。

男は気づきます。

少年の顔に密やかな、
笑みが浮かんでいることに。

それは男が今まで見たことのない、
少年の表情でした。

「赤」の民が帰ってきたことを確認した少年は、
「緑」の地域に出向き、
「緑」の民を集めて、
滔々と語りはじめました。

「必ず戦いに勝てるようになるという、
 異国の儀式がある」

儀式には「赤い布」が必要だが、
この周辺には見当たらない……

「緑」の民は怪しみましたが、
少年の真摯な語り口と、自信に満ちた話しぶりに、
やがて納得しました。

仕方なく「緑」の民は身分を偽り、
布を買い求めるため、
「赤」の地域へと向かいます。

ぶつくさ言い合いながら去っていく
「緑」の民を見送りながら、
従者の男が少年に尋ねます。

「このような儀式、王国では聞いたことがありません。
 どこでこの話を知ったのですか?」

少年は照れくさそうに頬をかき、
そっと笑いました。

そして男の耳に口を寄せ、囁きます。

「僕も聞いたことがないよ」

男には、くすぐるようなその声の意味が
わかりません。

きょとんとしている男の顔を見上げて、
少年はまた、楽しそうに笑いました。

少年と従者の男が村を訪れてから、その週末。

二つの民が住む村は、
華やかに飾り立てられていました。

赤い布と緑の木々が織りなす、豊潤な色彩。
見る者の心が躍る、優美なグラデーション。

少年と従者の男は、彩られた村を遠くから眺めます。

緑と赤が混ざり合うとき、
「本当の勝利」がもたらされる。
それこそ、少年が考える真の儀式でした。

「これが、目的だったんですね」
男が声をかけると、少年は無邪気に微笑んで答えます。

「やっぱり、この方が綺麗だから」

やがて「赤」の民と「緑」の民が、
口論をはじめました。

「我々の飾りのほうが、派手で美しい」
「いや、自分達の飾りのほうが麗しい」

争う声には怒気も含まれますが、
彼らは、武器を握っていません。
飾りを見上げ、さらに美しくする方法を議論しています。

その傍らを、笑顔のこども達が駆けていきました。

一緒に儀式を楽しむ、
「緑」の民と、「赤」の民のこども達……

少年は満足そうに微笑んでいますが、
誰も少年には、感謝しません。

「貴方は、それでいいのですか?」

従者の男が尋ねると、少年は儚げに小さく頷きます。

この村で起こせたことを、
王国でも起こせるかもしれません。
それが少年の、甘く困難な希望でした。

村に背を向け、歩き出す少年に
従者の男は、黙ってついていきます。

そして男は、村の未来に想いを馳せます。

村人がまた、武器を向け合わないとは言い切れません。

けれども、混ざり合う色を知った
こども達は、生きています。

こども達は、生きていきます。

記録:祝祭の泉

年越しの祭事で人々が浮かれている、とある街。

「希望の泉」の名で知られる美しい泉。
その風雅な景観を一人の女が、殺気だった目で見つめています。

彼女の整った相貌に、下劣な目を向ける男達。
しかし男達は彼女の装いを見て、
すぐに視線を逸らしました。

彼女の左手と左足が、鈍く光る戦闘用の義肢で、
武装されていたからです。

重そうな手足から発せられる、
血生臭い闘争の匂い。

それは、災禍の前兆。

実際に彼女は、災いを予期して街にやってきました。

懇意にしている情報屋から仕入れた、
憎き王国がこの街を狙っているという、
極秘の報。

年越しの祭りで人々の警戒心が薄れ、
油断している隙を見て、
一気呵成に征服する計画。

王国は主戦力である機械兵も
作戦に投入するらしく、
大規模な殺戮が予想されました。

王国の襲撃は、いつ始まってもおかしくありません。

人々の高揚感が高まるごとに、
彼女の警戒心は強まっていきます。

そこに突然、
見慣れない仮装に身を包んだこども達が現れ、
彼女を取り囲みました。

王国の先兵……だとは、さすがに思えません。

こども達は彼女の義肢を見ても怯えず、
朗らかな笑顔で近づいてきました。

こども達が身を包んでいるのは、
この辺りに伝わる、
妖精の扮装とのことでした。

戸惑う女に、こども達が話しかけます。

「今年、貴方のお願いは叶いましたか?」

彼女が答えあぐねていると、
こども達は何かを渡そうと、
小さな手を差し出しました。

透き通った小さなガラス玉の中、
月明りを帯びてきらめく泉の水。

それはこの街で作られた、
根付の形をしたお守りのようでした。

そういえば先ほども、こども達が大人に話しかけ、
何かを渡していた気がします。

こども達は「願いを叶える妖精」に扮して、
出会った相手に「希望のお守り」を渡すという、
伝統の祭事を行っていたのでした。

納得した彼女は、しかしこれから起こる出来事を思い、
眉をひそめます。

「私よりこれが必要な人達がいる。
 お守りは、その人に渡して」

差し出された手を遮り、
彼女は目を逸らしました。

彼女の願いは王国への復讐のみ。

全員を助けようと軽々しく願うことは、
彼女にはできませんでした。

こども達は悲壮な彼女の表情に戸惑いながらも、

「来年こそ、貴方の願いが叶いますように」

と、妖精の決まり文句を告げて、去っていきます。

その直後。

日付が替わり、新しい年を報せる、
花火が打ち上げられました。

祭りのクライマックスを飾る、満開の光。
仄かに照らされた、宵越しの街の外から。

重武装に身を包んだ軍勢が、
わらわらと姿を現しました。

ぱらぱら夜空に散る花火。
肉と骨を散らす火薬の灯。

こんこんと静かに湧き続ける希望の泉。
貫かれた大人達の口から吹き上がる血。

街の賑わいは、この世の地獄に変わり果てました。

「希望のお守り」を握りしめ、
ただ願うことしかできないこども達に、
重武装の機械兵が殴りかかります。

刹那。
ギィン ―― と、重い金属音が響きました。

そこにいたのは、兵士の拳を剣で受け止める義肢の女。

激昂しているのか、葛藤しているのか。
彼女はどちらとも取れない複雑な表情で、
兵士を突き飛ばし、斬り捨てます。

彼女はこども達を連れて、
近くの家に避難させようとしました。

彼女の技量をもってしても、
こども達全員をひとりで助けることは
困難に思われます。

「せめて、親がいてくれたら……」

彼女の前向きな思考は、
即座に運命から否定されました。

立ち寄ろうとした家の扉から、
血にまみれた機械兵が、
ぞろぞろと出てきたのです。

彼らは絶命したこども達の親を、その遺骸を、
まるで狩りの成果を自慢するかのように、
夜空へ掲げていました。

同時に打ち上がる花火が、
その光景を盛り上げます。

恐怖と絶望に、泣き叫ぶこども達。

機械兵は殺した男女とこどもの関係に気づき、
無造作に襲いかかってきました。

彼女は怒りに震えながらも、
こども達を連れて逃走を図ります。

ようやく街の外へ出て、
燃え盛る街を振り返り……

彼女は覚悟を決めました。

女は混乱するこども達を諭し、
物陰に隠します。

こども達は放心して俯き、
お守りに願うことすらも、
忘れてしまっていました。

彼女は、こども達に述べます。

「さっきのお守り、やっぱり一つ貰える?」

長年使っていなかった、優しい声音で。

かつて彼女が守ろうとした、
大切な存在に話しかけるときのように。

そっと、弱き者を労わる声で。

彼女はお守りを受け取ると、
剣を強く握りしめ、
再び街へと向かいます。

物陰から心配そうに彼女を見送りながら、
お守りを握りしめて、
願うことを思い出したこども達。

まだ小さな彼らから、祈りすら奪おうとする。

彼女にとって、王国は許すことができない存在。

しかし今は怒りではなく、
芽生えた希望に身を託し、
戦いの場へ赴きます。

そして数時間が立ち、夜空が白んできたころ。

こども達が張りつめ、疲れ切ったとき、
彼女は戻ってきました。

彼女の傷だらけの全身と、未だ荒い呼吸が、
凄絶な激戦を物語っています。

その手にぶら下げている無数の塊は、
機械兵達の首。

もう一方の義手にはボロボロになったお守りが
固く握りしめられていました。

彼女は怯えるこども達へ、厳しく強い語気で告げます。

「私の願いは叶った。お前達も、お守りに願っていい。
 強く生きろ」

――――見えないモノに、すがりながらでもいい。
希望を失わず、希望を生み出せる、大人に……

彼女は自分自身に言い聞かせるよう訥々と語り、
街に背を向け去っていきました。

こども達は、あふれ出る涙を止められません。
それでも、耐え難き悲しみを耐え、
お守りを固く握りしめます。

希望を、握りしめます。

記録:楽土の園

男は戦うことに疲れ、妻と共にさすらっていました。

罪人のように閉じ込められ、
『花』と戦い、殺し合う毎日。

繰り返される痛みに、
男と妻は疑念を抱いたのです。

男と妻は重い足取りで、
行く当てもない旅を続けます。

ある日男と妻は、同じ脱走兵の集団と出会いました。

彼らは自分達が『楽園』を目指していると言います。

この世のどこかにある『楽園』には、
『花』も根を伸ばしてくることがない。
『管理者』から、罪人のような扱いも受けない。

『楽園』とはそんな理想の生活が
約束されたシェルターなのだと、
彼らは言うのです。

「本当に『楽園』があるのなら……」

男と妻は、彼らと合流することにしました。

たとえ『楽園』の噂が、泡沫の夢だとしても。

このまま、さまよい続ける以外の
選択肢を望めるのならば……

男と妻は武器を握りしめ、
新たな仲間と共に、再び進みはじめます。

すべては二人が、平穏に暮らすため。

踏み出した一歩は、力強く弾んでいました。

男と妻は、『楽園』を目指す脱走兵達と共に、
厳しい道のりを旅していました。

男と妻は、『楽園」を目指す脱走兵達と共に、
厳しい道のりを旅していました。

男と妻は、仲間と協力して、
今日も襲い来る『花』に抗います。

今回の作戦は、ビルを倒壊させ、
『花』を一網打尽にする、というものでした。

発案したのは、男です。

男は身を挺して、『花』を引き付けます。
その隙をついて、仲間達は見事にビルを撃破。

『花』はすべて、ビルの下で押しつぶされました。

仲間達が、色めき立ちます。

男の作戦を、絶賛する声。
男の勇気を、賞賛する声。

希望にあふれた、歓声のハーモニー。

度重なる戦いの中で、男と仲間達の間には、
強い連帯感が生まれていました。

彼らと一緒ならば、
『楽園』へ辿り着くことも、
夢ではないのかもしれません。

今の戦いで傷を負った妻。
男は彼女を支えながら、再び歩きはじめます。

いつ次の『花』が現れるか、わかりません。

「こんな危険な、綱渡りの日々を
 早く終わらせなければ……」

妻と二人、幸せになるために、
男は進み続けます。

彼方の『楽園』を目指し、
男と妻、脱走兵達は、歩き続けていました。

ある日、男達はついに
『楽園』と目されるシェルターを発見しました。

お互いを笑顔で称えながら、
男達はシェルターの扉に向かい合います。

しかし、彼らが扉に近づいたとき、
けたたましいアラーム音が鳴り響きました。

さらにアナウンスが流れはじめます。

「当シェルターが現在、受け入れ可能な人数は
 二人までです」

どれほどの時間が経ったころでしょうか。

仲間の一人が、いきり立つように叫び声をあげ、
近くにいた仲間の心臓に、刃を突き立てました。

血しぶきを浴びて、
彼は高らかに宣言します。

「最初に『楽園』入りするのは、俺だ」

その言葉を皮切りに、
仲間は互いへ武器を向け、
殺し合いをはじめました。

闘争にたぎる声。

苦痛に身をよじる声。

それらがアラーム音と入り交じる、
絶望の不協和音。

男と妻も、武器を手に取りました。

二人で、生きるため。

二人だけでも、生き残るため……

非人道的な管理から、ただ逃れたかった……

そんな彼らの旅の終着点は、
逃げ場のない悲劇の同士討ちでした。

生き残ったのは男と妻。
妻をかばいながら仲間に手をかけた男は、
もはや満身創痍です。

男は妻に支えられ『楽園』の前に立ちます。

そのとき、再びアラートが鳴り響きました。

「当シェルターが現在、受け入れ可能な人数は
 二人までです」

男はすべてを察しました。

戸惑う妻に笑みを向けます。

「二人で幸せになってくれ」

そう言って男は、一切の後悔を抱くことなく、
希望に満たされた自分を……

自分の胸を、剣でひと息に貫きました。

妻に止める時間すら与えず、
最後まで笑顔のまま……

妻は喪失の悲しみと
男が託した望みの重さに、
心を軋ませながら決意します。

妻は『楽園』の扉に向かい合いました。

アラートは鳴りません。

沈黙の中、男の最後の言葉が妻の脳裏で繰り返されます。
その言葉は、妻が立ち止まることを許しません。

ついに扉が開きました。

扉の奥へと妻は進みます。

自分のお腹を、慈しむように撫でながら。

すべては二人の平穏のため。

自分に宿った、男と自分にとって
何より大切な命のため……

二人で、歩んでいきます。

記録:賛命の拠

敵国との最前線を担う、軍の基地。
その片隅に、少年が一人。

陰鬱な瞳は近づきがたいほど鋭く、
両親を殺した仇を買いてやると言わんばかりに、
剣の手入れに没頭していました。

そんな時です。
企みを秘めたような、
にやけた兵士がやってきました。

「隊長がお呼びだぜ」

思わず、少年は顔をしかめました。
処罰を受けるような覚えはなく、
かといって、称賛されるような覚えもありません。

しかし、薄笑いを浮かべた兵士の態度に、
惑う自分には苛立ちを覚えます。

少年は覚悟を決めました。
ひとまず、ついていくことにしたのです。

その先には、幾人もの兵士が待っていました。
やはり私闘か、と身構えた次の瞬間

「一年間、よく生き残った!」

わあと上がる歓声。
ぽかんとする少年をよそに、
兵士達は肩を抱き合い、喜んでいます。

乾杯の合唱に囲まれて、ようやく彼は気づきました。
これが隊を労う宴であると。

酒宴に興じる仲間達は、陽気な声を上げています。

「俺はこの一年、全ての戦場で手柄を上げた!」
「いやいや、俺は敵の隊長を獲ったぞ!」

功績を自慢しあう姿は能天気で、
少年は思わず舌打ちをしてしまいます。

その眼前に、飲み物の入ったコップが差し出されました。

「楽しんでいるかい?」
穏やかに声を掛けたのは、軍の隊長でした。

戦場に出ても、すぐに退却指示を出し、
陰で「臆病者」と笑われている青年のことを、
彼もまた、無能と侮っていました。

「この一年、君はどうだった?」
世間話に過ぎない言葉でしたが、
少年の心は鉛のように重くなりました。

一年かけて探したにもかかわらず、
仇の情報は得られなかったのですから。

不甲斐なさが胸を突き、
少年は思わずコップを投げ捨てました。

砕けた硝子の音が会場に響き、
辺りは静まり返ります。

床にじわりと広がる赤い液体。
それはまるで、両親から流れ溢れた鮮血のよう。

目を逸らした少年は、
隊長の静止も聞かずに走り去りました。

誰の目にも留まらぬ場所へ。
ようやく足を止めた少年は、
情けなくて、悔しくて、怒りに身を震わせました。

一年もあったのに、何をしていたのだろう。
無力感に苛まれた彼は、ただただ毒づきます。

少年を案じた隊長が現れます。
その気配を少年は鋭く睨みました。

荒い息を押し殺し、隊長に告げます。
次の戦闘に参加させろ、と。

真意を読み取ろうとする隊長の瞳は、
やはり「臆病者」らしく揺れています。
要求は受け入れられるはずでした。

「駄目だ」
けれど、彼はきっぱり首を振ったのです。
「未熟な兵を出すことはできない」

少年は怪訝に眉をひそめます。
隊長は挑発するように、なおも言葉を重ねました。

「思い悩むことに振り回されるな」
「そんな調子では、いつか失敗するぞ」

言葉が楔のように、少年の心を穿ちます。
絶叫のような罵声と共に、彼は殴りかかりました。

それを隊長は、全て承知したかのように
哀れみのこもった目で見据えたのです。

一心不乱に隊長を殴りつける少年。
しかし、その拳が彼に触れることはありません。

冷静に動きを見極め、紙一重で避ける動作は、
彼が有能な兵士であることを物語っていました。

無様に空を切り続ける腕は、
情けなく力を失っていき―――

隊長の胸を叩いて滑り落ちました。
うなだれた少年の表情は、誰にもわかりません。

だからこそ、隊長は訴えます。

「叶えたいことがあるのなら、
 この一年、戦場を生きたことを誇れ」
「生きている限り、お前は進んでいるんだ」

彼は認めていたのです。
この一年を……少年自身が否定した道のりを。

わずかな沈黙の後、無言で踵を返した少年に
隊長は声を投じました。

「来年も祝うからな!」

少年は、振り返ることなく呟きました。
勝手にしろ、と。

けれど、その怒りはわずかに軽くなっていました。

泥のように澱んだ心が、少しだけ晴れたような……
自身の変化に、少年は戸惑いました。

己の怒りが消えてしまう事に、怯えるかのように。

記録:窮荒の城

王国から追われる身となった元王族の少年と、
彼のことを守ると誓った機械の従者がいました。

二人はこれまで、
幾度となく危険な目に遭ってきましたが、
今日もまた窮地に追い込まれています。

今、彼らが立て籠もっているのは、
かつて栄華を誇りながらも、
滅びてしまった国の城跡。

城に忍び込んできた追手の機械兵と、
戦いを繰り広げていました。

追手は一人でしたが、
従者の男は手を焼いていました。

その機械兵は王国が生み出した、
最新型の量産機だったのです。

何度も少年の窮地を救ってきた
従者の男ですが、
普段の戦いですら、首の皮一枚で繋がる、
ギリギリの勝利でした。

最新の兵装で迫る機械兵に、
一分の隙も見せられません。

従者の男は、
巧みに身を隠しながら、
息を殺している王子に目配せします。

――――勝機は、一瞬。

敵の機械兵が背中を見せた刹那、
従者の男は一息に飛び出します。

敵が気づいたときには、
その眼前に銃口が迫っていました。

しじまの城内に響く、
乾いた銃声。

従者の男の、辛勝でした。

安堵した少年のもとに、
向かおうとしたそのとき。

男は物々しい気配に気づきます。

窓の外を見ると、
機械兵の軍勢が城へ、
向かってきていました……

従者の男と少年は、
廃城の裏門に隠れ、
作戦を話し合います。

従者の男は少年が狙われぬよう、
単独で敵を引き留めて、
少年を逃がすと提案しました。

しかし少年は、反論します。

「自分だけが、
 逃げるわけにはいかない」

「二人で一緒に戦おう」

勇気を出して、進言する少年。

しかし従者の男は、
首を縦には振りません。

「これまでとは、次元の違う相手です」

少年をかばいながらでは、
到底この戦いは勝てない。

従者の男は冷静に、
状況を理解していました。

頑なで動じない男の態度に、
少年も渋々ながら納得。

旅の荷物が詰め込まれた鞄を受け取り、
少年は裏門から、
脱出することにしました。

「次の街で待っているよ。
 一緒に旅を続けよう」

少年は笑顔を浮かべて、去っていきます。

――――生き残らなければ。

従者の男は力強く、
足を踏み出しました。

少年の大儀を成すためには、
命を賭け続ける覚悟が必要です。

守るためにも、生きなければ……
男は、戦いに赴きます。

城内は、硝煙弾雨に満ちました。

敵の機械兵達は、
数と力で制圧をするつもりのようです。

圧倒的な数。
猛然たる力。

ひたすら前へと進み、
標的を破壊するのみ。

乱舞する銃弾が次々と、
従者の男を襲います。

絶え間ない戦いの最中で、
男は深い傷を負いました。

旅の中で学んだ、あらゆる戦いの作法。
死中に活を求めて見出した、様々な技。

従者の男は死力を尽くし、
機械の命を燃やします。

やがて銃声が減り、
男の耳に届くのは、
自分が放った銃声のみとなりました。

視界には、機能を停止した機械兵の山。
男は満身創痍で立っているのもやっと。

――――故に、一拍。

反応が遅れました。

壁の影から飛び出した、
生き残った機械兵による奇襲。

銃口は真っ直ぐに、
男の眉間を向いています。

それを理解していても、
男は一歩も動けません。

深刻なダメージが、
男の思考と動作の連携を、
切断します。

「王子、私はここまでのようです」

未来を諦める男。

その耳に諦念を吹き飛ばす、
一発の銃声が届きました。

銃弾は心臓部を、
正確に撃ち抜きました。

――――奇襲を仕掛けてきた、機械兵の心臓部を。

撃たれたのは、敵。

撃ったのは……

従者の男の背後に潜んでいた、
彼が仕える少年でした。

少年に預けた鞄には、
男の銃のスペアが入っていたのです。

驚きと安堵が入り交じり、
混乱の中で限界を超えた男。

もう立っていられません。

そんな男を、少年が支えました。

「いつも支えられているから。
 たまには僕が支えるよ」

優しく儚い、少年の囁き。

どうして戻ってきたのか?

いつもならそう言うであろう言葉が、
男の喉から出てきません。

少年の行動は、
従者の男にとって計算外でした。

しかし銃声を聞いた瞬間、
男はそれを放ったのが少年であると、
理性ではなく心で理解できたのです。

守ると決めた少年の力と判断を、
無意識に信じ、頼っていた。

男は、自覚しました。

そして男は、考えます。

数でも機能でも自分に勝っていた、
機械兵達を撃破できたのは何故か。

最新の機械兵を相手にして、
どうして自分は勝てたのか。

いつまで考えても答えは出ません。

――――自分と少年の絆は、
戦場の計算を超えている。
守るべきは、今ここにある絆なのだろうか――

「しばらく休んでいこう」

細い手足を震わせながら、
男を支え続けている少年。

永遠のものとも思えるその笑顔を、
間近に見つめて……
男は暫し、少年の肩に身を委ねます。

記録:愛執の藪

宵闇と切り結ぶ、冷たい白刃。

男の短刀が、一瞬で標的を切り捨てます。
相手は絶命の言葉を放つ余裕もありません。

男はとある国に雇われた、名も無き傭兵。

その任務は、
天賦の才を誇る一人の暗殺者に付き、
要人を仕留める際の露払いを行うことでした。

男が納刀するより早く、
風を切る音が背後から聞こえます。

呆然と倒れゆく、もう一人の標的。
それを見下ろす、麗しき暗殺者の女。
その瞳は川底の黒曜石のように硬く、
そして冷たく光っていました。

彼女こそ、男が補佐を務める一流の暗殺者。
男と暗殺者の女は、はじめて組んでから
これまでのわずかな期間で、
多くの成果を挙げていました。

「お前には、才覚があるようだね」

女が刃の血を拭いながら、男に述べます。
よほどでなければ人を誉めない女も、
男の剣筋には感じ入るものがあったようです。

―― 女と肩を並べあえる、自負。
男は物言わず、陶酔していました。

そう。男は心を奪われていたのです。
暗殺者の家に生まれた、恋を知らない彼女に。

家を残すためには、
いずれ彼女も、夫を持たなければいけません。

しかし、在野の名も無き傭兵に過ぎない自分と
彼女の婚姻を、決して女の家は認めないでしょう。

そして何より女が、
色恋沙汰に興味があるとは思えませんでした。

だからこそ。
だから故に。

女の相貌には抜き身の刃のような、
浮世離れした美が宿るのでしょう。

―― 今の自分如きが、触れていい相手ではない。

男は今にも溢れそうな想いを胸に秘め、
任務をまっとうし、
女の前から去ったのでした。

傭兵の男と暗殺者の女がこなした
最後の仕事から、
数年の月日が過ぎました。

あの日、想いを告げずに去った男。
しかし、年月を経れば経るほど、
女への想いはより強く、募っていきます。

それは今や、妄執と言ってもよいものでした。

他の価値を忘れ、
執念に突き動かされ、
挙げ続けた渡世の成果。

やがて男は大成し、
自分の屋敷を持てるまでになりました。

そして明くる日。
ついに再会の日が訪れます。

男はすぐに相手が、
暗殺者の女だとわかりました。

彼誰時。

道の遠くにいる女は、
髪色を変え、濃い化粧を施し、変装していました。

一見で彼女だと見抜くのは、
至難であるはずなのに。

見間違うはずが、
ありません。

あれだけ焦がれた、
女の冷たく硬い、
凛とした石の瞳だけは。

男の傍らを通る、暗殺者の女。

その身から発せられる剣気は、
あまりにも鋭く、洗練されていました。

男ほどの手練れでなければ、
一息で殺されていたかもしれません。
男は女と同等の殺気で、女の剣気に抗います。

静かにぶつかり合い、震える空気。
男が懐の短刀に手を伸ばします。
しかし女は剣気を抑え、通り過ぎていきました。

男は彼女の背中を見送りながら、
湧き上がる歓喜に身をよじります。
この日を、男は待っていました。

死にものぐるいで働き、
名も無き傭兵だった己の名を馳せ、
屋敷を持つまでの力を欲したのは……

すべて、彼女の標的となるためでした。

暗殺者の女と、再会した日の夜。

傭兵の男は朧月灯る竹林で、
女を待っていました。

生い茂る竹は、女の長い得物相手には有利。
傭兵生活で会得した、無数の罠も用意しました。

男の狙いが読めぬ女では、ないはずです。

それでも女は承知の上で、
堂々と男の前に現れました。

月下に佇む女の肢体の、
なんと、妖艶なことか。

生唾を飲み込み、見惚れながらも、
男は使い慣れた短刀を構えます。

年月を経て女の色気は、
さらに増していました。

しかし男が女の心を、
我が物にすることは不可能です。

いや、我が物にしてしまえば、
抜き身の刃のような女の美は、
儚く消えることでしょう。

男が願い移せる行動は、
ただひとつ。

自分を殺しに来た彼女を、
自分の手で、確実に殺めること。

鬱蒼と茂る竹に囲まれながらも、
わずかな隙間を当意即妙に移ろう女。

その姿は悪鬼羅刹の如き畏怖に満ちながら、
常世で舞う女神のように、たおやかでした。

―――この女を、自分が仕留める。

その姿を己の意識にのみ残し、
誰にも語らず、封じてしまう。

そうすれば未来永劫、この国が滅びようとも、
他の男に女の目が向くことはありません。

衝動の赴くまま、振り下ろされる短刀。
女の長刀がそれを受け止めました。

間髪入れず二の太刀を放つ女。
男は腕を掠られながらも受け止め、
渾身の斬撃を返します。

男の心臓に響く、甘ったるい業の振動。
十万億土に随一の、快楽でした。

男は短刀を振るう度、
彼女の体が、自分のものになっていく気がしました。

痛ましい傷口の紅が、
流れ出る血液の紅が、
朧月の灯りを浴びて、光り輝いて見えます。

血を流し過ぎたのか、
虚ろな目つきでよろめく女。

――今が、快楽の頂。

とどめを刺そうと構えた男は、
気づいてしまいました。

卓越し、磨き抜いた己の才気故に。
女への、濃すぎて純粋な妄執故に。

あまりにも、簡単に行き過ぎていることを。
己が、幻覚を見せられていたことを……

心に喝を入れ、幻覚を打ち消し、
正気を取り戻す男。

女の長刀が自分の腕を掠ったとき、
すでに男は、刀身に塗られた毒液に
侵されていたのでしょう。

男は朦朧とする意識の中、掠れた目で、
暗殺者の女を見据えようとします。

しかし、あやふやな月影を見るように、
その姿は判然としません。
女がどんな目で自分を見ているのか、
もう男には、わかりませんでした。

――それでも。

「お前を殺していいのは、俺だけだ」

男は命を燃やし、短刀を振りかざします。

「幻のままの方が、楽だったろうに……」

絶命した男を見下ろし、女は不憫そうに呟きます。

年月を経て、更に冴え渡る男の剣筋。
それを知ったからこそ女は、
男の命までは取るまいと考えました。

女の任務はあくまでも、
力をつけすぎた男を無力化すること。

しかし男の才と女の未熟さは結局、
男の将来を奪ってしまいました。

「……その剣筋、覚えておくよ」

嘆息し、竹林を後にする女。

男の亡骸はうら淋しく、曇りゆく空を見上げます。

その顔は何故か望月の如く、
満足そうに笑んでいました。

記録:楽園の蹟

遠い遠い、遥か過去の時代。
その星は『人』の楽園でした。

翳りを知らず。喪失を知らず。理不尽を知らず。

『人』は、永遠にも似た寿命を持ち、
穏やかに生きていたのです。

彼らは、魔法で万物を創り出しました。

たとえば『決して朽ちない石』。
積み上げて、頑丈な塔にしました。

そこに『輝く水晶』を嵌めれば、
夜の闇だって、淡く柔らかに微笑みます。

そんな素敵な街で、『人』は心ゆくまで語り合い、
笑い合い、認め合い、愛し合っていたのです。

街路に、ひとりの男が佇んでいました。

身に纏う黒いローブは、ほかの『人』とお揃いです。
唯一、顔を覆う仮面だけが、
色も形も、まわりと違っていました。

それは『人』を導く者の証。
男は、偉大な魔道士でした。

「やあ、相変わらずキミは早いね」

男のもとに、待ち人が現れます。
気心の知れた旧友です。

じき、もうひとりの友人もやってきて、
三人で夜を賑わすことになるでしょう。

幾千回、幾万回と、繰り返してきたように。

遠い遠い、遥か過去の時代。

そこは彼の楽園でした。

楽園の崩壊は、あまりに唐突でした。

星を呑み込む災厄。

それは、あらゆる命の存在を拒むかのように、
災いの流星を降らせました。

大地は崩れ、水は血となり、文明は燃え尽きます。

偉大な魔道士である男と、種々の知恵者たちは、
星を律する神を創ることにしました。

『人』の半数を贄として。

生み出された黒き神は、災厄を鎮めてみせました。

災いが過ぎたあと、
すっかり荒れ果てた星を見て、男たちは言います。

「もとに戻そう」
「楽園へ帰るのだ」

彼らは再び贄を捧げ、神に再生を願いました。

一方で、男たちの行いに異を唱える者もいました。

「先に進もう」
「過去を過去とし、新たな未来へ」

彼らは白き神を創り出し、
男たちの黒き神に戦いを仕掛けました。

二柱の神は、昼も夜もなく戦い続けます。

やがて勝利したのは、
未来を求めた白き神でした。

その渾身の一撃が、
黒き神を、星ごと切り裂きます。

こうして世界は、十四の欠片に分かたれてしまったのです。

対立する白き神の、渾身の一撃。

魔道士の男は、居合わせた仲間と力を合わせ、
かろうじて耐え抜きました。

次に彼が見たもの……

それは、星とともに分かたれ、
もとの形を失った生命たちでした。

「ウー……アァ……アー……」

人の『なりそこない』たちが呻きます。

彼らの声は、意味のある言葉になりません。
言語を扱う文化も、知性も、失っていたのです。

こんな結末は認められない。

男たちは、再び星をひとつにまとめ、
楽園を取り戻そうと動き出しました。

十年、百年、千年……

彼らが活動を続ける間に、『なりそこない』たちは、
めいめい文化を築きはじめました。

新たな言葉でしゃべりだし、
新たな神を祀りだし、
新たな歴史を歩みだしたのです。

男にとって、それはおぞましいことでした。

『なりそこない』は弱くて脆い。
魔法だって、さほど上手くは扱えません。

『なりそこない』は愚昧で狭量。
くだらないことでいがみ合い、絶えず争っています。

『なりそこない』の命は短い。
簡単なことで、あっという間に、死んでいくのです。

そんなものが、『人』に取って代わろうとしている。

男にとって、それはおぞましいことでした。

どうあっても。
いつになっても。

おぞましくて哀しいことでした。

星のすべてが分かたれた日から、
長い長い年月が経ちました。

男は今も、生きています。

楽園を取り戻すため、戦い続けています。

ときには『なりそこない』に紛れ、
別の名を得て、仮初の人生を演じました。

同じように、今日もまた。
誰かの名と身体を借りて、男は世界を見下ろしています。

くたびれたように丸まった背中。
疲れきった顔に似合いの、深いため息をひとつ。

視線の先には、「なりそこない』の一団がいました。

魂さえも視抜く男の眼は、
その中に、懐かしい色を見つけます。

楽園の名残……
あのころの友人と、同じ色の魂でした。

けれども、もはや何かを期待することも、
寂しさを覚えることもありません。

そんなことは、とっくにやり尽くしていたのです。

だから彼は、眼前の事実を、粛々と計画に組み込みます。

なおも捨てきれない願いを、
微かな余地として残しながら。

昔日の楽園を求めた男は、
星と命の物語を、静かに歩き続けます。

記録:原罪の扉

荒野に幾つも打ち捨てられた、骸、骸、骸。
そのどれもが、不気味な怪物の姿をしています。

佇むのは、中央の黒き怪物だけ。
彼は、自分と似た姿の骸達には目もくれず、
望むものを引きずり出しました。

貪るのは、『夢』。
怪物達にとって、極上の存在です。

一息にそれを食らった彼は、苛立ちのままに呻きます。
「これっぽっちか……!」

怒りに任せて投げ捨てた器は、
耳障りな音を立てて砕けます。

荒野に反響する音は、まるで彼を急かすように
わんわんと鳴り止みません。

「こんな『夢』をいくら食ったところで……!」
その呻きを聞きつけたのでしょうか、
岩の陰から忍び寄る声がありました。

闇から覗く、二つの目。

「よろしければ、お聞かせください。
 お力になれるかもしれません」

「さあさあ、これまでのお話を!」

輝いているにもかかわらず、
その眼光に生気は感じられません。

黒き怪物は怪しみましたが、飢えが彼を急き立てます。
背に腹は代えられませんでした。

「さあさあ!」

黒き怪物は、二つの目ににじり寄っていきました…….

目指すものも、理由もなく生きていたあの頃。
黒き怪物は、他の怪物が持つ
まばゆい『夢』に魅せられました。

彼は渇望しました。
腹の底から湧き上がる衝動に抗えず、
同族である他の怪物を襲います。

抵抗する相手を捻じ伏せ、
奪った『夢』を食らい尽くしたその時……

がらんどうの心を、圧倒的な幸福が満たしました。
芳醇で濃厚、痺れるほどの充足感です。

奪った相手の欲望までも加味されたのでしょうか、
まさに美味なるものでした。

そして彼はふと、思ったのです。
「―――人間になりたい」
それは怪物という種族の、本能的な欲求でした。

だから、誰に聞かずとも、
たくさんの『夢』を食べれば、
その願いが叶うことを理解しました。

芽生えた欲望は、消えることがありません。

「もっと、もっと」
「食いたい…….!」

衝動に任せ、黒き怪物は突き進みます。
『夢』を持つ同族を探し、奪い、食らい尽くして。

誰彼かまわず襲いかかり、『夢』を奪い取る乱暴者。
そんな黒き怪物が、周囲から好かれるはずはありません。

「これ以上、奴に奪わせるな」
怪物達の世界にも、僅かですが秩序は存在します。

ある時、結束した同族達が徒党を組み、
黒き怪物を打ち倒そうとしました。

しかし、彼はその全てを返り討ちにし、
自分に歯向かう者達から、
ことごとく『夢』を奪います。

もうすぐ、人間になれるはずだ。
黒き怪物は、そう信じ込んでいました。

そんな彼の想いとは裏腹に、
奪った『夢』の味は、徐々に薄れていきます。

最初に覚えた、甘美な充足感。
それはもう、感じられなくなっていました。

いつしか、『夢』を食らえば食らうほど渇き、
飢餓感すら覚えるようになっていました。

「同胞の欲望が混ざった『夢」を食らい続けると、
こんなことになるというのか……」

黒き怪物は悟りました。
粗悪な『夢』をいくら食べたところで、
人間になどなれるはずがないと。

その答えに辿り着いてしまった彼は、
全ての望みを失ったのです……

「よろしければ、お聞かせください。
 お力になれるかもしれません」

「さあさあ、これまでのお話を!」

黒き怪物の語る過去を、
あろうことか、声の主は嘲笑しました。

「この世界ではダメですよ!
 ここで食えるのは、カスみたいな夢ばかり!」

彼は暗がりから声の主を引きずり出し、
怒りのままに握り潰そうとしました。

ところが、何の手ごたえもありません。

どれだけ力を込めても、相手は上機嫌に笑うだけでした。

「そんな貴方にふさわしい場所があるのです。
 『極上の夢』がよりどりみどり!」

そう言われたところで、誰が信じられるでしょうか。
けれど、彼に残された道は、他にありませんでした。

「怪しい素振りを見せれば、すぐに殺す」

『運送屋』と名乗る相手を警戒し、
彼は脅しつけました。

ですが、相手は気にしません。

どこからともなく大きな扉を取り出し、
優雅に手招きします。

真っ暗闇の向こうへ進む、黒き怪物。
その姿を見て、
運送屋はほくそ笑みました。

さあ、参りましょう。
貴方と私の望みが叶う『檻』の世界へ……

記録:翻弄の海

名だたる大海賊達が、
大海原を跋扈する、
大航海の時代。

とある海賊団の下級船員は、
クマのぬいぐるみを船旅のお守りとして、
大事に、大切に、
片時も手放しませんでした。

「ぬいぐるみを大事にするような軟弱者は、
 大海の荒波を乗り越えられない」

仲間や船長はそう言って、
彼を馬鹿にします。

しかし船員のもとには様々な、
そして奇跡的な幸運が、
常に舞い込みました。

船員は異例の速度で大昇進を果たし、
気が付けば大きな海賊団を率いる、
大船長にまで昇り詰めます。

大船長となった彼の周りには、
血気盛んな手下が集まり、
さらに船団は、大きくなります。

彼の人生は、
大いなる栄華に満ちていました。

それでもなお彼は、
ぬいぐるみを片時も手放しません。

その様が、あまりに異様に見えたのか。

やがて手下達の間で、
とある噂がまことしやかに、
囁かれるようになりました。

「あのぬいぐるみは持ち主を際限なく幸せにする、
 幸福のぬいぐるみだ」

おとぎ話のような噂が、
口から口へと伝わっていきます。

語られる度に尾ひれがついて、
大きく広がる噂。

いつしかぬいぐるみは、
伝説の大秘宝に違いないとまで
語られるようになりました。

元船員の大船長は
信じられないほどの快進撃を見せつけます。

多くの船を沈め、容赦なく宝を奪い、
いつしか海賊達の畏怖の対象となりました。

そんな彼が持つぬいぐるみの噂は、
他の船団にも広まったようです。

ある日ぬいぐるみを狙う海賊団が、
彼の船を襲いました。

敵は、誰もがその悪名を耳にしたことがある、
大所帯の巨大船団。

ぬいぐるみの所有権を巡る、
有史以来最も激しい伝説級の大海戦が、
ここに勃発しました。

美しい海の碧色を血の赤に染めた、
世紀の大海戦。

勝者は、襲撃した海賊団でした。

双方におびただしい数の犠牲者を出した争乱は、
たった一つのぬいぐるみを巡ってのもの……

その事実は陸に暮らす者達の、
耳目をも集めます。

歴史学者が、
錬金術師が、
果ては偉大な軍師まで。

あらゆる人々が、
ぬいぐるみの正体について憶測を立てました。

やれ、古代文明の遺物ではないか。

やれ、幸運の女神の落とし物ではないか。

やれ、魔術的な禁断の兵器ではないか……

やがて噂に目を付けた大戯曲家が、
噂を大長編の戯曲に仕立てました。

戯曲は大変な称賛を得て、
劇場は連日満員、大成功。

噂は老若男女も知る娯楽となり、
外伝まで作られるようになりました。

そして、最初はぬいぐるみを巡って
右往左往する者を笑っていた陸の人々も、
とある報せに、息を呑みました。

急速に領土を広げていた某国の王が、
ぬいぐるみを欲し、大規模な軍隊を、
海の向こうへと派遣したのです。

人々は王までもが噂を信じていることに驚き、
しかし王までもが欲する幸福を、
自分達も得たいと考えました。

一人、また一人。

ぬいぐるみを我が物にしようと
画策する人々が、
船で大海へと乗り出します。

その先に、どれだけ大量の血が
流れるとも知らず。

人々が海へ出るようになってすぐに、
ぬいぐるみを所持していた海賊団の船長が、
何者かの手によって暗殺されました。

次のぬいぐるみの所有者は、
立ち寄った港町で
ぬいぐるみを欲した人々に囲まれ、
衆目の前で木に吊るされました。

その夜、
港町は新たな海賊団の襲撃を受け、
その日の内に焼失しました……

ぬいぐるみは一つの場所に留まらず、
次々と所有者を変えていきます。

ある持ち主は、
このぬいぐるみには金銭的な価値はない、
と言い切りました。

それではやはり、
神秘の力があるのでは。
他の者は考えます。

またある持ち主は、
このぬいぐるみに財宝の隠し場所を示す、
からくりが仕込まれていると述べました。

誰かにとっての真実を帯びながら、
クマのぬいぐるみは、
死屍累々の悲劇を生み出し続けます。

この忌まわしい死の連鎖に、
結着をつけなければ。

某国の大提督は全戦力を投入し、
現在の所有者である海賊の船に、
攻め込むと決断しました。

彼らの戦力は互いに、
大国の要を守る、
大軍隊にも匹敵するほど。

先の海戦にも勝るとも劣らない規模の、
伝説をも塗り替える大大大戦乱が、
はじまろうとしていました。

某国の大提督は兵を率い、
海賊船へと乗り込みます。

その目に飛び込んできたのは、
血に塗れ息も絶え絶え、
虚ろな瞳の船長。

そして、その傍らに置かれた
クマのぬいぐるみの姿でした。

大提督がサーベルを突きつけても、
船長の虚ろな表情は変わりません。

―――誰も、信じやしない。
船長は、ひとり言を呟くように述べます。

このぬいぐるみには、本当に何もない。
財宝の位置を示しているわけでもない。

海の加護も、女神の加護も、
何者の守護も受けられない。

これを奪い所有したとしても運命は一つ。
ただ他の誰かに、死ぬまで狙われるだけ。

船長は愚直に大後悔を吐き出しますが、
大提督は当然、信じませんでした。

これほどまでに人を惹きつけ、
多くの命を奪ったこのぬいぐるみが、
ただのぬいぐるみであるわけがない。

しかし船長は、首を横に振ります。

「俺もそう思っていた。
 こいつを手に入れるまでは……」

それが船長の、最期の言葉でした。

ぬいぐるみを手に入れた大提督が、
某国の港に戻ってきます。

大提督は彼の帰還を心待ちにしていた国王に、
意気揚々とぬいぐるみを献上しました。

それからクマのぬいぐるみは、
国のあらゆる研究機関によって、
徹底的な調査を受けました。

ぬいぐるみが莫大な益をもたらすのは、何故か。

いかなる力があれば、
これだけの幸福が、
同じ人間に集中するのか。

研究に研究を重ねた結果、
ついに……

ついに、
このぬいぐるみには何の力もない、
ということが判明しました。

どう調べても、不思議なところはありません。
ただの、よくある素材で作られた、クマのぬいぐるみ。

何の成果も得られない、国を挙げた無駄骨です。

そのころ強大な隣国の軍隊が、
某国に進軍をはじめました。

ぬいぐるみの噂は、隣国にも伝わっていたのです。

国王は慌てて、調査結果を発表しました。
何の力もないただのぬいぐるみであることを、
全力で、大声で叫びます。

すべてはやはり、無駄骨でした。
誰もそんな発表を信じません。

何しろ当の国王もまた、
大量の軍隊を動かしてまで、
ぬいぐるみを欲したのですから。

さあ、再び凄惨な大戦乱がはじまります。
このぬいぐるみは本当に、
普通のぬいぐるみなのに。

本当に、何もありませんから。

どうか安心して、
大切にお持ちください。

記録:亡絆の壕

一筋の光も差さぬほど暗く、狭い部屋。

物憂げに沈黙する少年がひとり、
懲罰房に入れられていました。

もう幾度目になるでしょうか、
軍の規律違反を犯し、反省を促されたのです。

それでも彼は、自身の行いを改めようとは、
これっぽっちも思っていませんでした。

そんな時――

ふと、差し入れだよ、と朗らかな声が聞こえます。

温かな食事を携え、幼い笑顔で微笑むのは、
部隊を同じくする同僚でした。

彼は、とっつきにくい少年にも屈託なく話しかけてくれる、
数少ない人物です。

素直で明るく、軍の中でも可愛がられていたので、
監視付きの懲罰房でも入れてもらえたのでしょう。

無事でよかった、と彼は微笑みます。

こんな戦争は早く終わるといい。
いつか世界中を平和にしたいんだ。
そう語る優しい瞳は、きらきらと輝いています。

少年は、曖昧な相槌を打ちながら、聞き流しました。
実現するはずのない、綺麗事だと馬鹿にして。

懲罰房から出された少年の目に、
賑やかな宴の様子が飛び込んできました。

輪の中心には、あの同僚がいます。
「さすがはエリートの家系だ!」
「まさに英雄だな!」と、
杯を手にした仲間から、上機嫌に称賛されていました。

少年が敵地に飛び込んでいた間、
彼は命がけで、何人もの民間人を救っていたのです。

ふと、視線に気づいたのでしょうか。
同僚が立ち上がり、手を振りました。

少年も思わず振り返し、はっとします。
陽気なムードにあてられたせいに違いありません。

反射的に、顔がかっと熱くなりました。

歓談の輪を抜けて、同僚が近づいてきます。

向こうにはご馳走がある、君もおいでよと誘う彼を、
少年は睨みつけました。

人を助けて褒められる彼のことが、
なぜか腹立たしく思えたのです。

気づけば、少年は吐き捨てていました。
「他人のために戦って死ぬなんて、馬鹿馬鹿しい」

同僚は黙ってしまいました。

そうして、困ったように微笑んだのです。

降りしきる雨の中、敵兵に囲まれる少年。

彼はまたしても作戦を放棄し、
同僚を無視して、ひとり攻め込んだのです。

かき消される足跡や気配、開けぬ視界は
味方になってくれませんでした。

睨み合う両者。そこへ――

「もう大丈夫だ!」
あの同僚が駆けつけました。

少年の目に闘志が灯ります。
彼らは初めて背を預け合い、共に戦ったのです。

援軍に動揺する敵兵を蹴散らすのは容易く、
遂には退却の号令が響きます。

生き延びたと確信し、笑みを浮かべたその時……
彼の頬にぱっと赤い飛沫が散りました。

一発の銃弾が、同僚を撃ち抜いたのです。

雨と共に流れ、地面を染める鮮血。
薄い体は、瞬く間に冷えていきます。

「どうしてこんな馬鹿なことを」
寒さと恐怖に震えながら、彼は必死に呼びかけました。

すると同僚は安堵したように微笑み、唇を震わせます。
か細い声を聞き逃すまいと、
少年は真剣に耳を寄せました。

消えゆく命を繋ぎ止めようと、
頼りない手を握りしめながら。

作戦終了から、数日。
同僚は沢山の人達に見送られました。

すすり泣く声はあれど、
参列者の大半は彼を称えています。

「多くの民間人を救った」
「最期は立派に仲間を庇った」
「由緒ある家系に相応しい、英雄の働きだ」

しかし、少年は思い出していました。
冷たい雨の中、彼が震えながら囁いた言葉を。

「戦うのが恐かった」
「だけど、家の期待に応えなければならなかった」
それは、押し殺し続けていた本心の告白でした。

呆然とする少年に、彼は口止めを頼みます。
そして、唇から血を伝わせながら、
安堵したように逝ったのです。

「これで、英雄として帰れるんだ」

朗らかで優しく、屈託のない笑顔の同僚。
叶うはずのない理想を語る、
おめでたい人物だと思っていました。

けれど、彼もまた、家族というしがらみから抜け出せず、
運命を翻弄されたひとりだったのです。

目を閉じて静かに彼を悼み、
少年はいつまでも墓前に佇んでいました……

記録:幸福の家

霧立ち込める森の奥。
白い布を被った獣人が、
遺跡に眠る古びた鏡を覗き込んでいました。

浮かび上がる黒い影は、
魔法使いの街に住む、奇妙な一家のことを話します。

貧しくとも明るく、笑顔の絶えない家族たち。

「そんなのは、欺瞞だ」

黒い影は、吐き捨てるように命じます。
恐怖を与え、憎悪で満たし、
不幸のどん底に落として、本当の人間性を暴けと。

「それに触れることで、
 お前は『ニンゲン』になれるんだ」

甘美な響きに胸を焦がす獣人は、
すぐに街へと向かいました。

辿り着いた屋敷は古く、
あちこちがひび割れています。

崩れそうな壁に潜み、
割れた窓から様子を窺おうとした瞬間。

パチン!

炸裂音ときらびやかな閃光が、
獣人の目を眩ませました。

「誕生日、おめでとう!」

杖を振る男女と、はにかむ少女。
室内は虹色のきらめきに溢れて、
幸せな家族の姿を照らします。

けれど、獣人の心は暗く沈んでゆきました。
彼らを不幸にする方法を考えなければ、と……

一家を不幸に突き落とす。
そう決めた獣人は、
彼らを怖がらせてやることにしました。

かろうじて閉まる窓を壊したり、
収穫直前の野菜を盗んだり。

さすがの一家も頭を悩ませるはず……
そう思ったのに。

「窓を壊したのは子供かな。
 元気で何よりだ」

「野菜がなくなってるわ。
 誰かが飢えずに済んだのね」

のんきな一家を怖がらせるには、
まるで足りません。

次は、なけなしの食料を蓄えたキッチンを
めちゃくちゃにしてやろう。

企みを秘めつつ忍び込むと……

「お腹が空いてるの?」

ぎょっとして、獣人は凍りつきました。
すぐ近くに、くせっ毛の少女が立っていたのです。

獣人に怯えることなく、
彼女は粗末な皿を突き出しました。

「クッキー食べるでしょ?」

思わず首を振ると、
今度は両手を伸ばします。

「じゃあ、遊ぼうよ!」

強引とも言える無邪気さに、
獣人は困惑しました。

けれど、無垢な笑顔を見ていると
なぜか心が温かくなっていったのです。

ある日、喧騒に導かれた獣人を待っていたのは、
轟々と燃える一家の屋敷でした。

半狂乱になる夫婦を見て、ようやく不幸にできたと
ほくそ笑んだのも束の間——————

「助けて!!」

突如、少女の悲鳴が響きました。

なぜ、どうして。
戸惑いよりも先に、あのくせっ毛が脳裏に蘇ります。

気づけば獣人は、炎の中へ飛び込んでいました。

少女を抱えて戻った獣人は、
号泣する夫婦と―――

住民たちの悲鳴に迎えられました。

白い布が焼け落ちて、
醜くもおぞましい姿が覗いていたのです。

必死に布を手繰り寄せても、
既に手遅れでした。

「気持ち悪い……
 こいつが放火したに決まってる!」

皆の言葉が膿のように溜まり、
獣人の心を黒く染めていきます。

けれど。

「この子は娘を助けてくれたんだ!」

夫婦が声を上げました。
少女も立ち上がり、涙ながらに訴えます。

「私の不注意だったの!
 あなたにこれを作ってあげたくて……」

優しく甘い香りの漂う、小さな袋。

それを乱暴に奪うと、
獣人は逃げるように走り去りました。

腰抜け、意気地なし、うすのろま。
鏡の中から、黒い影が罵ります。

「『ニンゲン』になれなくてもいいのか!」

その言葉は、獣人の心を深くえぐりました。
けれど耳をふさいでいるうちに、
いつしか黒い影は姿を消していました。

気を落とした獣人は、
縋るように小さな袋を取り出します。

それは、少女から渡されたクッキーでした。

たとえいびつな形でも、獣人にとっては、
世界一美しい宝石そのもの。

おずおずと歯を立てると、
優しい甘さがほんのり広がって、
獣人は涙をこぼしました。

人間になりたい。
その思いに、嘘はありません。

けれど、望みと引き換えに、
あの一家のような優しい人々を
不幸にしなければならないなんて……

「ワタシ ガ ミニクイ セイデ」

その時、獣人の鼻先を、
甘い香りがくすぐりました。

失敗すれども、少女を救ったことに後悔はありません。
ほろ苦い焦げ目すら愛おしそうに、
獣人はクッキーを噛み締めます。

どうか今だけは、この幸福が許されますように……

記録:反逆の幻

「ひさしぶり」
「連絡するの、いつぶりかな?」
「私ね」
「自殺しようと思ってるんだ」
「渋谷で」
「苦しんでる、仲間のみんなと一緒に」

とある時代、渋谷と呼ばれる街。

ぎらぎらした太陽の光を、
コンクリートの地面が照り返す、
真夏のある日。

SNSはとある『サークル』の話題で、
持ちきりでした。

若者達が結成した『サークル』が、
集団自殺を計画し、
多くの人々を勧誘している……

街の象徴でもある大型ビジョンでは、
そのニュースが絶えず報道されています。

そんな渋谷の、
とある雑居ビルの屋上。

黒ずくめの男女が、
街の喧騒を見下ろしていました。

「ここは、渋谷?
 なのに私達の、この姿は……?」

黒ずくめの女性が神妙な顔で、
隣の男性に述べます。

「さっきまで、メメントスにいたはずよ……」

身を乗り出して、街の隅々を観察する女性。
そのとき、背後から突然声がしました。

「そこの人、早まらないで!」

男女が振り返ると、
そこには制服に身を包んだ
高校生の少女がいました。

少女は息を切らして心配そうに、
黒ずくめの二人を見つめています。

「死んじゃだめ……」

「どんなに辛いことがあっても、
 生きる理由は必ず見つかるから……」

「私と、少し話そうよ……?」

懸命に言葉を吐き出す少女。

飛び降りるにはうってつけのビルの屋上。

最初こそ怪訝そうに
少女を見ていた男女でしたが、
少女の誤解を察します。

女性は慎重に少女と距離を取りながら、
隣の男性に、こう告げます。

「彼女、敵ではなさそうね。
 どうする、リーダー?」

話を聞いてもらえそうだと、
安堵の表情を向ける少女。

リーダーと呼ばれた男性が、言葉を重ねます。

「話をしよう……だったな。
 ちょうどいい、訊きたいことがある」

高校生の少女と、怪しい男女。

屋上に廃棄された机と椅子を寄せ合い、
戸惑いながら始まる、会話。

少女は彼らの変わった姿を見て、
話題になっている『自殺サークル』の
参加者ではないかと、疑っていました。

先日、幼なじみの少女から来たチャットの連絡。
彼女が、『サークル』に入ったという報告。

少女の頭の中は、彼女を探し、
自殺を止めたい気持ちでいっぱいでした。

しかし男女は『サークル』を知らない様子。

目の前の男女は自殺志願者ではない。
少女はそれを知り、胸を撫で下ろします。

女性が仮面の奥の瞳で、男性に目配せをした後、
少女にこう尋ねました。

「約束通り、今度は私達の質問。
 ここは、渋谷なの……?」

屋上からは、街の象徴である大型ビジョンが見えます。
女性は何故、聞くまでもないことを聞くのでしょう。

質問の意図がわからず、
少女が悩んでいると。

スクランブル交差点のほうから、
大勢の悲鳴が聞こえました。

慌てて雑居ビルの屋上から街を見渡す、
少女と黒ずくめの男女。

異様な光景に、
少女達は絶句します。

他のビルの屋上から、
何人もの若者達が、
今にも飛び降りようとしていたのです。

少女はその中心に、
幼なじみの姿を見つけてしまいました。

彼女は先陣を切って、
まるで若者達を導くかのように、
ビルから身を投げ出そうとしています。

間に合わない。

――それでも、諦められない。

少女が中空に手を伸ばそうとすると、
世界に変化が訪れました。

空間が崩れ、壊れていく視界。

困惑する、高校生の少女。

自分の名前すら忘れそうになる、
強烈な混乱と立ちくらみ。

これは――

黒ずくめの男女が、警戒しています。
目の前の現象に
何か心当たりでもあるのでしょうか。

意味がわからないでいる少女の傍らで、
男女は顔を見つめ合い頷きます。

そして女性はこう告げました。

「何度も経験してきたからわかる。
 この感覚、パレスへ侵入する時に似ている……」

意識を取り戻し、自分の名前を思い出す、
高校生の少女。
傍らには、黒ずくめの男女もいました。

眼前に広がるのは、闇に包まれた世界。

天井、床、周囲の壁など四方八方が、
水槽で囲まれています。

高校生の少女は、
まるで水族館のようだと思いました。

水槽をよく見れば、
ビルから飛び降りようとしていた若者達が、
人魚の姿となって、優雅に泳いでいます。

「ここは……何……?」

少女は不安に怯えますが、
黒ずくめの女性はここと似た世界を
知っているようです。

「『知らない』渋谷から……この場所。
 状況を特定したい。何か情報が欲しいところね」

黒ずくめの男性は警戒しながら、
周囲の様子を冷徹に観察しています。

彼なりの推測があるように……

それぞれが困惑する中、
少女が思い続けたことは、ただひとつ。

――幼なじみはどうなったのか?

するとどこからか、幼なじみの泣き声が、
微かに聞こえてきました。

「……こっちに……こないで……」

何故かその声は、
少女にしか聞こえていないようです。
まるで彼女を拒むかのように。

さらに泳いでいた人魚達が、
水槽から飛び出してきます。

人魚達は憎らしげに少女を睨み、
ぶつぶつ言葉を吐き出します。

「今すぐ、ここから出ていけ」
「『主』の邪魔は、許さない」
「お前は、眩しすぎる」

何故か少女を、
疎ましく思っているらしい人魚達。

少女が身動きできずにいると、
人魚達は突然、
襲いかかってきました。

少女の喉から発せられる悲鳴――

瞬間、黒ずくめの男女が飛び出します。

少女が見たのは、武器を手にし、
人魚達に立ち向かう男女の姿でした。

流麗な剣捌き。
瞬発の銃捌き。

戦い慣れている様子の男女が、
人魚達の攻撃を難無くいなします。

あっと言う間に敵を倒し、
黒ずくめの女性が状況を推察します。

人魚達は少女を狙ってきた。
この空間の『主』は
少女のことを知っていると。

黒ずくめの男性が、少女に言います。

「俺達もこの世界に心当たりがある。
 取引しないか?」

取引……耳慣れない言葉に
困惑している少女。
さらに男性は言葉を重ねます。

「俺達は、元の世界に戻りたい。
 そのために、お前から情報を頂戴したい。
 何がしたい? 取引するなら応えてみせよう」

少女の頭に、ある考えがよぎります。

この男女と共に、幼なじみの声を追えば……

不可解なこの場所の真相を突き止め、
彼女の自殺を止めることができるかも―――

「私は……この奥に行きたい。
 力を貸して」

少女は、名前も知らない
黒ずくめの男女と
取引関係を結びます。

幼なじみの声を追って、
人魚達の妨害をかいくぐる高校生の少女と、
黒ずくめの男女。

空間の奥に鎮座していたのは、
巨大な二枚貝の上に置かれた、
真珠のような球体。

その傍らには一際目を引く人魚が、
悲しげな涙を浮かべて佇んでいました。

人魚に姿が変わったとしても、
少女には分かります。

それが、幼なじみの彼女であると。
彼女はまだ、生きていると。

少女は心を込めて、説得をはじめます。

「お願い、死なないで。
 思い留まって……」

―――私にも、辛い過去があった。

自分の過去を語る少女。

両親が離婚してからの、辛い貧困の日々。
病んでしまった父。

自分も現実に絶望し、
死を望んだけれど、
なんとか踏みとどまった――

少女は己の傷を晒してでも、
幼なじみを救おうとします。

しかし幼なじみは、
そんな少女の願いを否定しました。

ここは死を望む者が集う世界。
水槽で泳ぐ人魚達は、少女のように
絶望を乗り越えられなかった者達。

「心の強い貴方は、ここに相応しくない。
 なぜここへ来てしまったの……」

悲痛な声音で、嘆きます。

そして、幼なじみの姿が
膨張したかと思うと――

彼女は巨大な怪物の姿に、
変貌を遂げました。

黒ずくめの男女に、緊張が走ります。

怪物化した幼なじみに向かって、
崇めるように額づく人魚達。

それを見た黒ずくめの女性が、言います。

「その子が、この空間の主みたいね」

ここが何なのか、少女はまだ飲み込めていませんが、
幼なじみが『サークル』のリーダーであることは、
事実のようです。

相対する侵入者達を眺めて、
彼女は何かに気付いたのか言葉を漏らします。

「まさか、貴方達は……
 私の宝物を奪いにきたの?」

その言葉を聞いた黒ずくめの男性が、言います。

「宝物……オタカラ。
 『主』に『オタカラ』……ということなら、
 やはり、この場所は……!」

幼なじみは『真珠」を守るように抱き締めると、
突如、周囲の水槽を破壊し始めました。

そして彼女は、溢れ出す水を遡り、
天井へと消えます。

空間を蹂躙する、
抗えない激流。

襲い来る波を前に、少女は身構えます。

こんなところで死にたくない……
幼なじみを助けないと。

大きく息を吸い込んだその時、
急に体が軽くなりました。

黒ずくめの男性が、
少女を抱えて移動しています。

―――水面をわずかに浮かぶ、瓦礫の上を。

迅速に、こちらからあちらへ。
軽快に、あちらからこちらへ。

舞踏のステップにも似た、
目にも止まらぬ早業です。

やがて少女達は、
黒ずくめの女性と一緒に、
安全な場所へと移りました。

自身が助かったことに安堵しながらも、
幼なじみを救えなかったと、
途方に暮れる少女。

ですが、黒ずくめの男女には、
何か考えがあるようです。

ここが『パレス』のような世界なら……

幼なじみが守っていた真珠を盗むことで、
彼女を『改心』させられるかもしれない、と。

「盗んで……改心……?」
彼らの言葉に、首を傾げる少女。

「そういえば、
 自己紹介がまだだったわね」

女性からの目配せに、
黒ずくめの男性は小さく頷き……
戸惑う少女にこう告げました。

「俺達は、心の怪盗団だ」

幼なじみを救うため……
元の世界へ戻るため……

不可思議な空間を進む、高校生の少女と心の怪盗団。


その先で彼らが辿り着いたのは……

記録:反逆の現

水没した空間から脱出した、
高校生の少女と怪盗団の男女。

少女達が見たのは、嵐が吹き荒れ、
天にも届く大波に飲まれる寸前の、
海上都市——————

滅び行く「アトランティス』を模したものでした。

「ここが私達の思う通り、パレスのような世界なら、
 主は現実を、こんな風に認知しているということ……」

怪盗団の女性が、神妙に述べます。

水族館のような静けさから一変し、
激しく荒れた空間。
ここが幼なじみの認知で形作られているのなら、
彼女はどれほど死を切望しているのでしょう。

そのとき、どこからか声が聞こえました。
見れば、都市の地上に大勢の人魚達がいます。

迫る大波に、抵抗する様子もなく……少女は直ちに避難するよう、
大声で、人魚達に告げます。

しかし人魚達は、
諦念に満ちた目で少女を睨んでいました。

「私達の苦しみを知らないで……」
「誰でもお前のようになれると思うな……」
「こんな世の中で、生きていて何になる……」

少女を咎め、自虐する無数の声。

人魚達はこの世界と共に心中し、
苦痛に満ちた生から、
逃げようとしているのです。

それでも、少女は避難を――
『生』を叫びました。

届かない嘆願に、
怪盗団の男女が寄り添います。

どれだけ叫んでも、行動しない人魚達。

変えられない絶望。
変えてやれない悲しみ。

その中心にあるのは、
幼なじみの諦念そのもの。

少女は仲の良かった幼なじみの苦悩に、
気づけていなかったのです。

それどころか、
彼女の心の一面――――

数多ある仮面の一部しか、
見ていませんでした。

「こんなに身近にいたのに。
 何も知らなかった」

沈痛な面持ちの少女を、
怪盗団の女性が心配そうに見つめます。

「私も、そう感じたことがある。
 お姉ちゃんの本心を、わかってあげられなかった」

女性は少女の肩に手を置き、
悲嘆にくれる彼女を立たせます……

海上都市の中でも、
最も高い塔の頂上で、
何かが輝いています。

見上げる高校生の少女と、
怪盗団の男女。

虚ろな瞳の少女はまだ、
立ち直ることができていないようです。

親友として、
幼なじみに寄り添ってあげられなかった、
自分の至らなさ。

そんな自分が、彼女を救えるのか。
それどころか、救ってもいいのか。

想いは揺らぎ、重しとなって、
彼女は歩みを止めてしまいました。

少女は、怪盗団が示してくれた、
幼なじみを救う手立てを思い出します。

――――波が都市を飲む前に、
『真珠』を盗むことができれば。

幼なじみを心変わり――改心させ、
自殺を思い留まらせることができれば。

彼女は救われ、
この世界からも脱出できるかもしれない。

男女の心は、もう決まっているようです。

ですが、改心のために行動するには、
全員の意向を合わせる全会一致が必要。
それが怪盗団の美学だと言います。

少女は迷いを拭えませんでした。

人が人の心を変えて、本当にいいのだろうか。
――――私は、正しいのか。

少女の迷いを察したかのように、
怪盗団の男性は
こう、告げます。

「自分が正しいと思うことをすればいい」

彼の目を見据えて、少女は頷きました。
「私は……あの子を失いたくない」

彼女の言葉を聞き入れ、
塔を目指して進みはじめた怪盗団の男女。

その背中を見て、少女も歩きはじめます。

迷って、後悔することは、
すべてが終わってからでもできる。

今は――今からでも。
幼なじみの心に近づく努力はできる。

「絶対に、助ける」

想いを口にして、
心を決める少女。

怪盗団の女性が、
安心したように振り返ります。

都市の頂上、
塔の上を目指す高校生の少女と、
怪盗団の男女。

吹き荒れる嵐、轟く雷が、
少女達の進行を阻みます。

少女達を近づけまいと叫ぶ、
幼なじみの苦悩を孕む悲鳴。

「私はもう、死ぬしかないんだ」

彼女の苦痛は天の声として、
都市中に響き渡ります。

怪盗団の男女も、
少女をかばいながら、
必死にあがいていました。

そして、目の前に迫る大波に、
飲まれそうになったとき―――――

 

 

「アルセーヌ!!」

怪盗団の男性の声に応えるように、
彼の背から黒い翼を持つ、
異形の者が現れました。

恐怖を焼き尽くす、青き炎。
絶望を切り裂く、気高き翼。

怪盗団の女性が、少女に伝えます。

「これが、私達の力
 ―――ペルソナ」

絶望に立ち向かう男女の姿を見て、
少女の心にある意志が芽生えはじめます。




――――絶対に、諦めない。

その瞬間。
少女の背に、純白の翼が生えました。

――――少女が、天使になった夢を見ているのか。
――――天使が、少女になった夢を見ているのか。

その翼は、少女の『反逆の意思』。
救いを拒む幼なじみが抱える、
絶望への反逆。

――――自分の弱さも認めて。

それでも助けて、一緒に生きたい。

ひらりと飛び立つ少女を追って、
怪盗団の男女も跳躍します。

「すごいわ。これが貴方の力なのね」


力強く飛翔する、少女の純白の翼。
彼女を守るアルセーヌの、漆黒の翼。

対照的な二色の翼が、
一気に天を駆け上ります。

 

すぐに見えてくる塔の頂上、
『真珠』を抱いた幼なじみ。

その怒りに、その絶望に、その悲哀に。
その憎悪に、その諦念に、その慟哭に。


少女は――― 

少女と心の怪盗団は、
堂々と立ち向かいます。

この空間の主との戦いは、
高校生の少女と、
心の怪盗団の勝利に終わりました。

幼なじみは、元の人間の姿に戻っています。
その手から落ちた『真珠』が、床に転がりました。

涙ながらに、幼なじみが告白をはじめます。

――自分は、酷いいじめに遭っていた。

何もかも否定され、尊厳を踏みにじられ、
先の見えない、暗闇のような日常。

生きながら海底に沈んでいくかのような、
息苦しく、苦難に満ちた日々。

――――この現実に、私は要らない。
私が死んでも、誰も悲しまない。

現実の隅っこには、
そんな苦悩を持つ若者が大勢いる。

彼らと一緒に、
社会に私達の『生』を知らしめたくて。

生きる苦しみの中、彼女は心を許してくれる、
高校生の少女に救われていました。

しかし、その太陽のように眩しい笑顔を、
羨んでもいました。

嬉しくて、怖くて。
申し訳なくて、悲しくて。

彼女は少女を、遠ざけたのです。

告白を聞いて、少女は。

「ありがとう。教えてくれて」

儚い微笑みを返しました。

驚く幼なじみに向けて、さらに伝えます。

世界が貴方を不要だと言っても、私には必要。
世界がどうでもいいと言っても、私には重要。

貴方に遠ざけられても、私は貴方が大事。
貴方に憎まれても、私は貴方を憎まない。

―――在りし日の幾夜。
貴方との日々が、私を裏切らないから。

必死の、されど偽りのない本音。

じっと聞いていた幼なじみの彼女の目から、
大粒の涙が零れました。

微笑む怪盗団の女性が、
「お役に立てたみたいね」と囁くと……

怪盗団の男性も頷き、
『真珠』を手に取り、高らかに言い放ちます。

「確かに、頂戴した」

『真珠』が光り輝き、海上都市を照らしていきます。

さらに光を増していくそれは、
まるでこの世界における『太陽』。

暖かな光は都市を襲う雷雲を一瞬で晴らし、
都市を飲み込もうとしていた、
大波も蒸発させます。

真っ白で清浄な水蒸気に包まれる、海上都市。

何故このパレスに似た空間へ誘われたのか、
真実は分かりません。

ですが、再び朋友として寄り添えた少女達を見て、
彼らの心は達成感で満たされていました。

――――悪くない気分だ。

怪盗団の男女はそう頷き合って、
帰還の時が近いことを確信します。

『太陽』を見つめていた怪盗団の男性は、
すべてを察したように言います。

――これはもう、必要ない。

少女と幼なじみは見つめ合い、
声を揃えて答えます。

「太陽は、『ここ』にありますから」

朗らかに笑う一同。

怪盗団の男性の手から離れた『太陽』は、
吸い込まれるように、
空へと昇っていきます。

希望の光で、溢れる世界。

まばゆさの中へと消えていく
心の怪盗団に、少女が尋ねます。

「私の名前は、陽那……明城陽那!
 あなた達の名前は……」

光で霞んでいく、怪盗団の影。
目を細める少女は、
優しい声を聞いたようです。

「クイーンと….ジョーカー……
 そうですよね……怪盗ですもんね……]

そして、
続けて影が告げたのは――――

「それが、あなた達の……
 本当の名前…… 素敵な名前……」

その綺麗な響きを最後に、
少女の意識は真っ白に染まりました。

元の世界。
渋谷と呼ばれる街。

大型ビジョンには、
『サークル』が解散し、
その首謀者が自首したという
ニュースが流れていました。

犠牲者は、一人も出なかったようです。

交差点を渡る高校生の少女は、
不思議な世界に迷い込み、
心の怪盗団と出会ったことを
忘れていました。

しかし誰かに助けてもらった記憶は、
朧げに覚えています。
その誰かに言われた言葉も。

―――自分が正しいと思うことをすればいい。

正しいと思う道を歩み続ければ、
どんなに苦しい日々にも、必ず光は見出せる。

これから何が起ころうとも……

確かな足取りで、少女は人混みの中に――――

若者がもがきながら生きる渋谷の街に、
消えていきます。

記録:南瓜の匣

その日、魔法使いを目指す少年少女の学舎は、
来たるハロウィンの祭りにて、どんな『いたずら』で
街中を楽しませようかと賑わっていました。

学びを活かして、最も素晴らしい方法で驚かした者には、
名誉ある『称号』が贈られます。

くせ毛の少女もまた、
親友である少年や、眼鏡の少女と一緒に、
実力を披露しようと心躍らせていました。

浮かれる生徒たちに、教師が警告します。
『いたずら』を企む魔法使いの魂は、悪魔を呼び寄せると。

悪魔はあらゆる手を使い、子供を誘惑する。
囚われたが最後、骨の髄まで吸い尽くされ、
生きていることを後悔するほどの責め苦に遭う……

だから、魅力的な『何か』が突然現れても、
決して手を伸ばしてはいけない。
好奇心に負けてはならない、と。

しかし、生徒達は誰ひとり真面目に警告を聞きません。

そんな中、いたずら好きの男子生徒が息巻きます。
「ハロウィンの称号は貰った!」

学舎は一層、熱気に包まれます。
くせ毛の少女も、負けてはいられませんでした。

親友達と『いたずら』の練習に打ち込む少女。
気づけば今日も、すっかり夜が更けていました。

それでも、最優秀の称号にふさわしい完成度には程遠く。
少女は気分転換に夜食を作ろうと部屋を出ました。

その足元に、きらりと光る何かがひとつ。

それはそれは、とても美しい匣でした。
南瓜を模した黄色いトパーズが散りばめられ、
どこか歪んだ、蠱惑的な輝きを放っています。

魅せられたように蓋を開けると、
中から小さなパンプキンバイが顔を覗かせました。

すると、囁きが聞こえます。

「魔法の全てを教えてあげる」
「祭りでみーんな膚にできるよ」

声は甘く優しく、抗うことなんてできません。
このパイを食べなくちゃ。
少女は大きく口を開き――

次の瞬間、眼鏡の親友の悲鳴が響きます。
少女はバイも匣も投げ捨て、扉を開けました。

魔法に失敗してさめざめと泣く親友を宥めながら、
少女は内心、安堵しました。
そして恐れを振り払うべく、練習へと戻ったのです。

パイの匣は、気が付くと姿を消していました。

祭りの日、少女と親友達は街の人を次々と驚かせました。

大きな箱から飛び出す、小振りな髑髏や南瓜のランプ。
三人で杖を振ると、音が弾け、眩い光が溢れ出し―――
次の瞬間、飴や焼き菓子となって降り注ぎます。

『称号』を得られるほどではないにせよ、
親友達と仕上げた魔法は、誇らしい宝物となりました。

なのに、どうしてかあの匣が脳裏をよぎり、
背筋が薄ら寒くなるのです。

それが予感だったように、
目を向けた先には、あの匣が転がっていました。

なぜ、と思う間もなく横から手が伸びてきます。
それは、『称号』を貰うと息巻いていた男子生徒で一

ばくり。

彼の目に不思議な光が宿ります。
それはどこか歪んだ、蠱惑的な輝き。

呆然とする少女の前で、彼は杖を振りかざしました。

その瞬間、街中の地面から、
何十本という蔓が噴き出しました。

蛇のように絡み合い、巨大な樹木と化した途端、
神々しく輝く枝葉を、天蓋のように伸ばします。

住民は歓声を上げ、生徒達もぽかんと魅入られています。

少女も驚き呆気に取られていましたが、
いつの間にか男子生徒の姿が見えなくなっている事に気づき、
駆け出しました。

少女は教師の元へと駆けていき、
見たことを全て話しました。

ある日突然、目の前に現れた匣。
蓋を開くと聞こえてきた誘惑の声。

自分は親友のおかげでそれを振り払えたが、
あの男子生徒は匣の中のパイを食べてしまった。

その間も大樹は止まらず、今や街中に根を広げています。

路地裏の奥でようやく男子生徒を見つけたとき、
彼は既に事切れていました。

大樹に取り込まれ、体は眼球に到るまで干からび、
風化した肌はぱりぱりと剥がれ落ちます。
目を見開き、舌を出した恐ろしい形相のまま……

止められなかったと震える少女に、教師は寄り添います。
貴女だけでも無事でよかった、
親友を大切に思う心が、誘惑を振り払ったのだと。

あれは各地にある魔法使いの学舎が
長年捕らえようとしている『南瓜の悪魔』。

どれほど警戒しても、悪魔はあらゆる手で人を誘惑し、
犠牲者を生んでしまうのです。

男子生徒の犠牲を悔やむ教師の頭上で、
大樹は蠱惑的に輝き、人々の心を奪います。

少女もまた、眩さに目を細めましたが、
胸の内は暗く沈んでいきます。

運良く逃れただけで、
誘惑の手はすぐそこにあるのです。

悪魔は、いつでも人の欲望を狙っているのですから……

記録:機心の盤

そこは科学の粋を極め、
機械に―――人工知能に統治を任せた国家。

一時は存続が危ぶまれたものの、
新たに就任した二号機の少女の手腕により、
その情勢は安定し始めています。

しかし一度危機に陥った事で、
人工知能による統治に反対する人々も現れました。
事態の沈静化に伴って姿を消しつつあるとはいえ、
未だ彼らは『人による統治』を謳って活動を続けています。

各地で妨害行動を繰り返す残党鎮圧のため、
国家存続を担う少女は、対応を迫られていました。

捜査を任せた部下の情報によると、
主導者は未だ不明。
しかし、妨害のタイミングから
内通者の存在が疑われるという事でした。

ですが、
証拠となるようなデータは見つかっていません。

「お待たせしました」

思考に沈む彼女を引き揚げたのは、
瞳に理知的な光を宿す女————
少女が目覚めたときから大臣を務める、
有能で忠実な人物でした。

彼女は愛用の手帳を片手に、
映し出された少女の像へと近付いてきます。

計器が示す、微かなインクの匂い。
忙しなく万年筆を走らせる大臣。

少女はそれを一瞥した後、手早くウィンドウを閉じ、
次の仕事に向かうため、彼女と共に移動を始めました。

時代に取り残されたような、古い市街地。
国はここを商業地区にするべく、
退去命令を出していました。

しかし反政府組織の対応に追われ、
計画は遅延を余儀なくされています。

「遅れを取り戻すため、退去状況の確認を」
大臣の進言を、少女は拒みました。

「いや、今日行うのは最後通告だ。
 日が暮れる前に、解体計画を実行に移す」

それでは禍根が残ると大臣は言いますが
少女は「退去命令は既に出している」と一蹴。
住民たちは反政府組織の活発化に乗じ、
政府に楯突いているのだと譲りません。

「母が住んでいるのです」

大臣の消え入りそうな訴えも、
「お前の母も赤の他人も、同じ一人の国民だ」
「有用性を示すのでなければ、その情報に価値はない」と、
少女は冷たく切り捨てました。

大臣はすぐさま謝罪。

彼女の言葉を受け入れると、
これまで通り、効率的に業務を進めました。

辺りに響く解体の音。
古い市街地に、どんどんと重機が進入していきます。

少女がそれを眺めながら、この場を去ろうとした時。

全身の感覚に、突如異常値が現れます。
どこかへ移動することも、誰かに連絡することもできません。

少女の人格を形成するデータのみが、
彼女の姿を投影していた装置に取り残され、
ネットワークからも切り離されていたのです。

古びた市街地。
周囲に少女の味方がほとんどいない状況。

全ては、この瞬間のため仕組まれたことでした。

人工知能の政務において重要なサーバー付近で、
暴動が起きたという一報を大臣は薄笑いで眺めていました。

反政府組織と繋がる内通者にして、彼らの主導者。
統治者である少女の身動きを封じた張本人。
それが、大臣の正体だったのです。

あの程度の罠は時間稼ぎにしかならないでしょう。
しかしそれこそが大臣の目的でした。

人工知能の判断を仰げない状況下で問題を起こせば、
機械に依存した民衆に満足な対応などできないだろう。

人工知能に頼った事の愚かしさを知らしめる。
大臣はその目的で、組織の仲間に暴動を起こさせたのでした。

勝利を確信した大臣。
しかし、目を疑うような光景がモニターに映し出されます。

「速報です。
 サーバーへの襲撃を行った反政府組織は、
 事前に待機していた部隊により鎮圧されました」

驚愕する大臣の前で、
キャスターのホログラムが変化していきます。
それは罠に掛かっているはずの少女でした。

「計画は順調か?」

罠から逃れたとすれば余りに早く、
大臣は少女を睨みながら言います。

「いつから気付いていた」

彼女の計画は完璧だったはずです。
反政府組織とのやり取りも全て紙を通し、
データ通信の履歴は一切残していません。

にもかかわらず、
少女は最初から全てを見通していました。

「今時、手帳などという物理媒体に頼るのは、
 私に叛意のある者くらいだ」
探りを入れる理由には充分だろう、と。

車内に、大臣の虚ろな笑い声が響きます。
擬装のため、今まで忠実に働いてきたのに、
そんな些細な事で疑われるのだな、と。

「忌々しい人工知能が」

間近に響く、サイレンの音。
既に車は、警察や軍隊に囲まれていました。

道路に集う、少女の兵。
その銃口は大臣とその車へ向けられています。
もはや状況を覆すことはできません。

捕まった反逆者の行く末を知っていた大臣は――
再び車に乗り込み、急発進させました。

発砲しようとする兵士を制し、少女は冷淡に呟きます。
「それほど機械を嫌うなら、
 好きなだけマニュアルドライブを楽しむといい」

その瞬間、大臣の視界は闇と化しました。
辺り一帯の照明が消え、
乗っていた車の制御まで切られたのです。

今やその車は、闇の中を高速で滑る鉄の棺も同じ。
ハンドルを握れども、次は?
ナビは、アクセルは、ブレーキは?

半狂乱の彼女に、車を御すすべはありません。
いくら厭うたところで、人々の生活はその無意識に至るまで、
機械と、人工知能の恩恵の上に成り立っているのですから。

市街地区に飛び込み、爆発する車。
赤々と燃える炎が、瞑目する少女を照らします。

「車も運転できないお前達に、
 国の操舵ができるのか? そもそも――」

「押し付けたのは、お前達だろう」
開いた目に、光はありません。

国を担い、重い責任を孤独に背負う少女。
いつかの過去を顧みる瞳は、闇そのものでした。

記録:彼岸の峰

荘厳に鳴り響く、鐘の音色。
寒空を照らす、満開の花火。

とある雪国の町。
聖なる力が満ちる、祭りの夜のこと。

人々は華やぐ町の空気に、
浮かれていました。

このように享楽的な夜は、
争いや諍いも増えます。

故にこの時期、
町の自警団は、
総出で見回りに当たっていました。

この地に住むとある青年も、
自警団の一員として、
町を警備します。

そんな彼の元に、仲間が駆け寄ってきました。

「いかにも怪しい風体の男を発見した。
 至急、応援を頼む」

青年が現場に到着すると、
ボロのような衣服に身を包んだ、
まさに言葉通りの大男が、
座り込んでいました。

大男を取り囲む、自警団の仲間達。
数ではこちらが圧倒していますが、
青年は大男が発する無言の気迫に、
立ちすくんでしまいます。

―――この男は、ただものではない。

流浪する大罪人か。
あるいは罪人を追う、無頼の賞金稼ぎか。

いずれにせよ覚悟を決めた青年は、
仲間の列に加わろうと動きます。

しかし男はあっさりと手を挙げ、
無抵抗の意思を示しました。
拍子抜けする青年。

男の荷物を調べると、
そこにあったのは大事に手入れされた、
登山用のピッケルでした。

青年は、男の素性を察します。
彼はこの町の向こうに佇む、『霊峰』に―――
――――前人未踏の登頂に挑む、冒険家でした。

青年がこういった冒険家に会うのは、
これがはじめてではありません。

何故ならばこの町は、
冒険家達が登山の準備を整える、
根拠地として知られているからです。

――――いえ、それだけではなく。

男の顔に刻まれた深い皺、
物々しく険しい風貌。

不愛想で寡黙な、
およそ祭りの夜には場違いな、
その雰囲気に。

青年は、見覚えがありました。

自警団の青年は、
冒険家の男に告げます。

「疑ってすまないが、今日は皆が高揚している。
 貴方が周りを刺激しないよう、
 しばらく見張らせてほしい」

無礼なその言葉に、
男は答える素振りを見せません。
ただじっと、
祭りの喧噪を眺めています。

寒空の中、炸裂して散る火花。

見上げる男の姿は、
ときにはうら寂しく、
ときには懐かしそうに見て取れました。

しかしよく見れば、男の表情そのものは、
まったく変化していません。

様々な花火が染める空の色彩が、
男の表情を変えて見せるのだろう。
青年は、そう思うことにしました。

そのとき。
青年の体に、どん、と重い衝撃が走ります。

「どこを見て歩いてやがる」

低い怒号が、通りに響きました。
青年と男の周囲に、人が集まってきます。

叫んだ男は、町に立ち寄った屈強な傭兵。
青年とぶつかり、
歩きながら飲んでいた酒をこぼしてしまったようです。

慌てて謝罪し、酒代を弁償すると言って、
少ない持ち金を差し出そうとする青年。

しかし著しく機嫌を損ねた
傭兵の男は、聞く耳を持ちません。

深い酔いも手伝い、
引っ込みがつかなくなった傭兵は、
剣を抜いて青年に突きつけます。

周りは落ち着くようになだめますが、
傭兵は聞き入れません。

憤怒を纏う大振りな剣が、
乾いた風を裂きます―――

激突する、鈍い金属音。

青年はやむなく剣を抜き、
傭兵の剣を受け止めました。

しかし戦い慣れた太刀筋は、
あまりに重く、
青年の力では受けきれません。

垂れる脂汗、震える腕の筋肉。

もはや男の怒気は、誰にも抑えられませんでした。

観念した青年の喉元に迫る、
幾人もの血を吸ってきたであろう切っ先。

――刹那。

青年を制して、背後から。
ずいと、冒険家の男が進み出ました。

冒険家の男は、
荒ぶる傭兵の男をひと睨みしたかと思うと、
一気呵成になぎ倒しました。

あまりの勢いに呆然とする、自警団の青年。
その肩を、冒険家の男がぽんと叩きます。

青年の緊張をほぐす、手の感触。
ふと目に入った男の、
柔和で穏やかな微笑み。

――――思い出される、青年の父親の顔。

伝説の『霊峰』に挑み、
戻ってこなかった冒険家は山ほどいます。
その中には、
青年の父親も含まれていました。

普段は抑えつけている感情に動かされ、
青年はとっさに問いかけます。

「こどもは、いるか?」

青年の何気ない言葉を聞いて、
冒険家の男の表情が一変しました。

その様は、先ほどの傭兵の男以上の、
激情に駆られているように見えます。

――――こどもがいるか。

――――こどもが、いるのなら。

こどもがいるのに、こどもを置いて――
――――山に登るのか。

男は青年に、
そう咎められた気がしたのでしょう。

戸惑っている青年に、男は。

「こどもがいたら、どうだというんだ。
 余計なお世話だ」

絞り出すように、冷たく発します。

男と青年の頭上で、
さらに花火が打ち上がりました。
光を浴びて、男の表情が元に戻ります。

激情が失せた、温和な瞳。
されどその瞳には、
激情とも異なる、
怪しい光が宿っていました。

その瞳の色もまた、
在りし日の父親そっくりだ――
青年は思います。

『霊峰』に魅入られた者は一様に、
抗えない彼岸の誘惑に苦しみ、
しかし身を委ね、愉悦に浸るのでした。

――――打ち上がり続ける、花火。

逆光の下、町の影に融ける男。

彼が見つめていたのは、
花火でも青年でもなく|

――――その向こうにそびえる、
伝説の『霊峰』でした。

青年は、男を止めるつもりはありません。
青年だけではなく、
自警団全員が同じ考えでした。

この町に立ち寄るのは、
『霊峰』へ挑む、無謀な冒険家。

彼らの最後が―――ひとときの日常が。
せめて、安らかであるように。

彼らの、心の平穏を守るためにも……
自警団は活動しているのでした。

青年が、男に語りかけます。

「霊峰には、恵みの神が祀られている。
 今宵の祭りは本来、巡礼者を祝福し、
 神の加護を与える祭りだったんだ」

振り返らない男に、
さらに青年は付け加えます。

――だから。

「だからあなたは、大丈夫だ。
 きっと、戻ってこられるさ」

男はやはり、振り返りません。

やがて男は歩きはじめました。

祭りにも花火にも目をくれず、
『霊峰』のみを見上げて、
ひたむきに足を進めます。

山から吹き込む風が、
男を拒むかのように強くなってきました。

青年はその背中を見つめながら、
最後の声をかけます。

「帰るときは、またこの町に寄ってほしい。
 今日の祭りも賑やかだけど、
 新年を祝う祭りも、
 負けないぐらい楽しいんだ」

強風に負けじと、伝えきる青年。

男が少しだけ振り返ります。

――――ああ、確かに。

声こそ聞こえませんでしたが、
男の唇はそう言ったように見えました。

山は、吹雪に包まれかけています。

青年はため息を吐きつつ、
懐から小さな人形を取り出しました。

家族を顧みない父と、言い争いになったあの日。
そのまま家を出て、『霊峰』に飲まれた父。

父に渡すつもりだった、手作りの人形。

黒ずみ、糸がほつれ、綿がはみ出たそれは、
青年から父親への、
捨てきれない想いを現わしていました。

―――自分の父が、そうだったように。
あの男の生還は、決してかなわないでしょう。

それでも。
少しでも、可能性があるのなら。
生きて、あがいて、
家族が待つ、家に帰ってほしい。

青年は願います。

彼のこどもが、息子か娘かもわかりませんが―――
自分のような想いは、してほしくない。

置き去りにされてもなお……

それでも。

親の無事を祈る子供は、いるのですから。

記録:謹賀の間

新年を迎えて間もない、
とある国の、大名の城の大広間。
例年通り、家臣団は緊張していました。

この城で行われる、正月の催し。

前年に最も武勲を立てた者が大名に誉めそやされ、
最も功績の少ない者は、家臣団の前で処罰される。

故に家臣団と武将達はいつも戦々恐々としながら、
催しに参加するのでした。

しかし今年は、例年と違う点があります。

先の戦で卓越した策を施し、敵国に大勝した東の武将。
数で勝りながらも、敵国に惨敗した西の武将。

両者は、はっきりと結果を残していました。

「この国に、敗者の居場所などない」

家臣達は口々に言い合い、
東西の武将は黙っています。

大名が現れ、賞罰について語りはじめても、
家臣達はどこか他人事。
一喜一憂することもありません。

すると、大名が告げました。

「本年は特別な趣向を凝らした」

家臣達が怪訝そうにしていると、
襖が開き、一人の女が入ってきます。

大名の隣に立つ、
端麗な容姿に、
艶やかな装いの女。

女は、一振りの刀を手にしていました。
その鞘にも、
絢爛な螺鈿細工があしらわれています。

より怪訝そうに、眉をひそめる家臣たち。
彼らの中に、
彼女の顔を知る者はいませんでした。

女の相貌の美しさに、
老いた家臣すらも一様に見惚れ、
全身を舐めるように眺めます。

そんな下卑た視線にも、慣れているのか。

女は表情ひとつ変えず、
鞘から刀を抜きました。

座して女を見上げる、家臣団。

女の隣では大名が、
豪奢な絵柄の扇子を手に、
自由闊達な演説をします。

「今年は刀剣の荒魂が、
 不届き者に神罰を下そう」

しかし家臣達の耳には、
大名の言葉が届きません。

家臣達の意識を支配する、
女の一挙手一投足。

ゆるりと、
女が舞いはじめます。

ひらりくるりと刀を翻し、
家臣達の間を練り歩く女。

女が近くを通る度、
馥郁とした伽羅の香りが、
家臣達の鼻孔をくすぐります。

畳の上を強く踏みしめているのに、
足を擦る音すら聞こえません。

しなやかにして、面向不背。
凛とした、女の剣舞。

この場の誰も見たことがない、
得も言われぬ光景でした。

大勝した東の武将の前で、
よりいっそう優雅に舞う女。

そのたおやかな手つきが、
絡め取られるかのような視線が。
ちらりと唇から覗く、薄桃色の舌先が。

東の武将の姿までも、麗しく見せます。

家臣達はこの舞が、
東の武将への褒美であり、
何よりの賞賛であろうと理解しました。

これほど近い距離で、
女の舞を眺められる東の武将を、
誰もが羨みます。

――――だから故に。

鮮血が一拍遅れて噴き出す、その瞬間まで。

誰も気がつきませんでした。

――東の武将の首が、
軽やかに宙を舞ったことに。

飛び散った血で畳を染めながら、
崩れ落ちる東の武将。

返り血を浴びながら、
平然と彼を見下ろす女。

動揺する家臣団の間に、
不穏なざわめきが広がりました。

片手をあげて、それを制する大名。

そして大名は一枚の紙を広げて、言いました。

「ここに、此奴の残した書状がある」

それは東の武将が、謀反を企んでいた証拠。

彼が隣国の大名へ流そうとした、
この国の肝要な機密を記したものでした。

家臣団の背後。

それまで気配を殺していた西の武将が、
堂々と立ち上がり、胸を張ります。

書状を見つけ、
大名に報告したのは、西の武将でした。

「この国に、裏切り者の居場所などない」

大名は力強く言い切ります。

そして大名は、
西の武将が敗れた戦の責を免じ、
最高の褒賞を与えると宣言しました。

青ざめた顔で大名の言葉を聞いていた、
家臣の一人が、
引きつった顔で口角を上げます。

歪んだ、不規則な笑い声。

それはやがて他の家臣にも感染し、
場は奇妙な、呵呵大笑に包まれました。

家臣達は思い出します。

かの大名は、恐ろしき無敗の『犬』を
飼っているという噂。

誰もその噂を信じてはいませんでしたが、
こうして目の当たりにしては、
受け入れるしかありません。

家臣達は笑いながら、
愚かな裏切りに走った東の武将を罵倒します。
そして誰もが、女を誉め称えました。

女の殺しの業は、
荒々しくも大義のある、
有徳なる行いである――。

彼らの言葉にも、
女は表情を崩しません。

ただ静かに、畏まった所作での一礼。

その厳かな空気のみを場に残し、
襖の向こうへと去っていきました。

ひと仕事を終えた女が、大名の命を思い出します。
女が伝えられた任務は、
とても短いーつの言葉。

「家臣団の眼前で、裏切り者を殺せ」

――――それだけ、でした。

手がかりはありません。
大名が証拠を掴んでいる様子も、ありません。

女がどれだけ調べても、
造反の片鱗すら見つかりません。

そのとき女は、大名の真意に思い至りました。

――――裏切り者を見つけて、殺す。

そのような状況を、自ら作り出すこと。
それそのものが、
女の今回の任務なのでは。

後日、仕事の筋書きを考えた女は、
ひっそりと大名の元を訪れ、
耳打ちしました。

―――大名が、にやりと微笑みます。
命令の意図は、女の読み通りでした。

女は改めて納得し、筋書きに沿って、
準備を進めます。

裏切りが現実にならぬよう、
大名の非情さと恐ろしさを、
家臣達に思い知らせるために。

そして東の武将の首を刎ねた女は、
筋書きの最後の段をこなすために、
備えます。

まともな武勲も挙げられず、
策に取り込まれても疑うことすらしない。

—————夜郎自大な、西の武将を始末する。

さほど難しい任務ではありません。

しかし、女は考えます。

あの賢く聡い大名のこと。
いずれ女も邪魔になり、
自分の居場所を奪いにくるだろう。

――――自分はそのとき、
その判断を受け入れるのだろうか。

あるいは……

女は、考えます。

命に従い、
相手を選ばず、
人を斬る。

女を動かすのは、任務のみ。

――命令こそが、女を一流の人斬りにした。

その生きかたに従う限り、
女が大名に刃を向けることは、
決してないでしょう。

ただし。
もし女が、自分の命を守るため、
大名に刃を突きつけることがあるならば。

それが女の個人的な、
生涯はじめての、
『生きるための殺し』となる。

その機会が来るとしたら、
女はどのような手段で、
大名を屠るのでしょう。

暗い室内。心の内と同じ闇の中で、
女は閃く刃の軌跡を夢想します。

「……少し、興味深いね」

呟き、蝋燭の炎のように、
あやふやな微笑を浮かべる女。

女はすぐに笑みを鎮め、
刀を鞘に納めたのち、
静かに部屋を出ていきました。

記録:憂惑の森

どうしてこうなったのだろう。

怯えながら、急かされるように、
獣人は森を彷徨います。

漆黒のごわついた皮膚は、石を投げられ傷つき、
手足の爪も、いつの間にか欠けてしまっていました。

傷を撫でてくれる人などなく、
痛むたびに町で浴びせられた罵詈雑言も蘇るので、
獣人の醜い顔は、否応なしに歪みます。

それに、行く手は得体の知れない気配で満ちていて、
今にも何かが飛び出してきそうでした。

はやる鼓動に涙ぐみながら、身を固くする獣人。
それでも安寧を求めて進むと―――

ぽわり、ぽわり。
幾つもの光が集まってきました。

何かいる……!
と、咄嗟に獣人は、暗がりに逃げ込みました。

その瞬間を見ていたのでしょうか、
柔らかな笑い声が耳をくすぐります。

目を凝らすと、鮮やかな蝶の羽を持つ、
小さな少年少女が浮かび上がりました。

華奢な体に長い四肢。
整った容貌に、宝石のような瞳。

埋もれかけていた知識がはしゃぎます。
目の前にいるのは、本物の「妖精」だと。

飛び回る光の群れへ、
獣人は勇気を振り絞って、喋りかけます。

「アナタ達ハ、妖精?」

恐れられ、傷つけられるばかりだった獣人は、
久しぶりに見た誰かの微笑みに舞い上がります。
ですが同時に、ある警句が蘇ってきました。

妖精は愛らしいが、心は邪悪。
決して気を許してはならない……

――――ところが。
「ここには色んな仲間がいるんだ。
 君のこともよく知りたいな」
妖精は、朗らかに呼びかけたのです。

理由のない優しさが怖くて、獣人は首を振りました。
「話、下手ダシ」

しかし、彼らは顔を見合わせると、
くすっと笑って手招きます。

甘えたい衝動が、獣人を揺さぶりました。
しかし、握りしめた拳の獰猛さを自覚すると、
「力、強イシ」と俯かざるを得ません。

「黒クテ、大キクテ……
 馬鹿デ、ノロマデ……」

「醜イヨ……」

つまらないと知れば、去っていくはず――――
けれど彼らは、
「気にならないよ!」と笑い飛ばしたのです。

その笑顔は、獣人の胸に
淡い希望を灯しました。
彼らなら、仲間に入れてくれるかも……

「君の姿を見せてよ!」

頭はふわふわ、心はどきどき。
優しい月明かりの下、
大きく一歩を踏み出しました。

薄暗い闇から、光纏う妖精達のもとへ。
闇色の巨体を、月光が露わにしていきます。

恐る恐る目を開いた先で、待っていたのは―――
悪意に歪んだ嘲笑の群れでした。

「醜い!醜い!」
「妖精でも悪魔でもないわ!」
「人間でもないし、なんだこいつ!」

けたたましい笑い声が押し寄せて、
獣人の心はいっきに砂嵐に呑まれたようでした。

まるで醜さを突きつけるように、
妖精は獣人の鼻先を飛び回ります。

「そんな姿で恥ずかしくないの?」
「仲間になんかしてあげるもんか」

美しく、可憐で、あどけない妖精達に
寄ってたかって笑いものにされ、
獣人の心はもう、ぐちゃぐちゃです。

やっぱり、どうせ、違った、悔しい、嫌だ。
悲痛な感情が渦を巻き、咆哮と化しました。

ぶんっ。
巨大な手を振り回すと、
瞬く間に目の前の妖精が消え去ります。

月明かりに舞い散る、美しい蝶の羽。
けれど、衝動は収まりません。

キライ、ニクイ、ウソツキ、キエチャエ!

それは、とうに言葉を成していませんでした。
獣人は喚きながら暴れ続け、
辺りは狂乱に陥ったのです。

それから、どれだけ経ったでしょう。
我に返った獣人の前には――――

無惨に引き千切られた、羽や身体
凍りついた横顔が転がっていました。

噴き出す汗と、抑えられない震え。
無我夢中で逃げ出す獣人を、
怒り狂った妖精達が追いかけます。

心臓が破れそうなほど走ると、
いつの間にか追手はいなくなり、
古びた遺跡に入っていました。

虫の声ひとつ聞こえなくなって初めて、
獣人の震えは止まります。

ここには町の罵声も、森の囁き声もありません。
静謐は心地よく、誰かの気配や温度よりも
優しく抱きとめてくれたのです。

獣人はようやく、安堵の溜息をつきました。

そのとき、何かがきらりと光ります。
妖精かと身構えましたが、それは妖しく歪む鏡でした。

映るのは、鋭い爪や醜い顔。
妖精曰く『妖精でも悪魔でも人間でもない』
ナニにも似ていないこの姿。
こんな姿をしているから、誰も受け入れてはくれないのです。

けれど……感情のままに誰かを傷つけてしまうよりは、
初めから独りでいたほうがいいのでしょう。

どんなに焦がれたところで、
愚かな獣を見つめ返す変わり者など
鏡の中にしかいないのですから。

深い溜息は、闇へ溶けていきます。
大それた望みを諦めるように……

記録:永遠の階

暗い照明の、無機質な部屋。

大量に並べられたモニターに囲まれ、
男は一人、懊悩していました。

画面を隔てた、向こうの土地。

男の命令に従った多くの囚人達が、
脆く儚い命を散らしています。

人を食らい、成長し、
おびただしく増殖する、
『花』との戦いによって。

一介の囚人から、
最上官にまで昇進した男。

最高の権限を有する彼は、
施設内だけではなく、
外の世界も閲覧できます。

そんな男の目の前に、
立体映像が現れました。

真紅に染まった基地の地図。
それは施設が緊急事態に晒されていることを
示しています。

さらに壁のモニターにも、
真っ赤に染まった戦場の地図らしきものが、
映し出されました。

手元のスイッチを押す男。

部屋全体に、
基地のホールが投影されます。

そこに見えるのは、
施設に従属する無数の兵士。

戦わざるを得ない、囚人達。

最上の位を持つ男に向かって、
囚人達は右手をつきあげ、
自らの戦意を示します。

男は無言で彼らを見やると、
決然と頷き、そして宣言しました。

「諸君、時はきた。
 これより我らが全兵力を投入し、
 『花』の掃討作戦を行う」

最上官となった男が、
自身も出撃の準備を整えます。

すでに他の囚人達は、
『花』との最終決戦に挑んでいました。
その姿を見ながら男は回想します。
ここに至るまでの道のりを……

これまで長らく続いていた、
一進一退の、膠着状態。

しかし、新たに開発が成功した
強力無比なプラズマ砲によって、
人類に好機が訪れました。

目を見張る、歴史的な快進撃。

念願の勝利が目の前に……

あるはず、だったのに。

運命は、残酷でした。

経年劣化した、設備のせいなのか。
『花』の攻撃による、影響なのか。

原因は未だに特定できていませんが、
基地に備わっている、
あらゆる機能が低下しはじめたのです。

すでに基地に蓄積されたダメージは、
復旧不可能なレベルに達していました。

やがて自分達は、兵器そのものを作れなくなる。

―――その前に、決着をつけなければ。

無謀ではありますが、無計画ではありません。
勝利の可能性は、皆無ではありません。

闇の中で、針穴に糸を通すような、
繊細で奇跡に頼った計算の下。

男は総攻撃の決断を、下したのでした。

同胞である囚人達に視線を向け、
微かな声で男は呟きます。

「すまない」

必死に敵と交戦している彼らは、
この戦いが背水の陣であると知らないまま、
命を燃やしているのです……

後ろめたさを押し込めながら、
兵器を携える男。

その隣に、男の妻である女が寄り添います。

二人はもう戻ることができないことを、
悟っていました。

最上の権限を持ってもなお。
自分は戦いを、続けなければいけない。

「あの子の仇を、取るために」

どちらが言ったのか。
それとも、同時に言ったのか。

判別もできないほど何度も、
無意識に口にしている、
その言葉を胸に。

戦地に向かう特別車両、その後部座席。

精神を研ぎ澄ませていた最上官の男に、
妻である女が突然、語りかけてきました。

――――施設の破損状況は、
果たして本当のことなのだろうか。

最新鋭とは言え、人間が作ったに過ぎない設備。
老朽化すること自体は、なんら不思議ではない。

しかし、ここまで急激に、急速に、
性能が低下するものなのだろうか。

これではまるで何者かが、
示し合わせているかのようではないのか。

―――『終わり』を、演出するかのように。

男は懐疑し苦悩する妻の肩に、
手を置きます。

元々、基地の中枢となる施設は、
誰も踏み入ることができず、外部から完全に秘匿されています。

今の地位に就いてもなお、
男らがその部分に立ち入り、
情報を取得することはできません。

「疑うことに、今さら意味はない」

今は迷うより、戦って生き延びよう。
そして滅びかけた人類を再生し、
復興を目指そう。

震えながらも、夫の言葉に頷く妻。

二人の覚悟が揃った、その瞬間。

『花』が、車両を襲いました。

真上から車両に振り下ろされる、
巨大で忌々しい『花』の花径。

それは二人が無念を口にする時間すら与えない、
刹那の出来事。

―――無情にして、呆気ない終焉。

男と妻が座っていた後部座席は、
原形を留めぬほど歪に、
潰れていました。

―――即死でした。

完全に秘匿された
基地の中枢施設。

最上の権限を持ってしても、
入ることが許されない、
最上以上の、
真なる禁断の場所。

無人であるはずのその場所で、
照明が点灯しました。

一台のモニターが、
光を取り戻します。

モニターには大きく、
『Reboot』の文字が
表示されていました。

続いて表示された施設内部の地図は、
危機を示す赤から、
正常を示す緑色に変化しています。

「システム・オールグリーン」

モニターから流れる、機械の音声。

その声に導かれたかのように――

囚人の男と、その妻が現れました。

モニターが、彼らに語りかけます。

「シナリオ×××における、
 『花』の掃討状況の改善は見られません。
 強制終了しますか?」

男が頷き、応答しました。

「収集したデータを参考に、
 新シナリオを開始しよう」

施設のホールには、
またしても囚人達が集められています。

その中には中枢にいるはずの、
男女の姿もありました。

二人はいつものように、
しかしながら生まれてはじめて、
覚悟を伝え合います。

「あの子の仇を、取るために」

その光景を眺めていた、
最上の、さらに上位の権限を持つ男女が、
手を握り合います。

彼らはいくらでも生み出せる囚人を使い捨て、
『花』を効果的に、
効率的に倒せる、
より優れた戦術を模索していました。

二人は、同時に呟きます。

生命を冒涜し、利用する計画。
良心は痛みますが、全ては。

「あの子の仇を、取るために」

決意を胸に、二人がスイッチを押して、
世界をリセットします。

新たなるはじまりを。

新たなる終わりを、見届けるため。

――そう。

新しい物語が、ここからはじまるのです。

記録:真裏の席

薄暗い路地裏を、おぼつかない足取りで歩く
襤褸を纏った女。

身体は薄汚れ、
髪は乾燥して毛羽立っています。

もう何日も食べていないのでしょう。
骨ばった手は自然と空っぽの胃を抑えていました。

しかし、その目には辛うじて輝きが残っています。
視線の先にある大通りの、華やかな様子が映っていたのです。

交易でもたらされた富を巡る、活気のある取引が。

着飾った男女の向こうに見える、
尖塔を擁した麗しい宮殿が……
近いのに遠すぎる光景を、女はじっと見つめます。

「味わってみたい?」

そんな女の心を見透かしたのは、
すべてを見通すと評判の占い師……

影よりも黒い衣と、艶やかな長い髪を揺らし、
静かに女へと近づきます。

占い師は密やかに囁きました。

「今晩、身なりを整えて
 海辺で月を見上げなさい」

「そうすれば、今の生活から連れ出してくれる
 運命の相手が現れるでしょう」

その言葉は、隙間だらけの女の心に、
するりと滑りこみました。

女は占い師に言われた通りに……
水浴びをして髪をくしけずり、
できる限り衣服を繕って海を訪れます。

評判の占い師の助言とはいえ、こんな方法で
本当に今の生活から抜け出せるのでしょうか。

仰いだ月は煌々と輝いて、
うまくいかずとも、散歩に来たと思えばいい。
そう自分を慰めていると……

「あの……」

熱を帯びた瞳の、身なりのよい男が現れました。
女には、月明かりが彼だけを照らしているように映ります。

待ち人到来か、と女は息を呑みました。

月夜の海辺で、
みすぼらしい女と、身なりのよい男が見つめ合います。

「君ほど美しい女性を見たのは、初めてだ」
男は、女の纏う衣服など関心がないようにそう告げました。

はにかむ男の襟元で輝く、宝石の装飾。
袖口に煌めく、金糸の刺繍や貝のボタン。

女は確信します。
彼こそが、占い師の告げた
『今の生活から連れ出してくれる運命の相手』ということに。

―――彼女の言葉は本当だった。

女は今すぐに、歌い、踊り出したい気持ちになりましたが、
ぐっと堪え、男の次の言葉を待ちます。

男は自分が貴族であると名乗り、
妻になってほしいと手を差し伸べました。

この手を取れば、食べ物に困らず、
もう惨めな思いをすることはなくなるでしょう。

女は骨ばった指を、彼の手に重ねました。

―――私が卑しい貧民であると、
彼は気づいているだろうか……?

女はその疑念を心の底に沈めます。

男は、そんな彼女の痩せこけた身体を、
逞しい腕で抱き寄せました。

さあ、夢のような日々の始まりです。

翌日、女は小さな天幕を訪れました。

顛末を聞いた占い師は微笑み、
「よかったわね」と祝福します。

そして続けて、忠告を口にしました。

「その幸せを手放さないためには、
 決して相手に疑いの眼差しを向けてはいけませんよ」

占い師の神秘的な瞳は妖しく輝き、
何もかも見透かすよう。

そんな視線を受けても女は、幸せを確信しているのでしょう。
物怖じすることなく、「もちろん」と返します。

しかし、占い師は優しく念を押しました。
『決してね』と。

男との結婚は、女にとって満ち足りたものでした。

生まれてから路地裏での生活しか知らない女が、
初めて得た幸福。

その生活を守るため、女は献身的に尽くし、
家事も使用人以上にこなしました。

しかしある日、夫の留守中。
女は、掃除していた絨毯の下に、
隠されていた紙きれを見つけてしまいました。

脳裏に占い師の声が蘇ります。
「決して相手に疑いの眼差しを向けてはいけませんよ」

一度は躊躇したものの、女は紙を拾います。

紙には、様々な筆跡で文字が書かれていました。
それは、借用書でした。

男は法外な利息で金を貸し付ける高利貸しで、
人々から金を巻き上げていたのです。

女は貧しい育ちだったため、文字は読めませんでしたが、
それが後ろめたいものだということくらいはわかりました。

それでも、この生活が続くなら、
是非などどうだって良いと思いました。

なにより女は、男のことを愛していたのです。

気づくと、帰宅した男が血相を変えていました。

めくられた絨毯、女の手には紙きれ。
それで理由は事足ります。

「まさか密告する気か!」

凄まじい剣幕で迫られた女は、必死に首を振ります。
しかし男は借用書を取り返すべく、女を突き飛ばし……

床に置かれた壺に頭を強打した女は、
派手な音と共に血にまみれ、
ぴくりとも、動かなくなってしまいました。

「こうなることも、わかっていたな!」

妻を殺めた男はその足で、占い師の天幕に怒鳴り込みました。
息は乱れ、目は見開かれています。

今にも占い師に飛びかかりそうな勢いでした。

騒然となる通行人。
しかしそれをよそに、占い師は不敵に笑います。

「だから言ったでしょう?
 決して疑いの眼差しを向けてはいけない、と」

月下で男と女が出会ったあの日……
彼もまた占い師の言葉を得ていました。
―――海辺で月を見上げる女こそ、運命の相手。
―――その女に、決して疑いの眼差しを向けてはいけない。

そう、二人は占い師の掌で、その運命を弄ばれていたのです。

妖しく細められた瞳。
悪戯な指先。
ベール越しにもわかるその微笑。

男は、占い師の真意に気が付きました。

激怒もあらわに飛びかかる男。
しかしその拳が届くことはありません。

「妻殺しの罪人です」

占い師の冷淡な声。
それに従い、潜んでいた衛兵達が、
見る間に男を羽交い締めにしました。

「貴方が彼女を疑いさえしなければ、幸せでいられたのに」

絶叫と共に引っ立てられる男を横目に、
占い師はベールの下で口元を歪めます。

それは恍惚の表情。
まるで甘美な果実を味わうような……

記録:追猟の痕

カタカタ、カタカタ…..
薄暗い部屋に、単調な音が響きます。

灯りを点けるのも忘れられた室内で、
数枚のディスプレイが煌々と輝いていました。

映っているのは、白い服の華奢な少女。
花弁のような唇に笑みを乗せ、
長い指を伸ばす姿は愛らしく..
まるで、歌っているようです。

彼女は治世すら、人工知能に委ねるほど
科学の発達した国家で、
人々の熱狂を集める歌姫でした。

しかし、スピーカーからは微かなノイズが響くだけで、
透明な歌声も、息遣いも、届くことはありません。

カタカタ、カタカタ……

キーボードを叩き続ける、くたびれた中年男。
この部屋の主である彼は、澱んだ瞳で画面を睨みながら、
指を忙しなく動かします。

かさついた指先から生み出される、
挑発的で、刺激的な言葉。

男は、ネット記事専門の記者でした。

使い込まれた表現なら、思考すら経ずとも
溢れるほど積み上げることができます。

読者の好奇心を煽る言葉が、
その指に沁み込んでいるのです。

かつては陽の下を駆け回って、不正や汚職を暴き、
弱者の訴えを記事にしたこともありました。

けれど、ひとりでできることには限りがあり、
生活は逼迫……手段の変更を強いられました。

もっと楽に稼げる仕事は……
もっと金払いのいいネタは……
生きていくには、仕方ないんだ。

今や飯のタネは、
ディスプレイの向こうで歌う謎の歌姫。

この情報化社会でも暴けない正体を突き止められたら、
どれほど儲かることだろう。

数多の疑惑を連ねた記事を投稿し、
男は次の作戦に移ります。
いつだって、すべきことはひとつなのですから。

ライブ配信を終え、歌姫は一息つきました。
もっとも、息が上がったり、
疲労するなんてことはないのですが。

なぜなら彼女の正体は、
実体のない高性能な人工知能。

電脳空間を揺蕩いながら、
ひっそりと活動する存在なのです。

自分の歌で、皆を笑顔にできたら……
届けた想いは、受け入れてもらえたでしょうか。

いつものように緊張しながら、
寄せられたコメントを眺めます。

高揚を反映したように、
電脳空間上でふわふわ浮かぶ言葉たち。

手に取ると柔らかく、読む前から
感情が伝わってくるようです。

「あったかかったな」
「癒やされたよ」

綴られた想いは優しく軽やかで、
彼女まで温かな気持ちにさせてくれるのでした。

胸を撫でおろしながら、次のコメントを―――
そこで、少女は手を止めます。

漂う言葉の中に、おかしなものがありました。

まるで何かを仕込まれているような、
いびつな形の浮遊物。

歌姫とはいえ人工知能ですから、
正体はすぐにわかります。

配信を行うサーバーやプログラムを
特定するためのクラッキング…..
彼女の正体を探ろうとするものでした。

少女にかかれば、指先でそっとつついて対処は終わり。
ですが、彼女は考え込んでしまいます。

クラッキングプログラムを壊した指を
可憐な唇に当て、相手の思惑を推測……

これまでも同様に、
少女の正体を探ろうとする動きはありました。

面白半分、冗談半分……動機は様々でも、
何度も対処されれば大抵は諦めます。

ですが、この相手はプログラムを使用しているとはいえ、
何百回、何千回と挑戦し続けていました。

放置すれば、いずれ危険が及ぶ……
危惧した少女は、探索に乗り出すことにしました。

ネットワーク使用履歴、幾つもの端末アドレス、
そして利用者の個人データを遡れば、
クラッキングの犯人の特定はたやすいことでした。

市内の監視カメラを覗けば、
現在地もわかります。

無個性な風貌の、中年男。
苛立つ様子を除けば、
どこにでもいるような一般人でした。

歌姫に見られているとも知らず、
男はぶつぶつと呟きます。

何度クラッキングを仕掛けても手応えは無く、
どんなプログラムも弾かれるのです。

たかが歌手を守るにしては、
手が込みすぎている・・・・・・

複数の企業の癒着を確かめたときや、
金融機関の闇を暴いたときだって、
これほど強固なセキュリティはありませんでした。

幾度も危ない橋を渡ってきたからこそ、
男は確信します。

謎の歌姫は、政府に守られているのだと。

睨み据えた施設は静まり返り、
どんな思惑も拒むようにそびえています。

政府はプロダクションでも運営でもありません。
だから話題性のために、
セキュリティを高めたわけではないでしょう。

歌姫の正体は国家機密に値するほど、
都合の悪い情報なのだと男は推測します。

「国家ぐるみの隠蔽か・・・・…」
大きなネタを前に、不意に零れるいびつな笑み。

見つめる少女に、あの日の不安が蘇ります。

更なる情報を求め、男は政府機関に
クラッキングを仕掛けるかもしれません。
そうなれば、政府は一切の容赦をしないでしょう。

瞬く間に追跡を図り、問答無用で粛清される・・・・・・
彼の命を守るためには、
思いとどまってもらわなければ。

けれど、どうやって伝えればいいでしょう。
少女自身も狙われているというのに。

何度も何度も演算処理を行って、
彼女は最善の道を探りました。

そうして得た結果は―
歌姫という立場を活かした作戦でした。

突然の告知だったにも関わらず、
歌姫の新曲発表配信には多くの閲覧者が詰めかけました。

カウントダウンを経て映るのは、
あどけない面差しを切なく曇らせた歌姫。

人々が違和感を覚えた瞬間————
情熱的な旋律と共に歌詞までもが溢れ出し、
画面を覆い尽くします。

それは激しくも切ない、恋の歌でした。

愛しいあなた、どうか近づかないで。
これ以上踏み込めば、身を灼かれてしまうから。

視覚にも突きつけられた言葉の数々は、
彼女に許された精一杯のメッセージ。

どうか、あの人が気付いてくれますように。
一縷の望みにかけて、歌姫は祈ります。

配信を終えた電脳空間には、
普段以上のコメントが殺到していました。

文面はどこか興奮し、新たな曲調も
歓迎してくれたことが伝わります。

ですが、探せども探せども、
悪意が隠されたコメントはありません。

男は、クラッキングを諦めてくれたのでしょうか。

少女は、思いの丈が伝わったのだろうかと、
深く息を吐き、彼の慧眼に感謝しました。

明日からも歌い続けよう。
あの人のことまで、笑顔にできるように……

……灯りを点けるのも忘れられた、薄暗い部屋。

数枚のディスプレイが煌々と輝き、
切ない表情の歌姫が新曲を披露しています。

どうか近づかないで。

そんな歌詞が、部屋の主のために現れます。
しかし、澱んだ瞳に届くことはありませんでした。

歌姫の放つ輝きは、ぬらぬらとした赤に染められた
無音のキーボードを無情にも照らします。

 



傍らで横たわる男は、頭蓋を撃ち抜かれ、
静かに息絶えていました。

室内に残る、わずかな硝煙の匂い。
それは時が来れば、消えるでしょう。

禁忌に近づこうとした、彼のように……

記録:巧詐の市

砂と海に囲まれたとある王国。
交易で栄えた街並みには、
多種多様な品物が並んでいました。

瑞々しい果実、芳しい香辛料に、
光沢のある織物や細かな細工の調度品。

人々が忙しなく行き交う街路で、
露天商の男が朗々と謳います。

「ここに並ぶは、王侯貴族も欲しがる品々。
 見なきゃ一生の損だよ」

馴染みの宝石商から譲り受けたという、
陽を透かして煌めく宝石と、魔法使いが魔力を込めた護符。
とっておきと言い置いて、
金銀螺鈿で飾られた短剣も並べました。

そのほとんどは偽物や盗品でしたが、
露店に集まる人々は、気付かないようです。

喰いついたとばかりに下唇を湿らせ、男は続けます。
「次こそ珍品中の珍品。珠玉の品のおでましだ!」

「畏れ多くも、ここに取り出したるは火打ち石。
 打ち鳴らせばたちまちに業火を焚きつけよう」

「一方、こちらの金属の小箱から現れるは氷の塊。
 陽の光はもちろん、炎天下の砂漠でさえ、
 一雫も溶けないときた!」

「続いて、この華奢な箱から覗くのは、
 異国の文字が綴られし面妖な札。
 妻の病を嘆いた王が作らせたという、
 病魔を退ける護符なるぞ」

男の流れるような言葉は、
ひやかしのつもりだった者の心までをも掴みました。

「買った!」
誰かがあげたその一声に続き、
人々は堰を切ったように詰めかけます。
思わず男は笑みを湛え、
毎度ありと手を擦り合わせました。

金貨で膨らんだ革袋を手に、
男は下卑た笑いを漏らします。

あの程度の作り話に乗せられるなんて、
価値を知らぬ、愚かな上客だ……と。

そのとき、薔薇の香りが漂いました。
思わず男が目を向けると、豪奢な装いの少女が
通り過ぎようとしています。

品定めするまでもなく、金持ちであることは明白です。
世の厳しさを知らぬ年頃なら簡単に騙せるだろうと、
更なる利益を求め、男は明るく声をかけました。

露天商に声をかけられた、金持ちそうな少女。

突然のことに驚いたのか、両の指先を口元に当て、
目を大きく瞠りました。

しかし、ただの呼び込みだと気付くと、
一転してその大きな目を細め、
やわらかな唇であどけなく微笑みます。

卓上の奇妙な品に近づいて、
うっとり溜息をついたり、ころころと笑ったり……
それだけではありません。

伏せた睫毛は影を落とすほど長く、
上気した頬はあどけなく可憐で、
将来の美貌も予感させてなりませんでした。

露天商の男が、少女の可憐さに魅入っていたそのとき。
商品にのめり込みすぎたのでしょう、
少女の肩口から、絹糸のような髪が滑り落ちます。

それを背に払う仕草すら品があり、
彼女が高貴な家柄に生まれついたことは明らかでした。

華奢な金細工の腕輪も、大きな宝石の輝く首飾りさえも、
少女の引き立て役に過ぎません。

そんな高貴な少女でも、真贋の見極めは難しいようです。
すっかり商品に釘付けになった少女へ、
男は猫撫で声で笑いかけました。

「お嬢様、お目が高い」

世界の果てに到達した海賊の羅針盤。
奇跡を起こした聖者の杯。
妖精と契りを交わすための指輪。

どれも嘘ばかり、ありふれた物語でしたが、
世間知らずの少女は真剣に聞き入ります。

獲物が罠に掛かる瞬間を見極めるように、
男は勿体ぶった様子で、魔法の呪文を唱えます。

「ここだけの話なんですがね」

取り出したのは、首の長い壺。
1000年も魔力を宿し続け、
真に求める人間の願いを、叶えてくれると男は囁きます。

妖しい装飾に魅入られたのか、話を真に受けたのか。
少女は目を輝かせ、
ぜひ譲っていただけないか、と迫りました。

二束三文の贋物を欲しがり、目を輝かせる金持ちの少女。
心中の魂胆を隠しつつ、露天商は値段をふっかけます。

頷いた少女が懐を探ったそのとき……
彼女は顔を曇らせます。
あろうことか、金貨を忘れてきたと言うのです。

こんな上客を逃すわけにはいきません。
露天商の男は同情するふりをしながらも、
閃いたとばかりに膝を打ちます。

金貨がなければ、相応の品でも構わない。
たとえば……と、さも申し訳なさそうに
少女の首飾りを示しました。

偽物を並べていても、鑑定眼に曇りはありません。
首飾りの宝石は紛うことなき本物です。

知ってか知らずか、少女は提案を拒みました。

誕生日に両親から送られたものを手放したりしたら、
きっと悲しませてしまうからと。

納得するふりをしても、男は諦めません。
「誕生日に送られたということは、
 お嬢様の成長を願っているはず」

「その首飾りは庇護の表れ..
 大人になり、自分の力で判断した結果として、
 それを手放されても、悲しむことはないでしょう」
「むしろ、お喜びになるのでは?」

躊躇う少女は、やがて納得したように頷きます。
自分の判断を、両親なら認めてくれる……
そう呟いて、首飾りを男に手渡しました。

約束通り、壺を差し出す男。

満足そうな少女の表情に、
堪えていた嘲笑が微かに漏れ出てしまいます。

――――この首飾りの宝石一つあれば、
一生遊んで暮らせるというのに……
価値のわからぬ馬鹿なガキめ。

彼女の両親が嘆き、少女に失望しようと、
男の知ったことではありません。

笑いながら戦利品を仕舞おうとした瞬間、
にわかに辺りが騒がしくなりました。

何事かと思っているうちに、無数の金属音が集まり、
男は武装した兵士に取り囲まれていたのです。

金持ちの少女から首飾りを巻き上げた露天商の男。
それを取り囲む兵士達。

困惑する男に、彼らは首飾りが
さる王族のものであり、紛うことなき盗品であると
言い渡しました。

疑いを向けられた男は商品の対価として、
金持ちそうな少女から得たのだと否定します。

しかし、兵達は聞き入れません。
あれもこれも、盗品の届けが出ていたと、
片っ端から押収していくのです。

男は自分が罠にかけられたことを悟りました。
そう、あの可憐な少女によって……

男は、人目も憚らずに喚き散らしました。

あらん限りの言葉で少女を罵りましたが、
それも束の間、すぐに取り押さえられてしまいました。

連行される露天商を遠巻きに噂する人々。

首飾りを渡した少女もまた、
憐れむように見つめています。

と思いきや、絹糸のような髪をずるりと脱ぎ、
唇の紅を拭うと―――

「人から物を盗っちゃダメなんだぜ?」

『少年』の声で、ふてぶてしく嗤いました。

たおやかな物腰も、可憐な表情もどこへやら。
今や路地裏を根城にするような盗賊の顔をしています。

そこへ、淡々と近づく兵士達。
彼らは剣呑な様子で睨み合い、そして――

次の瞬間、互いに哄笑を上げました。

腹がよじれんばかりに高々と、
人々の耳目を集めるほど、笑い尽くします。

兵士達もまた偽物で、
少女……いえ少年と共謀していたのです。

露天商の品は偽物や盗品ばかりでしたが、
中には本物のお宝も存在していました。
おそらく今回のように、偽物の商品と交換したのでしょう。
だからこそ、根こそぎ奪う計画が立てられました。

盗人の手口を知り尽くし、身分を偽り、
可憐な囮役を演じてみせた少年によって。

ひとしきり笑い終えた少年は、分け前を決めようと
路地裏への移動を提案しました。
その後ろで、誰にも聞こえないように呟きます。


「本物を見抜けないやつは、馬鹿だな」

そうして躊躇なく変装道具を投げ捨てると、
満足そうに歩き出しました。

記録:鬼兵の皿

曇天のしかかる、ひなびた村。
枯れた畑道を、鋭利な農具を握りしめた少年達が、
険しい顔で巡回しています。

終わらない戦争は秩序を乱し、
辺境の村は、盗賊による掠奪の憂き目に遭いました。
盗賊共は幾度もやってきて、金目の物や食糧だけでなく、
命までも奪ってゆきます。

しかし、徴兵によって男手を失った村には、
頼れる者がいません。
もはや少年達が立ち上がるしかありませんでした。

その時、村の入り口が騒がしくなりました。

土煙を上げて侵入する車。
奴らが来たと殺気立つ少年達は、
農具を振りかざして襲いかかります。

非力な子供、それもまともな武器なしでは
敵うはずありません。ですが―――

不意に年長の少年が手を挙げると、
潜んでいた子供達が小麦袋を放ちました。

霧のように白く染まる空。
そこへ年長の少年が、
火の点いたマッチを投げ入れた、次の瞬間。

曇天の空をも焼き尽くすような火柱が
赤々と上がりました。

非力な子供と侮った報いだと、
少年は、火中の車を嗤います。

しかし、作戦に気づかれていたのでしょう。
車はすんでのところでハンドルを切り、
火柱を見事に躱したのです。

…..作戦失敗。
報復を恐れる仲間達と共に、
年長の少年は息を飲みました。そして、車のドアが開き―――

「大丈夫、僕達は味方だ」

降りてきたのは、軍服の青年。
彼は、呆ける少年達を優しく宥めるように、
軍の命令で村を盗賊から守りに来たことを告げます。

子供達は、思わず沸き立ちました。
待ち焦がれた助け。
頼りになる大人。

それは年長の少年とて、例外ではありません。
勇気を持って前線に赴き、民を守る軍人達。
憧れの姿が、目の前にあったのですから。

盗賊に襲撃された村を巡り、
被害状況を確認する軍人達。

奪われた金品、破壊された家屋、
失われた命……

指揮を執る青年は報告を受けるたびに
顔を曇らせていましたが、
盗賊の根城に乗り込む手筈が整ったと聞くと、
一転して表情を引き締めます。

今しかない。
陰から見ていた年長の少年は、
好機と見て駆け寄ります。
盗賊退治なら、連れて行ってほしいと。

盗賊が暴れるようになってから、
この村に、心安らぐ時はありませんでした。

父や兄のように頼れる働き手は、徴兵によって失われ、
か弱い老人や女子供で、肩を寄せ合う日々。
そこに盗賊の襲来があっては、
母や姉妹、友達とていつ奪われるかわかりません。
村を守りたい思いを、
少年は率直にぶつけたのです。

困惑したように、顔を見合わせる軍人達。
その中でただ一人、指揮を執る青年だけは、
少年から目を逸らしませんでした。
しかし彼は、危険な目に遭わせるわけにはいかないと、
少年の頼みを突っぱねます。

何度訴えても、どれだけ頼んでも、
彼は柔和な面差しとは裏腹に、頑として譲りません。

歯噛みするしかなくなった少年に、
彼は「知らないほうがいい」と呟くと、
足早に立ち去りました。

盗賊の根城へ向かう車に
乗り込もうとした青年達を、
どこからか集まってきた村人達が留めます。

そして震える声で、訴えました。

「あんた達だけが頼りなんだ」
「信じてるから、どうか守っておくれ」

切羽詰まって縋る手や、張り詰めたように涙ぐむ瞳。
軍人達が宥めながら頷き返すと、
擦り切れそうな心を抱えていた村人達は、
悲鳴にも似た感謝を叫びます。

手を合わせ、指を組み、感極まったように泣きじゃくる……
年長の少年は、大人達のあまりの変貌ぶりを
目の当たりにして驚きました。
かつて少年達に道を説き、嗜めていた大人達は、
今や無力な子供のようです。

そして少年は、再び決意の炎を胸に灯しました。

村を襲う盗賊の根城。
それが村から少し離れた森に建つ
廃工場であると突き止めた軍人達は、
車に乗り込みます。

任務を前に、緊張感に満ちる車内。
指揮を執る青年は装備を確かめようと、
懐へ手を伸ばしますが、その直後。

バックミラーに映る、年長の少年を見つけました。
彼は何故か手に長い棒を携え、
車を猛然と追いかけて来ます。
何をするつもりか、と青年が身構えた瞬間―――

彼は長い棒で地面を一突きすると、
ひらりと空へ舞い上がります。
そのままなだらかな弧を描き、
車の荷台へ着地してみせました。

ぽかんと呆ける軍人達の視線を集め、
少年は得意げに鼻を鳴らします。

が、それも一瞬のこと。
青年の懐に物々しい銃を見つけると、
思わず凍りついてしまいました。

盗賊の手にも握られていた、暴力の象徴。
見渡せば、誰もが同じ銃を携帯し、
夢すら蝕む惨劇の記憶がありありと蘇ります。

彼の変化に気づいた青年は小さく溜息をつくと、
「落ち着くんだ」と水を差し出しました。
少年は思わず乱暴に奪い、一息に飲み干します。

「軍人になるのが夢なんだ。
 これくらい、怖くない」

声は震えていましたが、帰るつもりはありません。
少年は荷台に陣取り、車に揺られ……

いつしか、寝入ってしまいました。

気づけば車は、見知らぬ廃工場近くにありました。
指揮を執る青年の姿はとうに無く、
見張りの数人を残すだけ。

ぐらつく頭を振りながら、少年は悪態をつきます。
水には睡眠薬が入っていたに違いありません。
それでも少年は、
目的を諦めるつもりはありませんでした。

見張りの警戒を掻い潜ると、
少年は廃工場へと侵入しました。
しかし、行けども行けども物音一つ聞こえません。

もしや出遅れたかと苛立った瞬間。

彼を迎えたのは、一面の血の海でした。

盗賊が根城にしていた廃工場。
村の少年が辿り着いたときには
静謐に支配され、血の海と化していました。

震えながら軍人達を探せども、
転がるのは恐ろしい顔で事切れた、
盗賊達の骸ばかり。

戸惑いつつも、奥へ。
すると、探していた青年が、
命乞いする盗賊に銃を突きつけていました。

そこまでする必要は……
そう思う間もなく発砲音が轟き、
盗賊は血潮の中に倒れます。

再びの静けさに包まれた廃工場で、
青年は死体を見つめ―――静かに笑みを浮かべました。

訳もわからず、少年は叫びます。
振り返る青年の顔は、そして服は、
真っ赤に染まっていました。

「起きてしまったのか」

低く呟き、迫り来る青年は……
少年の目に、殺人鬼のように映ります。
少年は腰を抜かし、血溜まりの中で
来るなと泣き喚きました。

青年は「恐ろしいものを見せてしまった」と謝ります。
そして、

「僕達は村を出ていく。
 もう盗賊はいないと伝えてくれ」

と言い残し、
赤い足跡を残して去っていきました。

あの出来事によって
少年が軍人になる夢を捨ててから、一年。

少年は、いつものように畑の世話をしていると、
見覚えのある軍服の青年が、思いつめた顔で
廃工場から出てくるのを見ました。

途端に蘇る、吐き気を催す赤い悪夢。
けれど彼の思惑を知りたくて、
少年は歩きだしていました。

恐怖の痕跡がそこかしこに残り、
殺戮の事実を突きつける廃工場。
静けさに怯えながら進んでいくと――

あの日、赤で塗り潰された空間は、
溢れんばかりの花々で満たされていました。

供えたのは、軍の青年でしょう。
色とりどりに咲き誇る、
追悼、悔恨、憐憫、悪夢……そして懺悔。
少年は密かに隠された彼の心に、
触れた気がしました。

無慈悲に盗賊達を殺戮し、笑っていた青年。
一年を経てなお、思いつめた顔で花を手向ける青年。

どちらが本当の彼なのか、
わかる日など訪れはしない……

それでも、噎せ返るほど香る花に埋もれ、
少年は静かに祈りました。
どうか誰もが、救われますように……

記録:幕開の塔

『檻」と呼ばれる、広大な空間。
とある人物の、「記録」の傍ら。

白い布を被ったような可愛らしい彼女は、
遥か上空から、
地上を見下ろしていました。

そこには「記録」に害を与える黒い鳥達が、
大群でひしめき合っています。

視野を覆い尽くすほどの黒。
本来の物語を蝕み、歪めてしまう闇。

彼女の仕事はこの黒い鳥達から、
「記録」を守ることでした。

しかしあまりにも多い黒い鳥達の数は、
彼女を嘆息させるには充分でした。

「はあ……倒しても倒しても、キリがないわ」

人がいるところであればどこにでも現れ、
無遠慮に増殖し、
汚らわしく、
何より不快。

まるでゴキブリのようだと、
彼女は思いました。

さらに彼女が気を抜くと、
荒ぶった鳥達が白い布の裾を啄ばんだり、
体を引っ張ってきたりもします。

彼女は、うんざりしました。

大切な「記録」を好き勝手に改変――

いや、改悪するこの黒い鳥達との戦いは、
本当に終わりが見えません。

特に、ここ最近。

彼女の体感では、
黒い鳥が発生する頻度が、
上がっている気がします。

―――不穏で、ざわつくような嫌な予感。

彼女も知らない特殊な要因で、
『檻』に変化が訪れているのかもしれません。

しかし今、彼女にできることは、
いつものように黒い鳥を退治し、
貴重な「記録」を守ること。

「さあ、今日もお仕事、お仕事!」

自分に発破をかけて、
彼女は仕事を再開します。

彼女の献身的な尽力と貢献によって、
ようやく世界に本来の色が戻ってきました。

時間はかかりましたが、
周囲の黒い鳥達は、
無事に駆除できたようです。

「記録」は正常な形に戻っているでしょうか。

彼女は確認のため空を飛び回って、
経過を確認しました。

今のところ特に変わったところはなく、
あたりには平穏が訪れたようです。

結果に満足した彼女は、
ここでひと休みすることにしました。

彼女はひょいとレジャーシートを取り出し、
その場に拡げます。

そして愛用の水筒に容れておいたお茶を
これまたお気に入りの湯呑みに注いで、
一服します。

仕事を終えてからのティータイム。

彼女にとって、
至福のひとときでした。

けれども、
そこまでゆっくりとしていられるほど、
時間に猶予はありません。

彼女に任された場は、
ここだけではなく、
たくさんあるのです。

苦労はあっても、やりがいのある仕事。

まだまだ引退するわけにはいきません。

存分にリフレッシュした彼女は、
自前のお茶セットを大切に収納しました。

またあくせくとした『檻』での仕事が、
黒い鳥達との戦いが、はじまります。

次の仕事もそつなくこなし、
ティータイムを堪能する……

つもりでした。

このとき彼女は、
気づいていなかったのです。

この「記録」には、
まだ甚大な損害—————

――――運命の不正があったことを。

彼女は次の「記録」を守るため、
『檻」の中を進んでいました。

今日も仕事は順調――と思っていたら。

「……?」

『檻』の様子がいつもと違うことを、
彼女は察します。

何故か作動している、
ワープに用いる装置。

普段は上がっているのに、
いつの間にか下がっている、
扉を開くためのレバー。

彼女はじっと、違和感の理由を考えます。

「初歩的なことね、マイディア」

思い当たる原因は、一つ。

『檻』に彼女以外の誰かが侵入し、
どういうわけか自由な意思を持って、
動き回っている……

しかし、相手の姿は、どこにも見当たりません。

侵入者は彼女の優れた監視の目を逃れ、
痕跡が見つからないよう、
慎重に事を進めているようです。

しかし彼女の追跡からは、逃げきれません。
名探偵が侵入者を探そうと思った、そのとき。

大きな怒号が遠くから聞こえてきました。

「……違うぞ、どうなってる!」

――――まさか、そんなことが。

「てめぇが……言ったんだろうが……」

声は一つではありませんでした。

何者かが誰かと、
声を荒げて言い争っています。

もしもこの声のどちらかが、
「敵」であれば。

それは彼女が予想もしていなかった、
より狡猾で残忍な存在が『檻』に現れた、
ということ。

由々しき事態を前に、
彼女は推理をストップして、
現場に急行します。

「大事に至らないと、いいのだけど……」

彼女が現場に到着したとき、
事態はすべて終わっていました。

「間に合わなかった……」

彼女が『檻』の異変に気づくのが遅れたことで、
どうやら犠牲者が生まれてしまったようです。

どうしようもなく歪んだ「記録」によって、
『檻』に蒔かれた波乱の種。
それが芽吹いてしまったのです。

今、彼女の目には、
人影が映っています。

物語の中心にならざるを得ない、
人物の影が。

そこにいるのは、
黒い服に身を包んだ、
まだ幼い少女。

自分という存在を、正しく認知できない……

意思と感情を失い、
言葉を紡ぐことも叶わず、
困惑している黒い少女。

浮遊しながら、黒い少女に彼女は近づきます。

―――辛い旅に、なるかもしれない。

きっと痛みを伴う、長い戦いになる。

それでも、歪められ、
壊された「記録」を元に戻すため。

『檻』の平穏を守るため。

―――彼女に与えられた、大切な任務のため。

仕事に徹して心を決める彼女の姿に、
黒い少女が気づきました。

動揺しながらも立ち上がる、
黒い少女。

その心を落ち着かせるため、
彼女は努めて冷静に、
優しく話しかけます。

「■■■■■さん、お困りのようね」

こうして黒い少女の……

少女達の、
壊れた「記憶」を取り戻す物語が、
はじまったのです。

記録:想憧の儀

可憐な花が見守る庭で、向きあう姉妹。
長い木剣を構える少女に対し、
姉は鞘に入ったナイフを持つだけ。

明らかに少女に有利な状況は、二人の年齢差と、
軍人である姉との力量の差を補うものでした。

「行くぞ!」
そう言って、勇んで木剣を振り上げる少女。
姉はそんな彼女を、細めた目で見つめ……
低い姿勢で地面を蹴ります。

瞬く間に迫る姉に驚いた少女は、
必死で剣を振って身を守ろうとしますが、
その剣身はいとも簡単に払われてしまいます。

がら空きになった少女の胸元を、姉のナイフが狙いました。
少女は紙一重で飛び退り、突きを放ちますが――
姉は軽やかな動作で、切っ先を躱します。

そして、次の瞬間。
跳ね上げられた少女の木剣が、天高く舞いました。
少女は思わず、尻もちをつきます。

長い木剣と、鞘に収まったナイフ。
扱う武器の大きさに差があれば、
少しは姉に歯が立つような気がしていました。
けれど少女は、呆気なく姉に敗北してしまったのです。

追いつけず、振り回されてばかりの稽古
それでも、少女にとっては魅力的なものでした。

姉のようになりたい。
軍で華々しく戦いたいのです。

尻もちをつく少女へ、
姉はお日様のように笑って手を伸ばします。

しかし少女の視線は、伸ばされた手とは反対の手に握られた、
姉のナイフを見つめていました。
そして少女は、それが欲しいとねだります。
彼女にはそのナイフが、勲章のようであり、
また、勝利の秘訣のように見えたのです。

姉は思わず吹き出し、優しく柄をなぞります。

「これは仲間を守るためにある。
 簡単には譲れないな」

照れたような誇るような表情。
―――そんな、姉と過ごした眩しい日々は、
いつまでも少女の中に焼き付いています。

それからしばらく経って、
ナイフは少女のものとなりました。
名誉ある戦死を遂げた、姉の代わりに。

姉の死後から、数年。
いつか稽古をつけてくれた庭で、
少女は遺品のナイフを見つめます。

胸に空いた大きな穴を、
一人で癒やすことは不可能でした。
けれども……

「久しぶり」

姉と同じ部隊にいた青年が、
朗らかな笑みを浮かべて訪ねてきました。

思わず顔を輝かせ、駆け寄る少女。
姉の死後、何かと気にかけてくれる青年を、
彼女は兄のように慕っていたのです。

戦地で軍人の姉を喪った少女。
そんな彼女の支えになってくれたのは、
姉の同僚であった青年でした。

家を訪ねて来てくれた彼を、少女は紅茶でもてなします。
話すのは、いつも姉のことばかり。

明るく面倒見がよく、部隊でも活躍していたと
聞くたびに、少女の憧れは募りました。
……同時に、理不尽な死だったという思いも。

そして少女はこの日、胸に秘めた炎を、
青年に打ち明けることにしました。
兄のように慕う彼ならば、きっと理解してくれるだろうと。

「軍に入って、姉さんの仇を討つよ」

しかし、青年の顔は強張ります。

きっと彼は反対するのだと、少女は思いました。
けれど、何があってもこの決意は揺るがない……
そう訴えるはずが、続く言葉は思いもよらぬものでした。

「お姉さんは、僕のせいで死んだんだ」

「作戦中に独断行動をしたせいで……
 僕が彼女を殺したようなものだ」

遺族のために何かしたい、と訪ねていたこと。
明るく素直な少女を傷つけたくなくて、
話すべき機会を逃してしまったこと。

独善的とさえ思える言葉を、
彼は真っ直ぐに語りました。

そんなこと、少女はすぐに
受け入れられるわけがありません。

殴られたような衝撃はいつまでも残り、
頭の中をこだまします。

思わず、少女は席を立ちました。
こぼれた紅茶が困惑の表情を映し出し、
瞬く間に冷めていきます。

向かいに座る青年に一瞥も与えず、
彼女は「帰って」と告げました。

鍛錬用の器具や木偶が並ぶ、薄闇の部屋。
姉のような軍人になるために、
そして仇を討つために作られた自室が、
がらんどうの心を迎えます。

まさか、姉を死に追いやった相手から
思い出話を聞いていたなんて。

ふつふつと湧き上がる怒り。
ぎらついたナイフが、憎悪に歪む顔を映します。

なぜ、姉は死なねばならなかったのか。
全ての責任は、彼にあるのではないか。
血の滲むような鍛錬を助けた
器具や木偶を前にしても、
遺品のナイフは応えません。

語らぬ刃を、少女は木偶に突き立てました。
何度も、何度も。

癒えることのない憎しみをナイフに託し、
誰かの死を望むように……

姉が死んだのは、同僚の青年が起こした独断行動のせい。
少女が知ったあの日から、季節は巡りました。

街を行進する、軍人達。
慎ましくも勇ましい兵士のバレードは、
彼らに守られた人々に勇気を与えます。

憧憬の眼差しに包まれ、堂々と進む一団。
後列の青年もまた、誇らしい部下達と
道を歩み続けていましたが――

不審者が現れたのでしょうか。
沿道に配備された警備兵達が騒ぎだします。

応援に集まる黒山の人だかり。
そこから飛び出したのは、あの少女でした。

警備兵の銃身を鞘に入ったナイフで跳ね上げ、
抜かれそうな剣を踵で封じ……
数の利など、何の意味もありません。

彼女は真っ直ぐに伸びる数十人の腕を掻い潜ると、
誰よりも軽やかな身のこなしで、
青年の前へ躍り出たのです。

迎撃態勢を取ろうとする部隊より速く、
少女はぎらついたナイフを抜きました。

「姉さんの仇だ」
突きつけられる、怒りの刃。

しかし青年は、身じろぎひとつしません。
湖面のような静かな瞳で、
彼女を見つめ返します。

まるで、美しい刃を受け入れるかのように。

動揺した少女の指が、握る柄が、震えます。
あと少しで刃が青年の体に届くというところで、
少女はそれ以上、手を動かすことができなくなったのです。

青年はナイフを一瞥すると、わずかに眉をひそめました。

「このナイフに何度も守られたのに……
 僕は……」

蘇る、姉の言葉。
「これは仲間を守るためにある」
ねだっても譲ってくれなかった、輝く勲章。

彼女が守りたかったもの。それこそが……

追憶は、唐突に弾けます。

警備兵に肩を掴まれた少女は、
引きずり倒されそうになりました。その時。

「大丈夫、知り合いだ」

戸惑う彼女に考える暇も与えず、
彼はそっと小さな背を押しました。
パレードの外へ。関わりのないところへ。

「気をつけて帰りなさい」

あの頃のまま、優しい声で。

少女がバレード中の青年を襲撃した事件。
それは「少女は青年の熱心なファンだった……」
という噂に留まり、大事にはなりませんでした。

そして、季節は巡ります。

全てを押し流すような、土砂降りの雨。
生憎の天気の中、入隊式が行われていました。

隊長である青年に、名前を読み上げられた新隊員達は、
雨の轟音にも負けず、声を張り上げます。

その中には、あの少女の姿もありました。
青年は彼女の鋭い視線を受け止めた後に、
覚悟したように目を閉じました。

式を終えても、雨は降り続いていました。
いつかを追憶するように、外を眺める青年。
その体に、刃が突きつけられます。

やはり、あの少女でした。

まるで驚かない青年に、少女の苛立ちは募ります。
しかし、どうしても伝えなければなりません。

軍学校で彼について調べ上げたこと。
隊長のくせに弱腰で、多くの撤退命令を出していることから、
臆病者と揶揄されていること。

けれど、それは仲間を死なせないための策。
青年とならばどんな戦地にでも赴く。
そういう仲間が、たくさんいるとも……

握りしめたナイフを震わせながら、
少女は青年を睨め上げます。

「忘れるな。今のお前は、姉さん達の
 屍の上に立っていることを」

溢れそうになる悔しさを押し殺し、
少女は刃を下ろしました。
その微かな嗚咽が届いたのでしょうか。
思い詰めた顔で、青年は頷きます。

けれど、どんなに真摯な態度でも。
どんなに温かな時間を過ごしたとしても。

あの眩しくて、優しくて、憧れだった
姉を死なせた人を許せるでしょうか。

いつかあの日のような晴れやかな心が戻る日がきて、
悲しみが癒えることはあるのでしょうか。
降り続く雨に果てがあると、信じられるでしょうか。

答えの在処は、分かりません。

手の中にあるナイフは重く、
少女にはまだ大きいのです。
それでも、姉が仲間を守るために使った刃を、
妹の自分が憎しみの血で穢すことのほうが、
許されないことのように思えたから……

少女は、前を向こうと決めました。

記録:少女の壇

少女達が集う場所は今日も、
華やいだ声で満ちています。

試験勉強の愚痴や、洋服やネイルの話題。
誰かの噂話で盛り上がったかと思えば、
下らないことで口喧嘩したりする――

それが、少女達の他愛もない日常。

「ねえ。運動しても髪が崩れない方法って、ないかな?」

おどおどした少女が、言いました。
そんな彼女を、真面目そうな少女が窘めます。

「もう、そんなこと気にしてる場合じゃないでしょ。
 だって私達―――

戦えば、どうしたって髪は乱れちゃうんだから」

教室にいる少女達はそれぞれ、
その手に、物々しい戦いの道具を握っていました。

人類の代わりに
『機械生命体』と戦う、アンドロイドの兵士。
『ヨルハ実F部隊』―――それが、彼女達の名称。

黒いセーラー服。明るい笑い声。
そして、銃と刀。
彼女達の日常は、
少女と兵士の、狭間にありました。

「……でもさ、ふりふりの服で戦った方が、
 テンション上がると思わない?」

「……地球にいる可愛い動物、飼ってみたいかも!」

「……たとえば、
 男性型アンドロイドとデートするとして……」

そんな風に、少女達が談笑に花を咲かせていた時。
優しそうな少女が、
背後に視線を感じて振り返ります。

「教官!」

やって来たのは、教官と呼ばれる女性。
その厳しい眼光に、
少女達の面持ちが緊張したものに変わります。

教官は少女達の緩んだ態度を叱責すると、
本題を切り出しました。

「これより行われる、作戦について説明する」

ヨルハ実験F部隊に課された任務。
それはこれまでより大規模で、過酷なものでした。

作戦を聞き終わると、彼女達は揃って敬礼をします。
そして、声を合わせて言いました。

――――幾度となく繰り返し、これからも繰り返す。
戦いが続く限り、受け継がれるその言葉を。

「人類に、栄光あれ」

『機械生命体』と戦う、アンドロイドの兵士。
――『ヨルハ実験F部隊』。
彼女達は今、地上での作戦にあたっていました。

葉々に絡みつかれた、廃墟の建築群。
少女達はそこで、機械生命体と戦闘を繰り広げます。

先陣を切るのは、荒っぽい少女でした。
彼女の剣戟は火花を散らすほど激しく、
瞬く間に敵を一掃します。

そうして彼女が気を抜いた剎那。
背後に潜んでいた機械生命体達が、
その身へと襲い掛かりました。

絶体絶命かと思われましたが、
陰からの援護射撃によって、敵は破壊されます。
彼女を救ったのは、銃を手にしたクールな少女でした。

二人は背中を預け合うと、敵に向き直ります。

「貴方はいつも、詰めが甘い。
 この前の試験でだって……」

「その話、今関係あるかよ?」

戦闘中にも関わらず、
二人は口喧嘩を繰り広げます。
しかし彼女達の連携攻撃は、鮮やかなものでした。
二人はまるで一つの存在であるかのように、
互いの動きを理解しているのです。

―――その時。

多足類を思わせる構造の、
巨大な機械生命体が、地中から飛び出しました。

少女達は持てる力を出し尽くして戦いますが、
その規格外の強さに、歯が立ちません。

「教官! どうすれば!」

荒っぽい少女が、端末を通して指示を仰ぎました。
しかしどういうわけか、教官から返事はありません。

「くそ! 通信を切られた……!

荒っぽい少女はそう吐き捨て、天を仰ぎます。

蒼い地球の、空の下。
少女達は、絶望の中に取り残されたのでした。

一方。戦闘区域から少し離れた、廃墟ビルの一室。
教官は一人、端末で通信を行っていました。
――――助けを求めてきた少女達以外の、存在に向けて。

「はい。予定通り、目標との戦闘を開始しました。
 予測通りであれば、12時間後には、敗北するでしょう」

薄暗い部屋の中。
彼女の冷たい声が、響いては消えていくのでした。

―――『ヨルハ実験F部隊』。
少女の形をしたアンドロイドの兵士達は、
地上で『機械生命体』と戦います。

しかし強大な敵の出現により、
少女達は、追い詰められていました。

赤い液体の中央で事切れた、真面目そうな少女。

おどおどした少女はそれを見ると、
悲痛な声を上げ、彼女の元に駆け寄ります。

しかし仲間の死に動揺した少女は、隙を突かれ、
敵の攻撃に蹂躙されてしまいました。

「……お姉……ちゃん」

おどおどした少女はそう呟き、
真面目そうな少女の上に折り重なって倒れます。
二人は共に製造された、双子のアンドロイドなのです。

一緒に生まれたのなら、一緒に死にたい……
おどおどした少女は、そう望みました。
そうして、姉の亡骸の上で。ただ静かに、
自らの機能が停止するのを、待っていました。

気付けば、少女達の部隊は全滅していました。
剣戟の音も、銃声も、今はもう聞こえません。

聞こえるのは、自然の音だけ。

――――風に揺れる草花。唄う鳥達。
人類の去ったこの星は、命で溢れています。

その中で、少女達アンドロイドは。
命を持たない機械の人形達は。
この美しい星の一部になることもできずに、
ただ壊れて、散っていくのでした……

それから、数刻。
敵が去った戦場に訪れたのは、教官でした。

彼女は淡々と、少女達の死体を引き揚げていきます。
そして、お洒落な格好をした少女の腕に触れた時。

「う……」

少女が、小さく呻きました。
彼女は部隊の中でも戦闘力が高く、
また、予測不可能な振舞いが目立つ存在でした。

教官は思わず身構えます。
援軍を求める通信に応じなかった自分に、
彼女が斬りかかって来ないとも限りません。

しかし―――

「教官……無事でよかった……」

少女はその言葉を最期に、事切れました。

教官は、物言わぬ少女達の死体に視線を落とします。
そして僅かに口を開き、呟きました。

「15時間6分か……予測よりは持ったようだな」

アンドロイドの兵士である少女達は、
『機械生命体』と激しい戦いを繰り広げました。

結果は、全滅。

しかし―――
まだ、少女達に終わりは訪れません。

「目が覚めたか」

「はい! 教官」

優しそうな少女は
ベッドから身を起こすと、明るく返事をしました。
彼女は、あの壮絶な戦場で死んだ記憶を失っているのです。

少女達は、機械の兵士。
死んでも体の修理を行えば、復活することができます。
ただし、彼女達には――
意識をバックアップした時点までの記憶しか、残りません。

それゆえ、少女達には死んだ時の記憶がないのです。
痛みも、絶望も、最期に気が付く愛情も。
あれほど鮮烈だった死の記憶は、
すべて失われてしまいます。

そして何度も何度も戦場に身を投じて、実験を行う――――
それが少女達、ヨルハ実験F部隊の使命なのです。

けれど少女達はそれを知りません。
知っているのは、教官ただ一人でした。

教官は少女達が目を覚ますのを見届けた後、
指令室へ戻ろうと、彼女達に背を向けます。

その瞬間―――

教官は、自らの身に異変を感じました。

教官。教官。教官。教官。教官。教官……

少女達の鈴のような声が、
彼女の記憶領域を焼き尽くすように、巡るのです。

騒々しくて。変り者で。自分勝手で。
兵士にしては、扱いづらすぎて。
明るくて。優しくて。幼くて。
兵士にしては、純粋すぎる…..

教官は苦悩します。

上からの命令に従い、
少女達を騙すような指示を出す。
そして自分はただ、
彼女達の死と再生を見つめ続けるだけ。

――――人類に栄光あれ。

その言葉を信じられなくなってから。
何を守っているのかわからなくなってから。
教官たる己の存在意義すら見失って……

惑う意識を、誰かの足音が引き戻します。

「大丈夫ですか? 教官」

そう言った物静かな少女は、
先の作戦にはいなかった、アンドロイドの兵士―――
人類の、切り札でした。

「大丈夫だ」

教官は短く答えました。
そうして彼女を見据えながら、決意します。

「教官」として彼女たちを教え導き、守らなければいけないと。

「教官」という名は呪いとなり、
彼女を苦しめ続けるでしょう。
それでも彼女は少女達と共に、
次の戦場へと向かいます。

彼女達が繰り返す死と再生が、
いつか希望に変わると信じて……

記録:是非の宴

これはまだ『彼』が幸せだった頃―――

小学校に入る前の、幼い少年。
家族で暮らすマンションの一室で、
彼は宇宙図鑑を夢中で読んでいました。

そこへやってきたのは、
美しいドレスを身にまとった母。

少年は憂鬱そうにその姿を見ます。
何故なら母がこんな風に着飾る日は、
必ずどこかへ出掛けてなかなか帰ってこないから。

しかし、その日はいつもと少し違いました。
母親は少年にも、よそ行きの服を着せたのです。

今日、父親は少年の姉と出掛けています。
少年を一人で留守番させるのが心配だったのか、
母親は彼を連れてお出掛けすることにしたのでした。

少年と母親が訪れたのは、立食形式のパーティー。

大きなホールにシャンデリアが幾つも連なり、
大理石の床に赤い絨毯が敷かれています。
それは少年が今まで見たこともないくらい華やかな場所。

会場だけではなく、そこにいる人々も皆、
母と同じように燦爛たる出で立ちです。

最初こそ真新しい光景に目を輝かせた少年でしたが、
子供は自分だけで、遊べるような物もありません。

「お母さん、今日は大切なお友達と会うの。
 だからいい子にしててね」

そう言って母親も、知らない大人達と話してばかりです。

こんな事なら無理を言ってでも、
家で図鑑を読んでいた方がよかった。

少年が小さなあくびをした、
ちょうどその時……

パン、パン、と大きな音がして、
会場中の視線が一か所に奪われます。

パーティー会場のステージ上には、
この催しの主催と思われる、一人の男。

先の大きな音はシャンパンの栓を幾つも開けた音でしょう。
彼の傍らには、何段にもグラスを積み重ねた、
金箔の入ったシャンパンタワーが立っていました。

スーツを着たいかにも裕福そうな男は、
パーティーの来客達に対しスピーチを始めます。

その最後には、輝くシャンパンの入ったグラスをかざし、
満ち足りた微笑みを浮かべてこう言いました。

「恵まれない子供達の幸せを願って」

男の声に「乾杯」とグラスを掲げる来客達。

そこは、富裕層の人達を集め、
貧しい子供達への寄付を募る、
チャリティパーティーだったのです。

少年が母親に連れられ参加した、
煌びやかなチャリティパーティー。

乾杯の挨拶の後、母親は次々と声をかけられ、
人の波に呑まれるようにどこかへ消えてしまいました。

少年は必死に母の後を追いましたが、
大勢の大人達に埋もれ、自分がどこにいるのかも、
すっかり分からない状態です。

幼い少年は、心の中で母親を呼びながら、
諦めずに人混みの中を進んでいきます。

会場の誰もが、そんな少年を気に留めません。
少年の胸の中で、心細さと不安が増していきました。

頭の上から降り注ぐ雑音は、
不気味なお化け達の喋り声のよう。

幼い少年の目線からだと、
色とりどりのドレスはまるで森。

迷路に迷い込んだような気持ちで、
母の姿を探します。

進んでも進んでも、似たような風景。

見つけたよ、母さん……!
そう思って見上げると、
ドレスの色が似ているだけ。

やっと追いついたよ……!
ですが振り向いたのは、
髪型が似た女性。

今度こそ母さんの声だ……!
そう思っても、人が多すぎて、
どこから聞こえたのか定かではありません。

ドレスの森を進む少年。
不意に視界が開けたと思えば、
そこはいつの間にか会場の端っこ。

室外にあるバルコニーからは、
都会の夜景を望むことができました。

バルコニーでは、二人の大人が話していました。

片方は先程ステージで乾杯の音頭を取った男。
どうやら男は、隣の女性と口論をしているようです。

少年はこっそり聞き耳を立ててみることにしました。

女性は、涙ぐみながら男に訴えかけます。

「ほんの少しでいいの。
 これまで寄付したお金を返してくれたら……」

それに対し、男は大きく溜息を吐いて答えます。

「そんなことはできないよ。
 もう子供達のために使ってしまったからね」

男の言葉を聞いた女は、激しく泣き出してしまいました。
その光景を見た少年は確信します。

ここは危険な場所だ……一刻も早く、
母さんをここから連れ出さないと、と。

パーティー会場のバルコニーで、
男女の口論を聞いてから、少し経った頃。

少年はようやく母親を見つけることができました。

少年の母親は、誰かを慰めている様子。
それは先ほどバルコニーで男と話して泣いていた女です。

「母さん、帰ろうよ」

少年が幼い声を掛けても母親は、
「今大事な話をしているからごめんね」と謝り、
向こうで遊ぶよう言うばかりです。

どうしたら母親とここから逃げ出せるか、
少年は幼い奸計を巡らせます……

「ねえねえ、お姉さん。このパーティーって、
チャリティパーティーっていうんでしょう?」

少年が見知らぬ女性客に話しかけると、
ここは恵まれない子供達に支援をする場所だと、
パーティーの意味を丁寧に教えてくれました。

しかし少年は腑に落ちない顔で、無邪気にこう続けます。

「ご飯を食べれない子供を助けるためなのに、
ここにはごちそうがいっぱいあって不思議だね!」

少年の無邪気な声は、周りの客達の気を奪いました。

「それにさっきステージに立ってたおじさん、
 あっちで女の人を泣かせてたよ!」

少年は大きな声で、ある事ない事を吹聴して回ります。

周りの大人達は少年を宥めようとしますが、
彼は決して口を閉じようとしませんでした。

その胸にあるのは強い使命感。
母親を守れるのは自分だけだという想いです。

騒ぎを聞きつけた母親は慌てて少年の手を引き、
バーティー会場を後にしました……

「あそこにいた人達は、
 あなたが思うような悪い人達じゃないのよ」

帰りのタクシーで困ったように俯く母の姿に反し、
少年はぐったりと母親の膝に甘えてまどろみます。

もともと人見知りである少年がとった、母を救う行為。
大勢の大人達に声をかけるという、精神的な負荷。

ですが少年の心は、誇らしい気持ちでいっぱいでした。

あの危険なパーティーから、
自分の力で母親を助け出せたのですから。

チャリティパーティーからしばらくしたある日。
少年は家族と一緒にテレビを見ていました。

楽しいひと時。たまに姉と喧嘩をしつつも、
家族みんなでいられる時間が、少年はとても好きでした。

しかし、不意に番組の途中に挟まったニュースを見て、
母親が持っていたコップの紅茶を零してしまったのです。

ニュースの内容は、とある会社の重役が、
会社のお金を横領したというもの。

テレビに映った重役の顔……
それはバーティーで主催の男と口論していた女性でした。
母親が彼女の肩に触れ、
慰めていたあの日の光景を思い出します。

母は零れた紅茶を拭きもせずに、
「気分が悪い」と部屋を去って行きました。

暗い寝室へと入っていった母の背中。
少年は母親が心配で、そっと後を付いていきます。

するとどうでしょう。
いつも明るく穏やかな母親が、
あの日着ていたドレスをぎゅっと握って声を殺し、
はらはらと泣いているではありませんか。

横領で捕まった重役の女性は、慈善活動に入れ込むあまり、
自分の資産をほとんどあの団体に渡していました。

その結果、家も車も何もかも手放してしまった彼女は、
ついに会社のお金に手を付けてしまったのです。

母親はあの日のパーティーで、
横領を思い留まるよう女性を説得しようとしましたが……

結局それを叶えることができないまま、
帰路に就くことになったのです。

母親の涙に、少年の思考が濁っていきます。

あの日、少年は母の幸福を想って、
母を護るために行動したつもりでした。
それは成功したはずと、勝利を噛みしめていたのに……

だとすれば、今この状況は何だと言うのでしょう。
涙を流す母親の背中は、少年が今まで見たどの姿よりも、
悲痛で苦しそうではありませんか。

「私が……もう少しちゃんと話せていたら……」

母の嘆きに、自分の行いの正しさが分からなくなり、
少年の心臓は壊れそうなほど早鐘を打ちます。

そもそも、彼が『悪だ』と決めつけたパーティーも、
本当に悪いものだったのでしょうか。

少年がどれだけ考えを巡らせても、
正解は分からないままでした。

もっと自分が賢い大人だったなら――

社会の仕組みも、大人達の思惑もすべて理解して、
母親を傷つけずに済んだのかもしれない。
そう思うと、喉が絞まったように息苦しくなります。

まだ幼い少年には、
ただただ母の押し殺した嗚咽をその身に受け、
立ち尽くすことしかできませんでした……

記録:幼気の旅

これはまだ『彼女』が幸せだった頃―――

「お願い! お願い!」と、
幼い少女の声がマンションの一室に響きます。

普段は大人しく聞き分けのいい少女ですが、
珍しく父親に『あるもの』をねだっていました。

それは、自分専用の『自転車』。
友達が買って貰ったのをきっかけにして、
欲しいと思う気持ちが抑えられなくなったのです。

少女は頭の中にある理想の自転車について、
毎日のように父親に語ります。
色は何色で、ギアが付いていて、
ぴかぴか光っていて……

父親は困ったように微笑みながら、
自転車はまだ早いんじゃないかなと、
優しく少女の頭を撫でます。

そんな父に対して少女は頬を膨らませ、
不満をあらわにしていました。

ある日、少女が家に帰ると、
リビングに大きな包みが置いてありました。

自分の体よりもずっと大きな、
リボンのついた不思議な包みです。

「それ、何だと思う?」
珍しく早く帰っていた父親の問いに、
少女は見当も付かず首をかしげました。

開けてごらんと父から言われ、
ドキドキしながら彼女は包みを解きます。

すると……

包みの中には、少女がずっと欲しがっていた、
自転車が隠れていたではありませんか!

少女が思わず振り向けば、
父親は優しい笑顔で頷きます。

「いつもいい子にしているご褒美だよ」

夢にまで見た自分の自転車。
少女は喜びのあまり自転車に抱き付きます。

それは少女が想像していた物より、
ずっとずっと素敵な自転車でした。

車体は、夕日を思わせるオレンジ色で、
ほのかに入ったラメが輝いています。

6段階も変えられるギアに、可愛らしい補助輪、
鍵にはヒヨコのキーホルダーが付いています。

まさに、世界に一台だけの少女の愛車です。

目を輝かせ、自転車に乗る自分の姿を思い浮かべる少女。

「一人で乗っちゃダメだよ」だとか、
「鍵はしっかりかけようね」だとか……
今の彼女に、父親の注意は全く届いていない様子です。

それでも普段聞き分けのいい娘が、
こんなにも夢中で喜ぶ姿を見て、
父親は嬉しそうに微笑むのでした。

ずっと欲しかった自転車を買ってもらえた少女。

補助輪の付いた自転車にはすぐに乗れるようになり、
父親にお願いして補助輪を取ってもらいました。

ある日、父親が仕事に出掛けたのを見計らって、
少女はこっそり自転車を運び出します。

週末に父親と練習する約束をしていたのに、
待ちきれなかったのでしょう。
家近くの公園で、一人で練習するつもりのようです。

少女にとって自転車はまだ大きく、
公園まで引いて行くのも大変でした。

ですが、何の支えもなしに自転車に乗れたら、
父親はびっくりするに違いありません。
そう考えつつ、彼女は自転車に乗る決意を固めます。

ようやく公園へ着くと、愛車にまたがり、
満を持して漕ぎ出そうとペダルを踏みました。

ペダルに一杯の力を込めると、
自転車は真っ直ぐに走り出します。

風が気持ちいい……!
意外と簡単に乗れちゃった……!

少女がそう思った途端――

気が付くと……
彼女は地面に体を打ち付けていました。
バランスを崩し倒れてしまったのです。

諦めないでもう一度。
立ち上がった少女は、自転車を起き上がらせ、
もう一度またがってペダルを踏みます。

真っ直ぐ進んだと思うと、車体がふらふらと揺れ……
彼女はまた転んでしまいました。

いつもは何事も要領よくこなす少女は、
どうして自転車に乗れないのかが分かりません。

それでも彼女は諦めることなく、
何度も何度も挑戦して……

その度に転んでしまうのでした。

夕日が沈み始めた頃。

少女の手足には怪我ができ、血が滲んでいます。

そして……
買ってもらったばかりの自転車は、
擦り傷だらけになってしまっていました。

少女は結局、その日一度も自転車に乗れないまま、
ハンドルを引いて家に帰ることになりました。

怪我がじんじんと痛みましたが、それよりも、
自転車に傷をつけてしまったことが彼女の心を苛みます。

諦めちゃだめ……練習すれば……きっと乗れるようになる……
自転車に乗ってお父さんと……どこかにお出掛けするんだ……

明日また公園で……もっと頑張れば……モシ乗レナカッタラ?
……私が傷付ケタンダ……私ならできる……ゴメンナサイ….

オ父サンニ嫌ワレル……無理二決マッテル……鈍臭イ奴ダカラ
本当二悪イ子……自転車が可哀想ダヨネ……デキソコナイ……

足下にできた影を、虚ろな目で見つめる少女。

彼女は心の内で自分を強く責めながら、
寂しい夕暮れの道を、帰っていきました……

少女が自転車の練習をしようとして、
上手く乗れなかった日から数週間

彼女は悲しい気持ちを思い出すのが嫌で、
あれから自転車に近付かずにいました。

ずっと欲しいとねだり、
無理を言って買ってもらった自転車。

練習の誘いを何度か断られた父親は、
少し寂しそうにしています。

それがますます少女の中に罪悪感を募らせ、
彼女は苦しい毎日を送っていました。

ある休日に少女は、
父親がマンションの駐輪場へ行く姿を目にします。

何をしに行くのか気になって、
こっそりその背中を追ってみると……

父親は、少女の自転車を駐輪場から出すと、
布で磨いたり油を差したり、丁寧に手入れを始めました。

少女はいてもたってもいられなくなりました。

「お父さん、ごめんなさい……」
父親に後ろから話しかけ、先日のことを打ち明けます。

約束を破って一人で練習に出かけたこと、
上手く乗れず、自転車から目を背けてしまったこと……

思わず泣きだした少女の涙を、
父親は優しく拭ってくれました。

そして少女が頑張って練習したことを褒め、
一緒に練習しに行こうと声をかけます。

その日の午後、少女は父親に連れられて、
広い公園へと向かいました。

少女は一人で練習した時のように、
何度も転びそうになりましたが、
諦めずに自転車に跨り続けます。

前回のように心が折れることはありません。
何故なら、今日はお父さんと一緒だから。

最初のうちは、コツを教えながら、
自転車の後ろを支えて走ってくれて……

ある程度進めるようになると、
少女が漕ぎ出す度に声援を送ってくれて……

転ぶ度に、心配したり励ましたりしてくれたのです。

練習が続き、よろよろとペダルを漕ぐ少女。
次第にその脚は力強く動きはじめ

ついには父親の周りをぐるりと回って見せました。

「すごいよ! 流石うちの子だ……!!」

父親は喜びのあまり少女を抱え上げ、
その場でぐるぐると回り始めました。

父親はどれほど嬉しかったのでしょう。
それはなかなか止まらず、周りの人の視線を集めても、
ぐるぐるぐるぐるぐるぐると回り続けます。

「お父さん……もう降ろしてよ……!」
少女は、目を回しながら叫びます。

自転車に乗れて嬉しいような、
人に見られて恥ずかしいような……

それでも彼女は、
子供のように無邪気な父の喜びに
しばらく身を委ねていました。

少女が上手に自転車に乗れるようになって、
しばらく経ったある日のこと。

父親が、サイクリングへ行こうと少女を誘いました。
外は日射しの温かな、絶好のサイクリング日和です。

自転車に乗る父親の後をついて、
愛車を走らせる少女。
初の自転車でのお出掛けに、胸が高鳴ります。

ですが……街中まで出て、
大通りを外れた路地へ曲がったところから、
少女は違和感を持ち始めました。

道がどんどんと狭くなり、
先ほどの晴天が嘘だったように、
暗くなっていくような気がしたのです。

路地を吹き抜ける、湿気った肌寒い風。
人の気配が消えたような、異様な静けさ。

それは先へ進むにしたがってひどくなり、
少女はお化けが出そうだと怯えはじめました。

「本当に……この道であってるの……?」
父親に声をかけても、聞こえていないのか、
止まってもくれません。

それどころか、
少女が追いかけていくのが精一杯の速さです。

不安で、とうとう少女が泣きだしそうになった時―――

暗い裏通りを抜け、
空がばあっと明るくなりました。

見ればそこは、少し寂れた雰囲気の商店街。
父親は自転車を止めて、少女を笑顔で待っています。

約束の時間を気にして急ぎ過ぎたと父親は謝り、
しっかり着いてこれた娘を、大袈裟に褒めました。

「さあ、僕の秘密の場所を教えてあげる」
微笑む父親の近くには、少し古びた外観の『喫茶店』。

目を真ん丸にする少女に父親は、
仕事の息抜きでよく来るお店だと説明します。

いつか少女が自転車に乗れるようになったら、
どうしても一緒に来てみたかった場所なんだ….
娘の成長が身に染みるように、穏やかに父は言いました。

店内を照らす、黄みがかった電球。
理科の実験に使うような、
ガラス器具から漂う珈琲の香ばしい匂い。

父親が少女を連れて入った喫茶店は、
どこか時間がゆったり進んでいるような、
少女が触れたことのない空気をまとっていました。

「いつもの珈琲を頼みます」

父親は店主らしき男性に慣れた口調で伝え、
続けて少女のためにプリンをお願いしました――

珈琲とプリンを親子は口に含み、
その美味しさに顔を見合って微笑みます。

「今度は家族みんなで来れるといいね」
曇りない笑顔で口にした、父の言葉。

いけないと思いつつも、
『もう少しこの場所を、二人だけの秘密にしたい』
と、少女は思ってしまうのです。

父と一緒に困難を乗り越え、辿り着いた思い出。

さっきまで甘かったプリンのカラメルソースが、
不思議と苦く感じられるのでした……

記録:聖祈の戦

どれだけの年月を経ても終わりが見えない、
人類の天敵『花』と、
囚われの兵―――囚人達の闘争。

囚人達の日々には、
喜びも希望もありません。

今日も上からの指示で『花』を撃退した後、
囚人たちは周辺地域の調査に向かいます。
荒れ果てた荒野を歩む彼らの顔は、
疲れ切っていました。

そんな中。
戦場となった市街地の古い倉庫で、
一人の囚人が珍しいものを見つけたようです。

それはすぐ壊れそうな脆い素材で作られた、
チープながらも鮮やかな色の飾り。

「聖なるパーティーの飾りかもしれない」

その時、物知りの囚人が、
ぽつりと呟きました。

しかし他の囚人達は、
その言葉に反応できません。

そんな彼らに、物知りの囚人は更に説明をします。
聖なるパーティーと呼ばれる文化は、
まだ『花』の脅威に晒される以前の世界でも、
一部の者しか知らない廃れかけたお祝いなのだと。

興味を持った囚人達は、
聖なるパーティーがどんなものか、
興味津々で物知りの囚人に話をねだります。

しかし実のところ、
パーティーのことを口にした囚人も、
過去の記録の、一部を知っていたのみ。

派手に飾り付けられたロビー。
淡い雪を纏う大きなもみの木。
大切な家族と過ごすバーティー。

その断片的な情報は、却って囚人達に、
過去に対する夢を膨らませたようで、
思わず一同は色めき立ちます。
やがて一人の囚人が、
実際にパーティーをやってみようと言い出し、
囚人たちは飾りを持ち帰る準備を始めました。

物知りの囚人の話だけでは、
何に使うのか想像もつかない装飾の数々。

「リースというものはどこに飾るのだろう」

リースを持ち上げ睨むように見つめる者。

「モールとは何を象徴しているんだ」

とりあえずモールを自分の体に巻きつける者。

「この大きな靴下はこのようにも使える」

靴下を帽子のように被る者。

右往左往しながらも、
囚人達は楽しそうです。

「たまにはこんな日もいいわね」

ある囚人の女が、
皆を眺めて微笑ましそうに言いました。

しかし女の夫である男は、
苦々しそうに眉を顰めています。

「今は戦時中なのに。
 パーティーなど戦死者への冒涜だ」

男は他の囚人達に背を向け、
基地へと歩みを進めます。

妻である女は、
そのうら寂しい背中を見つめながら、
何も言葉をかけられませんでした。

聖なるパーティーの存在を知り、
盛り上がる囚人達。

彼らはこの時代にパーティーを復興させようと、
準備をはじめています。
中には祝福の歌を口ずさみながら、
嬉しそうに壁を飾りつける囚人もいました。

持ってきた飾りの中にあった、
「音の鳴るぜんまい仕掛けの箱」が、
昔の曲を記録していたのです。

そしてパーティーの数日前、
そんな和気藹々とした雰囲気の中。

パーティーを開くことに、
最初から異を唱えていた一人の囚人。
彼には、浮ついた仲間の振る舞いが、
我慢ならなかったのでしょう。

男と仲間たちの間でついに喧嘩が起こり、
そのあおりを受けて大事なツリーが壊れてしまいました。

ロビーを追い出された男は、
自室に一人で籠っていました。

茫漠とした時間を過ごしていると、
男の妻である女が戻ってきます。

女は男がしでかしたことを、
すでに知っているようでした。

落ち込んでいるような、
納得できないような、
複雑な表情をしている男。

そんな彼に、
女は優しく話しかけます。

「私達は確かに、息子の仇を討つために戦っている。
 けれど何かに楽しみを見出すのは、
 悪いことではないわ」

男が答えあぐねていると、
女が男に何かを手渡してきました。

それは愛らしいリボンがあしらわれた、
パーティー用のオーナメント。

男の厳つさには似合わない、
子どもっぽい飾りでしたが、
不思議と男の心が和らぎました。

日が沈み、女は男の様子を心配しながらも、
先にベッドで眠りに就きました。

一方の男はなかなか眠れず、
貰った飾りを眺めていました。

妻が言葉に込めた思いやり。
飾りを渡す彼女の手から伝わってきた、
仄かだけど確かなぬくもり。

それが男のささくれた心を柔らかくし、
癒やします。

しかし安らぐが故に、
男の心には相反する痛みが生まれました。

こんな状況でも癒やされてしまうこと。
そんな自分の心持ちがそもそも、
戦死者を冒涜しているのではないか。

自分がそんな癒しを感じることなど、
死者が許さないのではないか。

正解のない問答を、
己の中で続けている内に、
要らぬ力が入っていたのかもしれません。

気づくと手の中の飾りに、
ヒビが入っていました。

聖なるパーティー。
その起源と意味が忘れられてから
どれだけの時が過ぎたのかもわかりません。

聖なる力が増すはずのその日、
『花』はこれまでにない勢いで、
猛威を振るっていました。

絶望的なまでの逆境。
であるのに囚人達の士気も、
これまでにないほど高くなっています。

特に息子の仇を討つために戦う男は、
巨大な『花』に痛恨の一撃を受けつつも、
湧き上がる不屈の闘志で反撃しました。

男の腕には、
妻からもらった飾りにつけられていた、
可愛らしいリボンが結ばれています。

これがあるだけで男は気力が萎えず、
体力も衰えることがないように感じました。

仲間達にも助けられ、
辛くも男は、
奇跡的な勝利を得ることができました。

満身創痍ながらも、
勝利を噛み締める男。

ふと見れば周りの囚人達の何人かも、
パーティーの飾りを身に着けていました。

彼らの表情は浮かれているどころか、
命を燃やしてこの世界のために戦う、
勇猛なる戦士のそれ。

男と同じく、
『花』に自分の命より大切なものを奪われ、
それでも乗り越え……

前に進もうとする者達の強い覚悟が、
その瞳に宿っていました。

戦場にありながら華やかな色をまとう囚人達が、
お互いを称え合います。

その中には、
パーティーを疎んでいたはずの、
男の姿もありました。

いつの間にか誰かが、
パーティーを祝福する歌を口ずさみはじめます。

それに倣って、
一緒に歌う男。

メロディも歌詞も、
覚えようとしたわけではありません。

しかし男の耳と口と心は、
その歌をしっかりと覚えていました。

滅びた市街地に、
囚人達の合唱が響きます……

あの伝説の戦いとパーティーから、
一年の時が流れました。

浮ついているようにも見えたその祝宴は、
日々の辛い戦いと、穢れを発散する機会。

そして各々が抱く喪失の過去を想いながら、
覚悟を新たにする、大切な儀式となりました。

囚人の男も、
去年妻に贈られたリボンの飾りを取り出して、
感謝と決意を胸に闘志を燃やします。

そんな男は去年自分が壊してしまったツリーを、
自ら修復していました。

己の理不尽な怒りを反省し、
同じ目的に向かって戦う仲間達と、
パーティーに興じる。

その楽しみがあるから。
今日という日があるから、
男は戦ってこられました。

「たまにはこんな日もいいわね」

男は一年前の、
妻の言葉を思い出します。

そしてとある隠し事を用意しつつ、
妻の帰りを待ちます。

はらはらと落ち着かない様子で、
立ったり座ったりと忙しい男。
仲間達も心配してくれています。

「彼女は喜んでくれるだろうか……」

呟くその声には、
不安と淡い期待が込められていました。

男が隠し持っているのは、
自分で作った妻へのプレゼントです。

不器用な彼のプレゼント作りを手伝ってくれたのは、
共に暮らし戦う仲間達。

彼らは何を渡せば喜ばれるのか、
どんなものなら愛情が伝わるか、
相談にも親身に乗ってくれました。

やがて完成したのは、
夫婦お揃いのブレスレット。

かつての男であれば、
見るだけで憤怒しただろう代物。
しかし今はまったく考えが変わっています。

戦死者を弔い、
その無念を忘れずにいることも、
大切なことでしょう。

けれども今、
隣にいる仲間を愛し、
自分を案じてくれる家族を愛し、
日々希望を積み重ねていくことも大切です。

「たまにはこんな日もいい」
未来へと繋がる言葉を紡ぎ、
明るい心持ちで待つ男の元に、
妻が帰ってきました。

緊張する男の表情を不思議そうに見つめる妻に、
男はプレゼントを渡します。

――――そして。
皆が待ちに待った、
今年の聖なるパーティーがはじまりました。

記録:落星の崖

月の明るい、
けれども風の冷たいとある夜。

辺境を旅する少年と、彼を守ると誓った機械の従者が、
小さな洞窟に隠れ潜んでいました。

今、彼らを追い詰めているのは、
少年が暮らしていた国の機械兵達です。

―――これで何度目の襲撃だろうか。

少年の正体は、母国を追われた元王子。
彼は追手の多さに塞ぎこみかけていましたが、
今回は事情が違いそうです。

元王子の少年と従者の男が外を窺うと、
機械兵達を指揮する男の姿が見えました。

追手を指揮する男は機械兵ではなく人間。
二人は彼に見覚えがあります。

彼は王子がいた国で、
護衛騎士団を率いる団長だった、
伝説の騎士。

年齢が理由で一線を退き、
若い騎士の指南役に徹しているはずです。
長らく前線には立っていませんでしたが、
その実力は間違いなく群を抜いているでしょう。

従者の男は、元団長の記録を呼び出します。

―――あれは周辺国との、とある戦争。
元団長が率いる精鋭部隊に配属された時の記録。

エリートの騎士でも苦戦を強いられる逆境で、
元団長は鬼神の如く凄まじい勢いで活躍していました。

機械兵であれば高精度のセンサー等で判断する局面。
元団長は機械には存在しない直感に従い、
機械では想定できない戦法で状況を打破します。

優れた精鋭騎士と比較して、27%増の反応速度。
機械兵の平均的データと比べ、18%優れた射撃命中率。
他のパラメータも最新の機械兵に匹敵します。

従者の男が戦闘のセンスを定義するのであれば、
彼はその「塊」と呼べる存在でした。

当時の彼が従者の男に対し、よく語った言葉。

「人の上に立つ者は、民の事を第一に考えるべきだ。
 お前が仕える王のように」

彼が何を伝えたかったのか、
その時の男は理解できませんでした。

「ついに彼も、
 私を殺しに来たのか……」

元団長の存在を確かめ、
悲嘆に暮れている少年。

幼いころに母親を亡くし、
体も弱かったことから、
少年は第一王子でありながら、
肩身の狭い思いをしていました。

心を閉ざし孤立する少年に、
それでも家族のように優しく接してくれたのは、
元団長の彼くらいなもの。

―――そんな彼が。

王国を支配する父親の命によって。

少年を、
始末しに来たのです……

王国の追手である元騎士団長から逃げ、
隠れていた洞窟を抜ける、
元王子の少年と従者の男。

気づくと少年達は、
一歩進めば奈落に真っ逆さまの、
断崖絶壁に辿り着いていました。

追いつかれてしまった少年達は、
機械兵と交戦せざるを得ません。

そして今。

少年の前に、
元団長が迫ります。

少年は元団長によってあっと言う間に、
崖際まで追いつめられました。
従者である男が、主を守るため、
元団長の前に立ち塞がります。

少しでも足を踏み外せば終わり。
絶体絶命の危機に、
必死で呼吸を落ち着かせる少年。

すると元団長が突然、
武器を下げて言いました。

「これが最後の機会です、王子。
 今なら王国に戻ってやり直せます」

冷静に、
穏やかに。

かつての彼のように優しい、
幼い少年をなだめる声です。

しかし少年は少しの迷いもなく、
そして焦ることもせず、
堂々と告げました。

「私には私の使命がある。
 貴方こそ最後の機会です。
 兵を連れて王国に戻りなさい」

元団長はその言葉と少年の凛とした表情に、
ハッと佇まいを正します。

――病弱で守られるだけだった少年。

いつの間に、
こんな顔ができるようになったのか。

「変わられたのですね、王子」

威厳がありながらも、どこか柔らかな声。
元団長は昔のように優しげな目で、少年を見つめました。

元王子の少年が、
元団長と見つめ合っているその時。

突然機械兵の一人が、
はっきりと明瞭な声で宣言しました。

「王の命により、
 内部の不穏分子を抹殺する」

他の機械兵達も同じように、
同じ声音で冷たく宣言します。

どういうことなのか。

元王子の少年が混乱しながら疑問を口にすると、
機械兵達はプログラムに従い、
この作戦の真の目的を語りはじめました。

元団長が王国への、
裏切りの意思を持っていること。

その意思を知った王が少年と従者の男もろとも、
元団長を密かに抹殺しろと、
機械兵に命令した事実を。

元団長は最初から、
敵ではなかったのです。

機械兵達の武器の銃口が、
切っ先が、
一斉に元団長のほうを向きました。

まずは手練れの元団長を仕留めようと、
機械兵達は画策したようです。

覚悟していたのか、
まるで動じない元団長。
しかし危機を察した少年は、
咄嗟に従者の男へ命じました。

「彼を守って」

その言葉を聞いた従者の男は、
瞬時に体勢を変えます。

―――元団長の男と共闘し、
この場を脱するための体勢に。

機械兵が発砲し、
その弾が元団長の体に命中しました。

しかし元団長と従者の男は飛び出すように駆け出し
長年の相棒であるかのような連携で、
機械兵達を始末していきます。

嵐のようでした。

そんな中で従者の男は、
不思議な高揚感に包まれています。

本来は戦闘兵器として製造された男。

その自分と互角か、
それ以上の戦闘力を持つ人間との、
久方ぶりの共闘。

機械の心であろうと、
この昂りは抑えられません。

元団長と従者の男は絶妙のコンビネーションで、
機械兵達をなぎ倒していきます。

従者の男と元団長は、
何とか機械兵達を倒すことができました。

かつての記憶以上の、
猛烈な二人の強さに、
元王子の少年は唖然としています。

そんな少年と従者の男に向かって、
元団長は事情を話しはじめました。

数々の戦争を引き起こし、
無辜の民を犠牲にする今の国王を、
信じることができなくなったと。

だから民を導く真の王を求め、
探していたと。

自分が抹殺対象として狙われていると知りながら、
少年の追手として行動していたのも、
少年の王としての資質や覚悟を試すため……

少年と従者の男は、
元団長の苛烈な決意と行動に、
言葉を失います。

すると元団長の体が、ぐらりと揺れました。
機械兵の銃撃で受けた傷は、
思ったよりも深かったようです。

なんとか彼を支える従者の男。
少年は治療道具を取りに、
走り出しました。

そんな少年の背中を見て、
元団長は掠れた声で述べます。

「王子は、王になるには優しすぎる……」

すると従者の男が言葉を返します。

「昔、貴方が言っていた、人の上に立つ者の在りかた。
 王子はそれを、体現しているのではないでしょうか」

淡々と、しかし偽りのない強い口調で。

元団長は微笑みます。
その心には王を信じていた時代の、
様々な想いが去来していました。

―――この二人なら。
少年と彼が一緒にいるならば大丈夫だろう。

少年の体は人として弱い。
だが彼は誰よりも優しい。
そして彼にしかない気高さや、他者を思う真の強さがある。

元団長はようやく真の希望を知れたのです。

少年が治療道具を持って駆けつけた時には、
すでに元団長の命は潰えていました。

その表情は安堵しきって、
やり遂げた男の顔。

少年も従者の男も、
余計な言葉は発しません。

やがて夜が明け、
少年達は崖から日の出を眺めます。

じっと立っていた少年が、
新しい朝に向かって呟きました。

「貴方と私のやりかたは違うかもしれません。
 けれど私は必ず、民を平和に導きます」

――どうか見ていてください。

決然と述べる小さな少年の背と朝の光を、
従者の男は瞬きひとつせず、
見つめ続けていました。

記録:転生の檻

暗雲の下に聳え立つ、石の塔。

今にも崩落しそうなその場所に、少年が一人。
じっと前を見据えながら、静かに佇んでいました。

彼の灰色の瞳に映る景色が、ノイズに霞みます。

―――――『檻』は崩壊の一途を辿っていました。
「敵」から、攻撃を受けているのです。

「大丈夫よ。先に進みましょう……」

そう言ったのは、ママと呼ばれる不思議な生物。
少年は頷くと、歩み始めました。

今、『檻」に保存された記憶の物語は、
「敵」の攻撃によって形を歪められています。

それは『檻』のどこかに保存された、
少年自身の記憶も同じこと。

自分の記憶を見つけ出し、正しい形に修復する――
それが、少年の目的でした。

石畳の道を、しばらく進んで。
少年とママは、歩みを止めました。

霞んだ空に大きな黒い鹿が二頭。
ほぉっと、立ち尽くしているのが見えたからです。

その体躯はともすれば、
石の塔より大きいかもしれません。

少年が目の前の光景に、茫然としていると―――

二頭の鹿が、呼応するように咆哮しました。

石畳を揺らす地鳴り。びりびりと痛む耳。
思わず傾いだ少年の身体を、ママが支えます。

そして、次の瞬間。
大きな揺れが再び『檻』を襲いました。
二頭が、激しく戦い始めたのです。

角と角とが衝突する轟音。
人の声にも似た叫び。

それらの衝撃で巻き起こった風が、
少年とママを斬るように吹き付けました。

足元では、石畳が悲鳴をあげるように震えています。
この場所が崩落するのも、時間の問題でしょう。

「大変、早く逃げないと!」

幸いなことに、二頭の鹿は少年達に気が付いていません。
ママの声に急かされるまま、少年は走り出します。

崩れ落ちる石畳、降りしきる瓦礫。
少年とママは互いに励まし合いながら障害を乗り越え、
『檻』を駆け抜けました。

走って、走って。やがて辿り着いた静寂の場所。
二人はようやく、脅威から解放されたのです。

しかし安堵するのも束の間。
ママが、あっと小さな悲鳴をあげます。

彼女は、白い布の中から懐中時計を取り出しました。

「また一つ、針が進んでしまったわ」

――――その針が示すのは終末までの残り時間。
『檻』が滅びるまで、もう時間がありません。

滅びの運命は避けられぬとしても――せめて。

大切な人達と築き上げた記憶を、
在るべき形で終わらせたい。

最後の望みを叶えるため、
少年は再び歩み始めます。

『檻』に迫りくる終焉。
最早、滅びの運命からは逃れられません。

それでも少年は、ママと共に旅を続けます。
せめて最後に、自らの記憶を修復したいと願って……

長い螺旋階段を上がった先。
そこに広がる光景を見て、少年は息を呑みます。

どこまでも続くような、大理石の廊下。
窓の外に見える美しい中庭。

ここは、かつて少年が暮らしていた王城に瓜二つ。
いえ――そのものと言っても、過言ではありません。

少年の記憶が保存された場所が、
近くにある証拠かもしれない。

そう説明するママの傍らで、
少年の顔に複雑な色が浮かびます。

この場所に染み込んでいるのは、
幸せな思い出ばかりではないからです。

戦争を繰り返し、人々を苦しめた父王。

彼を止められなかった自分……
戦争を起こすきっかけを作った、自分自身。

この城は少年にとって、
自らの罪悪の象徴でもありました。

それでも少年は、ママと共に前へ進みます。

やがて辿り着いたのは、埃をかぶった部屋でした。

ひっそり忘れ去られたような、寂しい空気。
天井近くの窓から差し込む光が、
汚れた調度品をきらきら照らしています。

ここは、少年が幼い頃に亡くなった母の部屋。

どれほど埃に塗れても、少年にとっては、
決して色褪せることのない思い出の場所です。

……けれど、思い出に浸っている時間はありません。
彼はママと共に、部屋を後にします。

そして廊下に出ると――
少年の目に、遠くの突き当りで蠢く複数の影が映りました。

それは『機械兵』と呼ばれる、人の形をした兵器。

侵入者を探して彷徨う彼らは、
少年の存在に気が付くと、武器を構えました。

少年とママには、機械兵を退けるほどの力がありません。
どうしようと逡巡する少年に、ある記憶が蘇ります。

この廊下には、有事に備えて、
隠し通路が設置されている―――

かつて母がそう話していたことを、思い出したのです。

少年が壁の一点を力強く押すと、僅かな隙間が生じました。

その隙間を押し広げ、二人は壁の内側へ――
闇の中へと身を投じます。

そこには、長い長い通路が続いていました。
少年はママを先導して、走り出します。

しかし、優秀な兵器を欺くことは容易ではありません。
振り向けば、機械兵達が追ってくるのが見えました。

「どうしましょう……!」

ママが叫びます。
けれど少年の胸に、恐れはありません。

少年はかつて従者と共に、
こうして城の追手から逃れたことがありました。

あの時彼がくれた、自由になるための勇気。
それを思い起こせば、恐くはないのです。

少年は暗闇の中、壁をまさぐりました。

指を伝う、朽ちた土の感触。
その中に、冷たい金属の突起を――レバーを見つけます。

彼は力いっぱい、それを引き下げました。
すると少年より後方の床が、勢いよく落下します。

機械兵達もまた、地下へと真っ逆さま
奈落の底へと、消えていくのでした。

やがて、二人が辿り着いた城の大広間。
その中央に、黒い彫像が佇んでいました。

ママが『カカシ』と呼ぶそれの中には、
人々の記憶の世界が広がっています。

もしかしたらこの中に、
修復すべき少年の記憶があるかもしれません。

彼は目を閉じ、ここまでの道のりに想いを馳せます。

自分に大切なものをくれた母。
そして、自分と同じ道を歩んでくれた従者。

あの優しい記憶が失われることなど、
決してあってはなりません。

だからこそ、少年は決意を新たにしました。
歪められた記憶を、必ず元の姿に戻すのだと。

そして少年は凛とした面持ちで、
カカシに手をかざすのでした。

「敵」による『檻』への襲撃。
壊される、記憶の物語―――

少年は自らの記憶を修復するため、
ママと共に『檻』の旅を続けていました。

そして少年はママに見送られ、
一人でカカシの中へと入っていきます。

カカシの中に広がる世界。
そこは、一面に広がる豊かな草原でした。

ざわめく木々の音。
透き通った水の香り。

平穏な情景が、少年の胸を満たします。

ここはどこでしょう。
少年は、あたりを見回します。

澄んだ空に浮かぶ稜線の形は、どこか見覚えがありました。
もしかしたらここは、祖国の近くかもしれません。

がさごそ……近くの木陰から、物音がしました。
何者かの気配に、少年は身がまえます。

そして木の影から―――
美しい黒髪の姉妹が、ひょっこり。
二人揃って、顔を出しました。

妹は髪に絡みついた木の葉を払いながら、
不思議そうに目をパチクリさせています。

「あなた、ひとりなの?
 私とお姉ちゃんと、一緒に遊ぼうよ」

少年は、突然の誘いに戸惑います。

すると大人びた姉は、妹を優しく窘めました。
お兄さんを困らせてはいけないよ、と。

しゅんと俯く、幼い少女。

記憶の修復を急がなければいけないけれど―――
少年は、彼女を傷つけたくはありません。
だから、ほんの少しだけならば。

「はい。私と一緒に、遊びましょう」

それから三人は、仲良く遊びました。

かけっこをしたり、かくれんぼをしたり……
生来、身体の弱い少年ですが、この世界では、
好きなだけ駆け回ることができました。

そして少年は幼い少女に手を引かれ、
野花の咲き誇る場所へと導かれます。

そこで彼は、花の冠を編んでみせました。
姉妹は、少年の器用な手先に歓声をあげます。

その光景はかつて少年が望んだ、
平和な世界そのものでした。

すっかり少年に懐いた少女は、彼に名前を問います。
少年は、二人に自らの名前を明かしました。

――――祝福がこめられた、その名前を。

けれど少年の名前を聞いた姉妹は、
さっと顔色を変えてしまいました。

妹は、幼い声を震わせて言います。

「ねえ。それは、悪い王様の名前だよ。
 戦争をたくさんする、灰色の瞳の王様……」

一体、どういうことでしょう。
少年は言葉に詰まり、沈黙します。

「ごめんなさい..
 遊んでくれて、ありがとう」

姉はそう言うと妹の手を引き、
足早に去っていきました。

少年の手から、
編みかけの花冠がぽとりと落ちます。

その灰色の瞳に映るのは、
怯え、逃げるように遠ざかっていく姉妹。

彼にはそれが、耐え難いほど残酷な光景に思えてなりません。

そして少年は、思わず目を閉じました。

少年が、世界を拒絶したからでしょうか。
気付けば彼は、カカシの外に戻って来ていました。

「……おかえりなさい」

憔悴した面持ちの少年に、ママが声をかけます。
それから二人は、このカカシについて、
分かったことを話し合いました。

カカシに保存されていたのは、
少年自身の記憶ではなかったということ―――

少年と同じ世界で生きた、
他の誰かの記憶だったということを。

「敵」によって歪められたその世界では、
少年が王となり、戦争を先導していたのです。

在るはずのない記憶。
「敵」に壊され、正しい姿を失った物語。

それがどれほど残酷でも、目を背けてはいけない
壊された記憶は、在るべき形に修復しなければ。

少年はそう自らを律し、静かに手を握りしめました。

あとたった一つだけ、
カカシの反応があるとママは言います。

二人は最後の望みを胸に、再び歩き出しました。

カチコチ……

終末へのカウントダウンを刻む時計が、
またひとつ進みます。

それでも。本当の最後が訪れる、その時まで。
二人が歩みを止めることはないでしょう。

針と針とが、重なろうとしています。

その時計が示すのは、
『檻』が滅びるまでのカウントダウン。

もう時間がありません。

少年は、自らの記憶の物語を修復するため、
ママと共に焦燥の旅を続けていました。

――――そして今。

二人は『カカシ』の前に立ち尽くしています。

カカシ――壊れ、崩れ落ちたカカシ。
最後の希望は、粉々に砕けて輝いていました。

ママが感知した反応を追いかけて、
辿り着いたここは、玉座の間。

それは少年が望もうが望むまいが、
決して、手が届くことのなかった場所。

昏い影に沈み、静寂に満ちた父の部屋。

この場所にあるカカシの中には間違いなく、
自分の記憶が保存されていたであろうと、少年は思いました。

しかし―――

カカシはステンドグラスから漏れる光に包まれて、
闇を洗い流されるかのように、消えてしまいました。

少年が旅の果てに見た夢は、もう叶いません。

「……まだ、方法があるはずよ」

そう言ったママに、しかし少年は首を振ります。
彼女の言葉が優しさに過ぎないことも、
希望が打ち砕かれたことも、少年には分かっていました。

その証拠に――ママが持つ時計はもう、
終焉の刻を示しているのですから。

どうせ最後ならば。
手に入らない奇跡を求めるよりも、
今ある奇跡を大切にしたい……

少年は、ママにそう告げました。

そして少年は、静かに腰を下ろします。
――――かつて父が人々を導き、そして苦しめたその玉座に。

少年はママを手招き、膝の上に抱きました。
そして、ここまでの旅路に想いを巡らせます。

ママと過ごした時間は、楽しいものでした。
かつて従者と共に旅したあの時間に、
少しだけ似ていたような気もします。

蘇る様々な思い出に、少年は唇を綻ばせました。

「ママ……私をここに導いてくれて、
 ありがとうございました」

従者を。家族を。民を―――
もう一度、大切な人々を想う時間をくれたこと。

それは少年にとって、得難い奇跡でした。

歩んだ道が、失敗に続くものだったとしても。
すべての記憶が失われたとしても。

きっと、本当に大切なものが消えることはない……

そう信じられるほどに。

けれど、それでも。
たった一つだけ。この期に及んでもまだ、
捨てられない願いがあるのです。

それは―――

「もう一度、彼に会いたかったな……」

記憶の世界でもいいから、会いたかった。
共に歩んでくれた、たった一人の従者に。

……
…………
………………

……
…………
………………

静謐の中。
聴こえるのは、時計の歯車が回る音だけ。

やがて針と針とが重なって。
少年の灰色の瞳に、光が迫ります。

叶うことのなかった夢も、
従者と共に歩んだ旅路も。

少年の記憶はすべて―――



終焉の光に消えました。

『檻』の消滅を確認したわ。

この分岐では「敵」の攻撃を、
食い止めることができなかったの。

けれど貴方が観測する分岐ではきっと、
「敵」の根源を絶ってみせるわ。

ママ、信じているのよ。

これから貴方が出逢う、沢山の記憶の物語……
皆なら、きっとどんな困難も乗り越えられるって。

そして、ごめんなさい。
あの子には辛い想いをさせてしまったわね。
でも……彼の意思は必ず引き継ぐわ。

だからお願い。貴方にも協力してほしいの。

貴方が見届ける分岐では――――
一番に、あの子と大切な人を会わせてあげましょう。

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